がん告知から抗癌剤まで(1)

■ 健康】がん告知から抗癌剤まで(1)        黒岩 義之            

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  私は昭和4年2月の早生まれである。今月で齢78歳8ヶ月、我ながら歳をと
ったものだと思うが、昭和17年春、旧制中学一年乃至二年修了で広島陸軍幼年
学校に入校した同期生百五十人の中では、一年修了組の私は三番目の年若であっ
た。私より若かった二人もいまは鬼籍に入り、生存する同期生の間では一番の若
年というわけで、「お前は一番若いんだから、最後まで長生きして我々を送るん
だぞ」と何かにつけて冷やかされている。「そんなこと分るもんか」と口では言
い返しているのだが、母親が九十二歳まで長寿を保ったこともあって、私も内心、
九十歳くらいまでは生きられるかなと思っていたことは確かである。

  不規則な、碌に休みもなかった新聞社の現役時代でも、病気で会社を休んだ記
憶は数えるほどしかない。「毎日が日曜日」の生活に入ってからでも、冬に風邪
を引いたことは殆どなく、週一のゴルフに励み、海外旅行もここ十年、旅仲間と
年に一、二回、欠かさずに出かけた。旅先も中国からラオス、ベトナム、カンボ
ジア、タイ、ミャンマー、インド、スリランカ、インドネシアなど人のあまり行
かないアジアの僻地が主で、遠くはモロッコまで足を伸ばしたこともあり、何時
の場合も現地のお酒や食事を楽しみ、歩き回っても疲れることはなかった。 中
国雲南の玉竜雪山では標高4500メートルの展望台に登っても高山病にかか
らなかったし、特に一昨年7月シルクロード再訪の旅でトルファンの「交河故城
遺跡」を見学した際は、摂氏45・5度の炎天下を歩き通して平気だったことも
あって、健康には人一倍自信があった。
  ところが今度の思いも拠らぬアクシデントで、その自信は他愛なく粉砕された。
これで寿命が十年縮まったことは確実だし、90歳どころか80歳の大台を超え
ることが出来るかどうか。
  まことに、人間の健康ほど儚いものはないと思い知った。


◇膵臓に腫瘍のご託宣


  今年に入ってどうも腸の具合がおかしかった。そこで3月初め、近くの「聖母
病院」で腸の内視鏡検査を受けたが、ポリープを三つほどとったものの異常なし。
然し一向に腸の違和感は消えず、下痢や軟便が続き体重が目に見えて減ってきた
ので、再度同病院の医師に訴えると、それではと腹部のCT検査を3月24日に
受け、その結果を月末の28日に聞きに行った。
  ところが何と、結果は“膵臓に腫瘍の疑いあり、直ぐ検査入院を”という御託
宣。翌日入院して十日間ほど同病院で精密検査を受けているうちに黄疸が発症し
た。
はじめは家内に言われて自分でも気づいたが、そのうち病院の風呂に入って愕然
とした。脱衣所の鏡に映った我が身体は全身まっ黄色、しかもあばら骨が浮き出
て、自分でも驚くほど痩せていた。入院前の体重63キロがなんと55キロ、こ
れはただ事ではないぞとことの重大さを実感した。

  4月11日夜主治医に夫婦ともども呼ばれて「膵臓に腫瘍」という検査結果を
告げられ、東京女子医大病院に転院を紹介された。聖母病院では専門の医師も設
備も少なく、手術が出来ないということであった。
  翌朝早く聖母病院から東京女子医大病院にタクシーで乗り付け、消化器外科の
外来に受診、聖母病院で予約してあったせいか、殆ど待たされることなく診察室
に呼ばれた。なんと医師は藤田泉という、美人の女医さんであった。恐らく東京
女子医大出身なのだろう。女子医大病院だから女医さんが居ても不思議はないわ
けだが、己にめぐり合うとは予想外であった。その藤田医師の指示で翌日入院、
まず黄疸の処置にとりかかることになった。

  検査結果では“腫瘍”という言葉が使われていたが、ガンであることは間違い
ない。黄疸も、膵臓ガンが胆管を塞いだため、胆汁が肝臓に逆流し血管から皮膚
表面に滲み出てきたからだという。 胆汁は肝臓で作られ、胆管を通って一時胆
嚢に貯えられる。食物が食道から胃に入ると、胆嚢に貯蔵された胆汁が再び胆管
を通って膵臓に入り、十二指腸への入口で膵管からの膵液と合流して十二指腸に
排出される。それによって食物の消化が助けられる仕組みだそうだ。その胆管が
潰されて、胆汁が肝臓に逆流し血管に浸透してきているのだから、胆管を拡げて
逆流を止めなければならない。

