【コラム】
大原雄の『流儀』

ずぶぬれて犬ころ ~ 住宅顕信という俳人 ~

大原 雄

 2020年の幕開け。21世紀も、はや5分の1が過ぎ去ったことになる。20世紀は、戦争の世紀であった。第一次世界大戦、第二次世界大戦、ベトナム戦争、中東戦争など、20世紀に勃発した戦争は枚挙にいとまがない。そろそろ、21世紀という時空も、本性の一端を出してきているのではないか、という問題意識が私にはある。正月早々、アメリカがイランに戦争を仕掛けた、と言えるような事態が展開し始めた。21世紀も、戦争の世紀になるのだろうか。読者諸兄は、どのように見ているのだろうか。

 21世紀を考えるに当たって、そういう21世紀の5分の1という節目の、新年の年頭を飾る意味で、「大原雄の『流儀』」の今回は、住宅顕信という、一般にはあまり知られていない夭折の俳人について、書き残しておこうと思う。20世紀を駆け抜けていった若き歌人。戦争とも無縁だが、なぜ、いま、あまり知られていない俳人について書くのか。それは、彼の一句に惹かれたからである。

 岡山市生まれの俳人。住宅顕信。名前は、「住宅」と書いて、「すみたく」と読む。本名である。「すみたくけんしん」。1961年3月21日生まれ。「顕信」は、出家名。本名は、「春美」。女性のような名前だが、男性である。住宅顕信という俳人は、一般にはあまり知られていないかもしれないので、略歴を書き写しておきたい。

 1961年、3月21日生まれ。岡山市で出生。

 1976年、中学を卒業し、調理師専門学校に入学。同時に「岡山市民会館」という施設で、働き始める。

 1980年、岡山市役所環境事業部第二事業所に臨時職員として採用される。市役所のゴミ収集の業務員。仕事の傍、仏教書を読み、俳句を作り始める。冒頭に掲げた「ずぶぬれて犬ころ」のような、自由律の俳句である。

 1983年、京都の西本願寺で出家得度。浄土真宗本願寺派の僧侶となる。出家名、つまり法名が、顕信である。10月に結婚し、新婚旅行は、岡山の瀬戸内海を挟んだ「対岸」の四国・松山に行く。俳句の旅でもあった。正岡子規の句碑を訪ねたり、自由律の俳人・山頭火所縁の「一草庵」を訪ねたりした。自由律の先達で夭折した俳人・野村朱鱗洞の墓にもお参りをした。旅行から帰宅した後、自宅の一部を改築し、仏間を造った。仏間には、「無量寿庵」と名付けた。

 1984年、2月23日、23歳の誕生日まで1ヶ月もないという時期に、病魔に襲われた。「急性骨髄性白血病」と診断された。顕信は、岡山市民病院に入院した。妊娠中の新妻とは離婚となった。
 6月14日、長男が誕生する。春樹と名付けた。赤ん坊は、顕信が引き取った。顕信は、病室に入ったまま、闘病と子育てという苦労を両手に抱えたことになる。実家の支援が大変だったのではないか、と思われる。さらに、顕信は、10月からは、自由律俳誌「層雲」に加わった。死を眼の前にした顕信は、生き急いでいたのかもしれない。「層雲」事務室の池田実吉に師事するようになる。

●俳人としての住宅顕信

 1985年、「層雲」2月号に、初めて顕信の2句が掲載される。6月、岡山市役所を退職する。12月、自分の処女句集『試作帳』を自費出版する。藤本一幸主宰の自由律俳誌「海市」に参加する。

 1986年、4月、病状が少し安定したので、一時、退院する。地域新聞の紙面で、句会を呼びかけ、応じた松本白路、西山典子とともに、「岡山十六夜社」を結成し、5月には、第一回の句会を開くが、その後、病状悪化となり、6月、再び入院する。

 1987年、2月7日、逝去。25歳10ヶ月の命であった。俳人としての創作期間は、わずか2年余りで、生涯に残した俳句は281句だった。

 1988年、2月、彌生書房より、句集『未完成』が、出版される。

贅言;すでに触れているが、一般の人には、判りにくいと思われる言葉や人物たちについて、簡単に補注しておこう。

 自由律俳句は、「じゆうりつはいく」と読む。自由律俳句とは、五七五の定型俳句に対して、定型に縛られずに自由闊達なリズムで詠まれる俳句のことをいう。定型にも、季題にも、とらわれず、感情の自由な躍動を最優先に表現する。