  通常、健康体では血液1デシ・リットルに含まれる胆汁の量(総ビリルビンと
いう数値で示される)は0・3~1・2mgだが、私が女子医大に入院した時は
27mgもあった。そこで緊急に処置されたのは、胆管に細い管を挿入し、その
管を十二指腸から胃・食道を経て鼻腔から外に出し、その管を通して体外に胆
汁を排出することだった。
  さすが最近の医術の進歩には驚かされたが、潰された胆管に管を通す方法は、
口からの内視鏡によるものであった。この内視鏡は、口から食道を経て十二指腸
に達すると胆管に向けて先端から横にパイプ状の管を挿入、上手く繋がったとこ
ろで内視鏡を引き上げ、管の一方の端を鼻の穴から体外に出し、その細い管を通
って胆汁が排出され、体外の貯蔵器に貯えられる仕組みだ。

  内視鏡の操作は藤田医師が担当で二十分くらいかかっただろうか。耐え難い苦
痛もなかったが、「はい終わりました」と言われたときはほっとした。ただこの
方法では三食三食、食物の消化物が胃から十二指腸・小腸へと通るためパイプが
外れ易いのが難で、私の場合二回も外れてパイプの挿入をやり直す羽目となった。
こうしたトラブルを避けるため体外から直接、肝臓に管を差込み、肝臓内の胆管
に繋いで胆汁を外に排出するやり方もあり、それだと管が胆管から外れる心配は
ないというが、なにしろ血の塊である肝臓にメスを入れるわけだから、麻酔の必
要もあり前者の方法より危険度が高いといわれて敬遠したことを覚えている。


◇胆汁を一気飲みに


  パイプを通って胆汁が排出され貯蔵器の量が増えてくるのを見ると、これで黄
疸が治ってくると如何にも心強い感じがしたものである。ところが、暫く経って
医師から「この胆汁を朝・昼・夕食後に、200~250cc飲め」と指示された
のには驚いた。黒褐色の、見るからに不味そうな胆汁を飲むのだという。
  胆汁には、脂肪分を吸収する能力や多くの栄養素を含んでいるので、体外に出
しっ放しでは身体に栄養分が取れないからだという理由だが、流石にビール小ジ
ョッキ分くらいの胆汁が入ったコップを看護師さんから差し出された時にはた
じろいだ。

然し“医師の指示には勝てぬ”と腹を決めて一気飲みの要領で飲み干した。苦
い味であったが無臭に近く、流石に体液の所為か胃に入ると違和感はなく無事に
収まった。やれやれ何とかなりそうだと最初は楽観したのだが、毎日毎日、三度
三度の胆汁嚥下が続くとさすがに参ってきた。とりわけ4月末、胆汁排出管が外
れて三度目を繋いだとき、これ以上外れては大変と完全流動食が言い渡されてか
ら事情が急変した。

  最初に外れたのは4月の24、5日頃であったろうか。午後、胆汁の排出が止
まっているのに気づいて医師に連絡、腹部のレントゲン写真を撮ったところ、見
事に胃の中に管が転がっているのが分った。早速、内視鏡操作のやり直しとなっ
たが、「こんなことはよくあるんですよ」と事も無げに言う藤田医師の言に気を
安んじ、おまけに「手術も近いし体力をつけるために何でも食べていいですよ」
といわれてその気になったのが運の尽きであった。。

最近、病院食も随分改善されているという話は聞いていたし、最初に検査入院
した聖母病院では毎食、二種類の献立のうちひとつを患者に選ばせ、まずまずの
美味しさで、しかも三時のおやつまで出るという待遇ぶり、食事の改善を実感さ
せたが、ここ東京女子医大病院は全く違っていた。入院患者が多いせいか、献立
の選択もなく病状に応じた調理の工夫もなく、総じてまずい食事の連続であきあ
きしていたので、早速、藤田医師の言葉に飛びついた。といっても私が選択した
のは納豆だから、お里が知れようというものだ。

  納豆が好きな私は、売店で納豆を買ってきた。翌日の夕食だったと思う。芥子
と醤油を利かせ、充分に練り上げた納豆をたっぷりご飯にかけて味わった。いつ
もは半分も食器に残した米飯も全部胃袋にかき込んで、ああ美味しかったと満足
したまではよかったのだが。
  異変は翌日昼前に起こった。またしても胆汁の出が止まってしまったのだ。午
後おそく、レントゲン写真を撮ったら、果たして管が外れていた。恐らく納豆
のネバネバで管が外れたのだろうと思ったが、医師には言わず、また内視鏡を
口中に差し込んで、三度目の接合を行った。その時、「こんど外れると大変だ
から」と完全流動食を言い渡された。やれやれ、これからは重湯かとまだ事態
を楽観視していたのだが、これが誤りであることにすぐ気づかされた。

それにしても完全流動食というのは文字通り「完全」であって、重湯どころ
か朝、昼、晩、米粒一つない、お粥のうわずみと、全く実のない、薄い味噌汁
か水っぽいスープがお椀に半分ほど出されるに過ぎなかった。おまけに、紙
コップ二乃至三杯の真っ黒い胆汁と栄養素三五種類も含んだコーヒー味(と
いっても美味しいものではない)のジュース一杯が添えられるのだから、胆汁
の紙コップを見るだけでも苦痛になって食欲減退、大袈裟に言えば生きる楽し
みを失った。五月に入って手術が十日と決まったが、その手術をひたすら待ち
焦がれる気持ちになったのもご理解いただけるだろう。


◇手術を前にして


  手術の前日、家内や息子夫婦ともども執刀医の山本教授に呼ばれて、手術のあ
らましを聞かされた。ガンに侵された膵臓の頭部3分の1と胆管の一部、十二指
腸の全部を切除、術前、術後の処置時間を含めて手術の所要時間は約8時間、と
言われても、やれやれこれで胆汁から解放されるという安堵感の方が強く、怖い
という気持ちは全く起こらなかったように思う。「ガンの進行程度はステージ4
のAで、手術でも目に見えない、あるいはゴマ粒程度のガン巣は取りきれないか
ら、術後は抗癌剤の投与が必要」「膵臓と胆管摘出後、残った膵管と胆管を縫合
しなければならないが、膵管の直径は5ミリ程度に細く、しかも胆管と手縫いで
繋ぐので、術後、管の外に液が漏れて腹膜炎を起こす恐れがある。そうなった時
の膿を体外に出すために、予め二、三の管を挿入しておく」などの補足説明があ
って、最後に手術承諾書にサインさせられた。

  事前に丁寧な説明で親切なことだと思ったが、何のことはない。万一の場合の
医療訴訟に備えて、予めその芽を封じてしまおうということらしい。気が付けば、
聖母病院でもここでも、内視鏡検査ひとつ一々、承諾書にサインさせられた。病
院など医療機関は、よほど医療訴訟を恐れているようだ、と改めて痛感した。
それにしても手術を前に、「万一こういうことが起こるかもしれない」という言
い方は、徒に患者を怯えさせることになりはしないか。「まあ私に任せておけば
大丈夫ですよ」の一言、医師が付け加えてくれれば、患者はどれほど安心するの
に、と思ったことであった。

前々日、検査病棟に行って心電図や肺活量の測定を行い、また麻酔医から手術
時の全身麻酔や術後に使用する「硬膜外痛み止め」の説明をうけた。
  「硬膜外痛み止め」は手術の直前、腰骨の間から骨髄に管を注入、術後、患者
が痛みを感ずれば、管に麻酔薬を自ら注入出来る装置になっていて、術後の痛み
は殆ど感じないですむという説明に安心する。かって胆石の手術をしたとき、術
後の麻酔があまり効かず、痛みに苦しんだ記憶があったからだ。さらに心電図の
測定では「貴方の波動はとても78歳とは思えない。60半ばくらいにしっかり
していますよ」と褒められた。「それなら手術の途中で心臓が止まることはある
まいな」と再び安心した。