 種田山頭火は、「たねださんとうか」と読む。1882年-1940年。享年59。自由律俳句の俳人。山口県防府市の生まれ。句誌「層雲」の荻原井泉水門下。1925年、熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度をし、「耕畝(こうほ)」という法名を持つ。本名は、種田正一。山頭火は、1926(大正15)年、一笠一杖一鉢の行乞行脚の旅を始め、全国を彷徨い歩いた漂泊の俳人である。
 「一草庵」は山頭火の終焉の場所。1939(昭和14)年、友人の好意により御幸寺境内に庵住、「一草庵」と名付けられた。在庵10ヶ月、翌1940(昭和15)年10月11日逝去。

 野村朱鱗洞は、「のむらしゅりんどう」と読む。1893年-1918年。現在の松山市出身。本名は、野村守隣(もりちか)。東京で、自由律俳句の創始者・荻原井泉水に師事、19歳で俳誌「層雲」に参加する。俳句結社「十六夜吟社」を結成、主宰する。1918年、全世界的に大流行していたスペイン風邪に掴まり、誕生日の1ヶ月前に逝去。24歳11ヶ月であった。夭折の俳人と呼ばれた。
 1939年、山頭火が松山の朱鱗洞の墓を訪れ、「十六夜吟社」を再興した。

 俳誌「層雲」は、「そううん」と読む。自由律俳句の代表的な俳誌。1911年、荻原井泉水を主宰として創刊された。門下に、種田山頭火、尾崎放哉(1885年-1926年)などを輩出した。

 藤本一幸。俳誌「層雲」の権威主義的な運営に疑念を感じた顕信は、「層雲」の元編集者である藤本一幸が主宰する自由律俳句誌「海市」に1985年、参加した。翌1986年、編集同人となる。

 岡山十六夜社。岡山市立図書館の司書として働いていた松本信夫さんは、顕信が主宰した俳句結社「岡山十六夜社」の二人しかいない同人の一人。顕信にもらった号が、「白路」だという。野村朱鱗洞主宰の俳句結社「十六夜吟社」に影響を受けているだろうことは、容易に推測される。

●281句。顕信の全ての俳句から

 顕信の俳句は、今では、春陽堂から文庫サイズで刊行されている。本のタイトルは、「住宅顕信 句集 未完成」という。詩集の構成は、「試作帳」と「試作帳その後」からなっている。その句集から、私の心を動かした句をいくつか抜粋して書き留めておきたい。

 試作帳(抄録):

  点滴と白い月とがぶら下がっている夜
  夜の点滴にうつすまがった月だ
  赤ん坊の寝顔へそっと戸をしめる
  退職願出して来た枕元に朝が来ていた
  洗面器の中のゆがんだ顔すくいあげる
  どうにもならぬこと考えていて夜が深まる
  薬が生涯の友となるのか今朝の薬
  こわした身体で夏を生きる
  裸をふいてもらい月にのぞかれていた
  夜が明けてくる窓に歩む
  病んでこんなにもやせた月を窓に置く
  流れにさからうまい歩けるだけを歩く
  夜の窓に肌寒い雨の曲線
  影もそまつな食事をしている
  早い雨音の秋が来た病室
  窓に雨がけむる明日への不安
  少しなら歩けて朝の光を入れる
  さめて思い出せない不安な夢である
  面会謝絶の戸を開けて冬がやってくる
  冬の長い影をおとして歩く
  地をはっても生きていたいみのむし
  水たまりの冬空がゆれている
  虫がはりついたまま冬の窓となる
  死後さえもうばわれて英霊という墓がならぶ
  考え込んでいる影も歩く
  窓にまよいこんで行先のない雲

 試作帳その後(抄録):