手術前夜は看護師からこまごました注意を受けて就寝、翌朝は絶食、昼前に手
術室に向かうことになったが、いざ出陣というとき、ふと思いついて自らの“ふ
ぐり”を触ってみた。 確か陸幼在学時代、戦場に赴く若武者の“ふぐり”がだ
らりとしていれば勇者、反対に縮み上がっていればその男は臆病者という話を聞
かされたことを思い出したからだ。幸い私の“ふぐり”はだらりとしていたので、
“オレは臆病じゃないな”と思ったのだが、縮み上がるほどのエネルギーが残さ
れていなかったせいかも知れない。


◇予想外のアクシデントに遇う


  定刻、車椅子で5階の病室から2階の手術棟へ、手術室の前まで見送ってくれ
た家内にバイバイして中に入る。手術衣に着替え、部屋の中央に移動して手術台
に乗せられる。周囲には血圧や心臓、呼吸などの測定装置が物々しく目にうつる。
まさに俎板の鯉だが、肝心の「硬膜外痛み止め」は海老状に身体を曲げても私の
骨が固かったせいか、注射ハリが腰骨につかえて骨髄に達せず、ついに術後麻酔
は別の方法でということになった。これが最大の誤算で、術後2、3日痛みに大
変苦しむことになった。
手術そのものは全身麻酔のため全く意識外で、何か我が名を呼ばれて目を開くと、
集中治療室の薄明かりに家内と息子夫婦、その傍らに同期生の川久保の顔が目に
入った。嬉しかった。思わず左手を差し出して川久保と握手したように思う。

  集中治療室では部屋の中央に手術を終えたばかりの患者のベッドが7、8台並
び、部屋の隅、一段高くなった床に測定機器が並び、看護師さんが屯して画面に
映る患者の数値をチェックしているようだった。「なんだ、マグロの鮮度を監視
しているみたいだな」とふと思ったような気がしたが、ともかく意識朦朧、翌朝、
個室に移るまで殆ど覚えていない。ただ「硬膜外痛み止め」に失敗したせいで、
点滴の麻酔では傷口の痛みを抑えることが出来ず、かなり苦しんだのはその夜の
ことか、個室に移ってからのことか定かではないが、痛みがひどかったことだけ
は記憶に生生しい。にもかかわらず、手術直後、両脇を家内と看護師さんに支え
られながら、身体を海老のように曲げ、点滴台を杖代わりに5階の廊下を歩いて
一周したことは全く覚えていない。何でも手術直後から歩けと医師に言われてい
たことが頭にこびりついていたらしい。後日、家内から「看護師さんも驚いてい
た」とその頑張りぶりを褒められたのには、いささか気恥ずかしい思いがした。
人間の身体は正直なもので術後の回復は予想外に早く、1週間で傷口の抜糸、2
0日過ぎには流動食が許され、やがて5分粥になった。やれやれ間もなく退院か、
と思った途端、胃の活動が停止してしまった。

胃液や食べ物が小腸に流れず胃袋に溜まる一方、ついに嘔吐が生じたので急
遽、処置室に運ばれ、胃に管を入れポンプ排水の要領で胃液を汲み出したら、
なんと1升あまりになった。おかげで胃はすっきりしたが、胃の活動が回復す
るまでは胃液を管で排出しなければならない。そのために右の鼻腔から管を胃
に入れる。
食べ物の代わりに左の鼻腔から管を小腸まで通して栄養剤を注入する。その上、
水分補給の点滴を毎日数時間続けることになった。なんと言うことはない。私は
左右の鼻腔と腕に点滴台を通して3本の管に繋がれる生活となった。しかも何時
までとは分らぬ胃の回復を待つしかない、それまでは当然、絶食というのだから
暗澹たる思いに駆られた。

  手術前、執刀医の教授から、そういうこともある、と知らされていたが、まさ
か自分にそんなことが起こるとは夢にも思わなかった。が、考えてみれば人体の
生身を切り裂くのだから、アクシデントが起こるのはむしろ当然の成行かもしれ
ない。結果的には、このアクシデントで退院が2週間近く遅れた。 だから手術
から1ヶ月後の6月13日、やっと退院を許されて2ヶ月半ぶりに帰宅したとき
は本当に嬉しかった。何より居間から眺めた庭の眺めは忘れられない。庭木の緑
がこんなに美しいとはこれまで思いもしなかったことであった。


◇病床での心の動き


  ガン患者の回想記などを読むと、ガンの告知を受けた際“頭が真っ白になった”
という人が少なくないが、私の場合、割りに平静に受け止めたように思う。聖母
病院で「膵臓に腫瘍の疑い」と告げられて帰宅したあと、パソコンで「膵臓ガン」
を検索してみた。腫瘍の大きさが4センチと聞いたので、まず膵臓ガンだろうと
観念したからだが、「膵臓は胃の後ろにあり、発見が遅れることが多い。治療は
手術が最適だが延命率は低い」と出ても、そんなことか、と思った程度だった。 
別に私が死について悟りを開いているわけではさらさらないが、あとで考えてみ
ると、矢張り歳のせいであったろう。

  年齢78歳、何が起きても不思議ではない年齢である。新聞の訃報欄を見ても、
80歳前後がなんと多いことか。だからとうとうオレにお鉢が回ってきたか、年
貢の納め時になったか、くらいの気持ちであったが、すぐ死ぬとはさらさら思わ
ず、生きて退院できるだろうとまだ楽観的であったことは確かだ。
  しかし、東京女子医大に転院して黄疸がひどくなってからは、体力が消耗した
せいか気持ちも萎えて、もはや駄目かも知れぬというまでに落ち込んだ。その頃、
私のベッドは11人部屋の北側、三方をカーテンで仕切られ、日光とは無縁の2
畳そこそこ、暗い、狭苦しい空間にあった(その後、窓側に移り、手術後からは
個室に移ったが)。そうした環境も影響したように思う。

家内もそんな私の様子からただ事ではないと感じたようだ。日にちは忘れた
が、午後も大分過ぎた頃、彼女はおずおずと思いつめた声で「もしもの時、お
葬式はどうするの」と問いかけてきた。「ごく内輪にカソリックの方式で」と
いうのが彼女の真意であった。
  家内の実家は義母も姉妹もクリスチャンである。だから信者でもなかった義父
も3年前に亡くなった義弟も、本人の意思とは別に臨終に際して洗礼を受け(さ
せられ)、クリスチャン名で葬られた。家内の申し出を受け入れれば私の身にも
同じことが起こるであろう。

  しかし私は家内の意思を無視した。別にキリスト教を忌避する気持ちがあるわ
けではないが、もともと私の家は神道で、およそ宗教とは無縁の生活を送ってき
たのだし、信仰もない人間が教会での葬式に与るのはイエス・キリストに対して
いかがかという気持ちもあった。だから私は家内に「私には友人が多いから無宗
教の友人葬にしてほしい。段取りは広幼同期生の川久保に頼むから」と答えた。
その時の家内の寂しそうな顔は忘れられない。(見舞いに来てくれた川久保にそ
の経緯を告げて万事を依頼したのがその日の夕刻であったか、翌日であったか定
かではないが、川久保は快諾してくれたように記憶する。息子にも告げておいた
が、彼がどう受け取ったかは分らない)。

  その夜は自分の葬式が頭に去来した。これまで多くの同期生はじめ現役当時の
先輩、同僚、後輩の葬式には何十回となく参列した。だからはじめから終わりま
で葬儀の進行は手に執る如く目に浮かぶ。 無宗教の方式は簡素でよいのだが、
難点は間が持てないことだ。読経もミサもないのだから、どうしても空白の時間
が生じる。
  小学校から中学、広幼を共にした金森昭雄の葬儀では、故人の意思で無宗教で
あったが、音楽評論家らしく、斎場にマーラーの荘重な曲が流れて厳粛な雰囲気
を醸し出していた。音楽に無縁な私の場合、そうはいかない。せいぜい軍歌か寮
歌を流すことになるが、それでは様にならない。
  朦朧とした頭でとつおいつ考えているうちに、「死者(私)からのメッセージ」
を流すことを思いついた。多くの友人に送ってもらうのが分っていて、ただ黙っ
て逝くのは失礼ではないか、そんな気持ちであったように思う。しかしベッドに
釘付けになって気力も衰えた今の自分にはとても長い文章は書けない。さてどう
するか、ふと頭にひらめいたのが「千の風になって」の歌だった。

  「月刊文芸春秋」九月特別号の「千の風になってー誕生秘話」という記事によ
ると、この外国の詩の日本語訳と作曲の主は作家の新井満氏だが、私はそんなこ
とは全く知らなかった。ただテノール歌手、秋川雅史の素晴らしい歌声が耳につ
いていて、この歌の替え歌ならなんとかなるだろうと思ったのだ。そうして、告
別式の場で友人代表に披露してもらうつもりになった。
  「私のお墓の前で泣かないで下さい」という冒頭の句から替え歌は始まる。