  月が青いまっすぐな道をゆく
  どこまでものびている影も淋しい
  痛みのないひとときうすい昼月がある
  深夜、静かに呼吸している点滴がある
  立ちあがればよろめく星空
  年の瀬の足二本洗ってもらう
  枕元の薬とまた年をむかえる
  耳を病んで音のない青空続く
  時計の針が急ぐので手術室の前に来ていた
  四角い僕の夜空にも星が満ちてくる
  月をゆがめている熱がある
  鬼とは私のことか豆がまかれる
  陽にあたれば歩けそうな脚なでてみる
  窓に映る顔が春になれない
  自殺願望、メラメラと燃える火がある
  若さとはこんな淋しい春なのか
  降れば冷たい春が来るという雨
  冷たい朝をゆく人の背ばかり
  うつむいて歩く街に影がない
  何もできない身体で親不孝している
  父と子であり淋しい星を見ている
  この坂を登れば夏が来そうな
  かあちゃんが言えて母のない子よ
  歩いても歩いても前を行くのが影
  酔った月が出ている
  無表情な空に組み立てられた黒い花輪だ
  握りしめた夜に咳きこむ
  病む視線低くつばめが飛ぶ
  聞こえない鳥が鳴いているという
  天井の音を失くした夜が深まる
  抱きあげてやれない子の高さに坐る
  風のような軽さで体重計にあがる
  湯上がりの聞こえぬ耳からふいてやる
  淋しい指から爪がのびてきた
  鏡にマヒした顔笑わせている
  どうしようもない薬とのみこむ
  風の道をまっすぐに月が登る
  とんぼ、薄い羽の夏を病んでいる
  無口な妻といて神経質な夏暑くなる
  重い雲しょって行く所がない
  補聴器をつけると朝の鳥なき出した
  雨がきしませる戸もひとりだけの病室
  補聴器にまつわる蚊の音を断つ
  手が汗ばんでいる夢をみていた
  月明り、青い咳する
  机に月が落ちかけている長い夜だ
  障子の影が一人の咳する
  人焼く煙突を見せて冬山
  冷たい夜のペロリとうげた壁である
  風ひたひたと走り去る人の廊下
  月が冷たい音落とした
  幼く寄り添って肩が濡れている
  月をはりつけて閉ざされた窓がある
  ずぶぬれて犬ころ
  夜が淋しくて誰かが笑いはじめた

 二つの句作群は、合冊されて、没後、1年で句集『未完成』となった。私は、思いつくまま、ここから、ざっと、3分の1にあたる80余の句を選んだことになる。

 難病が発症したため、病院に閉じ込められてしまった若い男。社会から隔離されて、行き急ぐのを余儀なくされている。

 病室の窓で四角く切り取られた空。青空雨空曇り空。昼は光を求め、夜は、月や星を求める。

 結婚したばかりなのに、若い男の身体に難病が発症する。若妻は妊娠する。闘病の苦しみと親になる喜び。人生の禍福は、糾える縄のごとし。

 しかし、妻の実家が、難病を理由に新婚の若夫婦の離婚を要求したらしい。病夫の実家は受けてたったのか。無口の若妻は、何も言わなかったらしい。離婚後、長男が産まれる。育児も病夫側に任された。押し付けられたのか。若い夫婦の間に何かあったのか。親たちに何かあったのか。

 ベッドに横になったまま、昼となく、夜となく、四角い空を見つめている孤独な若い男。影もひとりぼっち。

 病室で育児。それも男手で幼児を育てる。幼い命の成育が折々に詠まれていて、ひとときの清涼を味わう。

 病魔との闘いの日々を句に定着させようと句吟する男。281の句。

 そういう夭逝の若き俳人の、自由律の句集を読む。しかし、句集だけでは、いくつもの疑問が残る。結婚、離婚、長男出産と育児には、プライバシーに包まれて、真実が読む者の彼方へと、引き離されて行くような力を感じさせる。謎がある。

 謎の解明に住宅の半生を映画化した映画監督がいるので、彼に語らせようか。

●映画『ずぶぬれて犬ころ』

 「この句は、雨に濡れた犬の姿に白血病で闘病していた住宅顕信自身の姿を重ね合わせた句だと思います。少し自虐的な感じもしますが、私はこの句から、ぼろぼろになっても生きろ、というメッセージを受け取りました。(略)私自身、住宅顕信と同じ岡山県出身ということもあって、ますます彼に魅かれていき、いつしか彼のことを映画にしたいと思うようになりました」(本田隆義監督)

 本田監督は、ドキュメンタリー映画を主に作ってきた監督である。当初は、ドキュメンタリー映画として、住宅顕信を表現しようと企画していた。しかし、住宅が1987年に亡くなってしまい、ドキュメンタリー映画で彼の人生を描こうとすると、生前の住宅顕信を知っている人のインタビュー映画にせざるを得ない。それでは、おもしろく無い。「劇映画として住宅顕信のことを描きたいと思うようになっていきました」。

 本田監督は、1968年、岡山市生まれ。住宅顕信より7歳年下。法政大学文学部日本文学科卒。主な作品に『科学者として』(1999年)、『ニュータウン物語』(2003年)、『船、山にのぼる』(2007年)、『モバイルハウスのつくりかた』(2011年)、『山陽西小学校ロック教室』(2013年)などがある。『ずぶぬれて犬ころ』(2018年)が、初めての劇映画。18年11月、岡山映画祭で初上映された。

 映画では、主人公の住宅顕信のほかに、副主人公として、15歳の中学3年生を設定している。2017年、中学生は、学校で同級生から虐めを受けている。
 放課後の校舎内を見回りしていた教頭の師岡敬が、教室の掃除ロッカーに閉じ込められ、出られずに、助けを求めていた小堀明彦を見つける。教室に散らかっていたゴミの中に、教頭は一枚の紙を見つける。その紙には、「予定は決定ではなく未定である」と書かれていた。その言葉は、かつて諸岡が出会った教え子の少年が書いた文章であった。少年の名は、住宅春美。後の顕信である。映画では、師岡敬の目に映った折々の住宅顕信の人生が描かれて行く。

 月日が流れ、師岡の元に住宅春美から葉書が届く。浄土真宗の僧侶になった、という。法名は、顕信という、と書いてある。顕信の家を訪ねると、妊娠している妻を紹介される。自由律俳句に凝っていることも聞く。

 1985年、顕信は、白血病で入院している。以後、87年の逝去まで、顕信の実人生に沿った場面がスクリーンに描き出される。

 2017年、日没後の中学校の屋上。雨が降ってくる。屋上には、小堀明彦が倒れている。虐めで暴行を受けて、気絶していたのだ。冷たい雨に打たれて、気がつく。濡れたまま、再び目を閉じる。「ずぶぬれて犬ころ」という句を思い出す。小堀明彦は、気持ちが抑えられなくなって、絶叫する。何かが、彼の中で、変わったようだ。

 髪を切って自宅に帰ってきた小堀明彦は、母親に中学校を辞めたい、と伝える。翌日、小堀明彦は制服を脱ぎ、私服で登校してきた。いじめっ子に殴られても、逃げずに、小堀明彦は、相手を睨み返す。小堀明彦の心に、住宅顕信の句集は、どっかりと腰を降ろしたのだろう。師岡から借りた住宅顕信の句集『未完成』を小堀明彦は、教頭の机に置いて行く。「僕も未完成です」という教頭宛のメモを添えて。

 街へ出た小堀明彦は、呟く。「何もないポケットに手がある」。顕信の句だ。
 暮れなずむ横断歩道で、小堀明彦は、法衣に身を包み、傘と金剛杖をもった雲水とすれ違う。僧侶が、住宅顕信のように思えた。

 俳句の「ずぶぬれて犬ころ」は、住宅顕信の自画像であろうし、映画は、「ずぶぬれて」=「虐められて」。「犬ころ」=「少年」。という図式なのだろうが、この句を読む読者にとって、「ずぶぬれて」には、もっと、それぞれ多様な意味があるように思う。例えば、浅慮のくせに孤立主義を突き進む大統領のような権力者。それに追従するばかりの何処かの国の総理大臣などを冷笑するイメージを抱く人もいるかもしれない。

 2020年1月、「アメリカ軍は、無人機(ドローン)を使って、イラク訪問中のイラン革命防衛隊のソレイマニ司令官をイラクの首都バクダッドの国際空港近くで攻撃し、殺害した」というニュースが世界各国に衝撃を与えた。イランは、激しく反発し、アメリカへの報復を予告し、爆撃も始めたようだ。この結果、アメリカとイランの間では、軍事的な緊張が急激に高まっている。

 ソレイマニ司令官は、イラン革命防衛隊の司令官というだけでなく、イランの最高指導者・ハメネイ師の最も信頼が厚い人物だ、という。アフガニスタン、イラク、シリア、レバノンなど中東地域の外交・安全保障を担う地位にある重要な人物だ。アメリカのトランプ大統領は、イラン政府の、いわば、有力な閣僚をいきなり暗殺したことになる。このような思慮の浅いリーダーが21世紀の国際政治を動かして行くようになるとしたら、21世紀も、また、戦争の世紀になるのだろうか。

 「ずぶぬれて犬ころ」。住宅顕信の自由律句の短い表現に、私の直感は、本性の一端を見せ始めた21世紀を理解するキーワードになるのではないか、と感じ取っている。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、『オルタ広場』編集委員)

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