   私の柩の前で泣かないで下さい その中にあるのは私の亡骸に過ぎません。
   私は死んでなんかいない       私の命はそれこそ千の風になって
   縹渺とした大海原を渡り       峨々たる山脈を越えて
   絶えることのない生命の       大河に回帰しつつあるのです

   人は死んだら塵、芥になると     ある検察官は言いました
   しかし私はそうは思いません  
   たとえ肉体は滅んでも        ちょうどオリンピックの聖火のように
  遠い遠い先祖から祖父母、両親へ
   そして私たち夫婦から子、孫へと   
  トーチの灯がそうであるように    生命は消えることはないのです

  こんな文句がすらすらと浮かんできたわけではない。朦朧とした頭で苦吟しな
がら言葉を選び推敲し、なんとか繋ぎ合わせて形になったのが、おおよそこのよ
うな替え歌になったように思う。

  (しかし後になって考えると、替え歌がこのような表現になったのには伏線が
あったように思う。
  ちょうど11年前の1996年、独り息子の洋が結婚した時のことだ。突然、
嫁さんを連れてきて結婚するといい、支度から式の段取りまで自分たちで進めて
親の手を煩わさなかった。私自身、結婚に際して洋と同じようなことをして母親
を嘆かせたので、今更文句を言える筋合いではない。なにかしてやれることはな
いか、と考えた末、「我が家譜覚書」なる小冊子を新婚夫婦に贈った。
  これは私と家内の実家の系図、つまり私の父「黒岩家」と母「横光家」、家内
の父「吉村家」と母「湯浅家」の4家の系図を400字詰めで84,5枚になる
文に纏めたもので、冒頭に

  《人間は木の股から生まれたわけでなく、その「生命」の淵源を辿れば、親か
ら祖父母、曾祖父母へ…と先祖の代に遡ってゆく。我々はその「生命」の流れの
うえで生をこの世に受けたわけで、そのことを考えれば先祖からの系譜を改めて
知っておくことも決して無益ではなく、むしろ自己を認識する上で必要であろう。
これまで、我が家のことについて洋に話したことは殆どないので、この際、典子
(嫁の名)ともども知っていてほしいという気持ちから筆をとった。…》

  と書いたのがその理由であった。

  そして伯母や従兄弟、あるいは親戚縁者が残した資料や公刊された本などから
素材を求めて4家の「家譜」を綴ったのだが、末尾で「それにしても洋を河口と
するなら、何と多くの水が、本流から、また数々の支流から流れ流れて河口に集
まってきたものであろうか。一滴一滴の水を生命(いのち)と考えるなら、何と
いう多くの生命が洋に凝縮されていることか。否、洋に限らず我々現世に生を受
けているもの全て、先代、先々代から数々の生命を我が身に引き継いできている
のではないか、ということが、この覚書を記しながらの実感である」と私自身の
感想を述べたあと、次のような言葉で結んだ。

  《 私はかねて人間の生命は、ちょうどオリンピックの聖火のように、次々と
松明から松明へとリレーされてゆくものではないかと考えている。一人一人の走
者の走る距離は限られ交替してゆくが、松明の火は消えることなく永遠に光を放
つ。それと同じで、人の命もそれを支える個々の肉体は消滅しても親から子へと
消えることなく受け継がれてゆく。いわば大きな生命の流れがあって、生と死は
それへの回帰ではないのかと思う。…》

  11年後、生死の狭間で私が繋ぎ合わせた替え歌の文句がこの「家譜覚書」を
原点にしていたということは、無意識のことながら面白いように思う。大袈裟な
言い方かもしれないが、人間の「死生観」とはこういうことなのであろうか。)
   そのうち不思議なことに、先に逝った広幼同期生の顔が名前が一人一人瞼
に浮かんできた。声までがはっきりと聞こえてきた。10台の半ば、3年もの
間、寝食をともにした絆からであろうか。

昭和18年3月、台湾に帰省の途中、基隆沖で連絡船が米潜水艦に撃沈され戦
死した中村はじめ岩佐、杉野、小池、武田、山崎、鈴木、森澤、岡田ー戦後も付
き合いの深かった彼らの面影が走馬灯のように頭の中を過ってゆく。
  働き盛りで逝った長谷川、大塚、老境に入ってから見送った愛野、日比、6年
前、46期の慰霊祭に、恐らく別れを告げにきたのであろう、憔悴した村中の姿
が浮かぶ。戦後、再会する暇もなく世を去った太田、中川、遥か僻遠の九州で身
まかった蔵前や紫垣、小野、小栗、松元、砂土原ー次から次へと去来する故人の
表情や声をこれほど身近に感じたことは未だかってなかった。「もうすぐ彼らに
会えるんだな」とさえ感じたことを覚えている。
恐らくその頃、彼らも「そろそろ黒岩を三途の河原まで迎えに行くか」と腰を上
げ始めたに違いない。


◇多くの人の激励が心の支えに


  その夜は一睡も出来なかった。2ヵ月半の入院中、一番苦しかった一夜であっ
たろう。さらにもう一度、うつ病になるんじゃないかとまで落ち込んだ夜が
あったことを記憶する。
  毎日、病院に看病に来てくれる家内が体調の不良を訴えて帰ったことがあった。
頭痛がしたのか、腰痛がひどくなったか、あるいは血圧が高くなったのか、翌日
病院に行くといって夕刻帰っていったことがひどく気になった。
  夜、自宅に電話をかけたが事情は変わらない。もし家内が脳溢血ででも倒れた
らどうしよう、発作を起こしはしまいか、不安妄想が雲の如く湧き上がって、自
分でも気持ちが鬱に落ち込んでゆくのが分った。胆汁の排出管や点滴の管に繋が
れていては身動きならない。ちょうど牢獄に押し込められたような気分で、居て
も立ってもおられないというのは、あの時の気持ちをいうのだろうか。
  翌朝、たまたま見舞いに来た姪を煩わせて、家内が診察を受けに行っているで
あろう聖母病院に行ってもらい、あとで家内に余計なことをすると叱られたが、
その日、家内がいつもの通り、看病に姿を見せて私の鬱はすっかり散じてしまっ
た。

  その後、黄疸の症状が徐々におさまり、気力、体力が回復するにつれて、“生
きる”方へ気持ちが動いていったように思う。何より支えになったのが家族や親
戚、多くの知人、友人の励ましであった。
  手術後間もなく、大阪の兄が病の身ながら甥の車で義姉とはるばる見舞いに来
てくれたときは、涙が出るほど嬉しかった。家内の姉妹や姪たち、そして私の従
兄弟たちも次々と見舞いに来てくれた。

また同期生やその他の友人達もあるときは大挙して、あるときは三々五々と激
励に病床を訪ねてくれた。陸士で4年先輩の細島泉さん(毎日新聞東京本社では、
私が人事部長のとき編集局長で、経営難の毎日新聞再建に苦労を共にした)や広
幼44期の吉田和夫弁護士、毎日新聞エコノミスト編集部当時のデスク、高内俊
一さん、旧制高知高校関東支部長の土佐洋一氏、支部会報編集長、石黒一郎氏な
ど諸先輩がわざわざ見舞いに足を運んでいただいたのには驚きもし恐縮した。ま
た遠方の先輩や友人からも懇篤なお見舞い状をいただいた。家内の友人で信州の
修道院にいるシスターが、私の回復を祈って毎朝のミサに祈りを捧げていると家
内から告げられて感激した。

  お見舞いのあまりの多さに、ナースセンターは驚いたことであろう。当の私す
ら驚いたくらいだから。そうしてこの励ましに応える為に生きなければ、と痛切
に思った。人間は一人で生きられるものではない、多くの人々の支えがあればこ
そ生きてゆかれるのだと、どれほど肝に銘じたことだろうか。
  その頃から私は“病人”であることをやめた。“吾、患者なれども病人に非ず”
というスローガンを心に刻んで、朝は定刻の6時に起き、必ず歯を磨き、濡れタ
オルで顔を拭き、鼻腔からの管を傷つけないように髭を剃った。そして点滴台を
引っ張って屋上に上がり、狭い屋上を10周歩くことを日課とした。1周6,7
0メートルくらいだから歩行距離は600メートル余りというところだろうか。
そして夕刻も屋上に上がった。
  これが退院までの私の心の動きであった。私にとって何より替えがえのない経
験であったように思う。(つづく)
                (筆者は元毎日新聞社印刷局長)

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