それでも「戦後」は終わらない

【オルタの視点】

それでも「戦後」は終わらない

北岡 和義


 2015年も押し迫った12月28日、日韓外相会談は従軍慰安婦問題を巡って合意した。発表された「最終的、不可逆的な解決を確認」という文言をどう読むか。日韓双方で批判や反対論に根強いものがある。
 安倍首相の真意と現実外交の乖離が見えているだけに、今回の日韓合意を「最終的、不可逆的な解決」と真正直に読むには無理があるのではないか。これで、いわゆる「慰安婦問題」は解決した、と考えることができるだろうか。

 言うまでもなく日本がアジア各国に対して行った負の歴史を消すことはできない。アジア諸国、とりわけ中・韓両国民の対日不信感は容易には拭えないだろう。
 在ソウル日本大使館前の慰安婦像の撤去にも触れているが、実際の撤去は難しいのではないか。報道される韓国の反日派は今回の合意に反発、より批判を強めているという。確かに外交的な決着という政治的評価はあるだろうが、これで慰安婦問題が解決したとは思えない。

 ぼくは慰安婦問題を含め戦争犯罪とその責任について考えてきた。中国に対する武力行使は張作霖爆殺事件(満州某重大事件)、満州事変(柳条湖事件)、日中戦争(支那事変)と繰り返し、ついには日米戦争(太平洋戦争)に突入していった。南印進駐にアメリカは対日禁輸出で対抗した。原油が買えなくなったら軍艦も戦闘機も動かせない。

 自尊自衛のため日本は対米戦争を始めざるを得なくなった。そう主張する歴史観は正しいのか。戦争の意思とその責任は奈辺にあるのか。

 メディアも国民も開戦時、諸手を挙げて真珠湾攻撃に賛意を表したではないか。
 周知のとおり日米開戦に踏み切ったのは東条英機内閣である。商工大臣は革新官僚・岸信介だった。開戦後、商工省は廃止され、新たに軍需省となった。軍需大臣は東条首相が兼任、次官が岸信介で、岸は戦争するための軍需物資の確保の最高責任者となった。
 岸は満州経営に辣腕を振るった革新官僚であり、開戦時の閣僚であったことでA級戦犯容疑で巣鴨プリズン入りした。幸いにも恩赦となり出獄した後、国会へ出馬、石橋湛山が病気で退陣した後を受けて首相となった人物である。

 岸の実弟が佐藤栄作であり、佐藤は沖縄返還を果たしたが、その協定には重大な密約があった。「核抜き本土並み」という政治スローガンは国民に耳当たりの良い響きだったが、それが大きな嘘であり、核持ち込みを認めた密約があった。佐藤首相がワシントンへ送った密使、若泉敬が『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』で暴露している。

 ぼくは沖縄密約情報公開訴訟の原告となったが、口頭弁論で返還協定交渉の当事者だった元外務省アメリカ局長・吉野文六が、基地の復元補償費400万ドルを日本が支払うという密約があったことを証言した。

 岸信介も佐藤栄作も日本の内閣総理大臣として国家経営にあたったが、その権力は欺瞞に満ちたものだった。それをぼくら日本人はなんら問題にしない、というところに「それでも戦後は終わらない」という問題意識が芽生えるのである。

 安倍晋三首相が岸の孫であり、岸、佐藤、安倍は濃い血で繋がっている。その安倍が戦後処理として従軍慰安婦問題で合意を得た。果たして日韓関係は進展するのだろうか。

 日本の現代史における「戦後」とは…。「最終的かつ不可逆的な解決を確認した」という日韓合意を字句通りに受け止めたとしても「慰安婦」問題はシジフォスの神話のように延々と繰り返されるのではないか。そんな気がしてならない。

 ぼくは過去2回、ハルピンの平房に存在した関東軍防疫給水部(731部隊)跡地を訪問したが、ここで行われた生体実験は現在まで「一切不問」とされている。理由は隊長・石井四郎陸軍医中将が持ち帰った生体実験に関する資料を入手したいため、GHQは石井部隊長以下生体実験に携わった軍医ら全員の責任を問わず無罪放免にしたためである。

 現在、この跡地は「侵日本軍731部隊罪証陳列館」という、なんともおどろおどろしい名前の記念館になっている。人体実験を蝋人形で再現、当時の生体実験の写真の展示、判明した犠牲者の氏名表示をしている。金成民館長の話では世界遺産に登録を申請するため復元中だという。

 ここでも「戦後」は未だ終わっていない。
 先輩のジャーナリスト、ノンフィクション作家・本田靖春が美空ひばり論を書いているが、その書名が『戦後 美空ひばりとその時代』だった。『月刊現代』1987年5月号から8月号にかけて連載された。

 ぼくは当時、ロサンゼルスにいたからこの書を読んでいない。最近、知人からもらったので読んでみて驚いた。たしかにこの本はひばりの評伝というより、ひばりの半生を「戦後」という時代に重ね合わせて「戦後」とは何か、を活写している。本田靖春が「戦後」に拘る意味がとても大切だ。

 読売新聞の社会部記者であり、自由に事件や事故を追っていた本田が、読売を辞めたのは理由がある。“正力モノ”といわれた社主・正力松太郎の動向を紹介するチョーチン持ち記事を書かされたことに嫌気がさしたのである。

 いや、本田は会社記者の限界を嫌というほど知らされた。人情篤く後輩に優しかった本田が辞める、と知ったとき、後輩記者らが本田を囲み「辞めないで」と泣いたという。

 ぼく自身も本田にはずいぶん可愛がってもらい、都内を深夜まで飲み歩いた。本田が1か月ほどLAに滞在したとき、毎晩のように飲み議論した仲だった。

 彼はソウルの生まれ、植民地の支配側の人間として優雅な生活を送りながら、子供心に朝鮮人を差別する側の日本人として引け目を感じていた。それが敗戦と同時に暗転し、逃げ帰った日本で、どん底に突き落とされた。

 都市という都市が空襲で破壊され、広島、長崎へ原子爆弾を落とされ、一瞬にして町が破壊され、多くの人々が死んだ。
 食べるものがなかった。でも本田は書く。

 「戦時中とはくらべものにならない精神の自由があった。世の中は暗雲が払われたあとの晴天を仰ぎ見るような、晴れ晴れとした気分に満ち満ちていた」
 「戦後」に本田は自由と民主主義を見た。

 横浜の貧しい魚屋の娘だったひばりが必死に生き、マスコミのバッシングを受けても怯まぬ精神でスターダムを上り詰めた美空ひばりを「戦後」に重ね合わせて描いた。ひばりこそ「戦後」の象徴的存在であった、という本田の観察は心を打つ。

 「もはや戦後ではない」と中野好夫が書き、経済企画庁が発表した経済白書が同じ表現で日本の経済の復活を宣言したのは1956年。あれから60年経った。

 経済が活況を呈し日本人は豊かになりつつあった。1960年安保の後、池田勇人内閣の高度経済成長政策で右肩上がりの時代が続く。日本人は「拝金」に傾斜して行く。大宅壮一がテレビをして「一億総白痴化」という流行語を世に送り出したのもこの年だった。

 本田は、日本が豊かになるにつれ国民は自由を失っていったという。
 「戦後」という時代に比べると現在の日本は圧倒的に豊かになった。しかし・・・。本田の指摘は鋭い。それで「自由」を失った、と。

 大手町に建て替えた読売新聞の高層ビルに入るとよく分かる。セキュリティ・カードを首からぶら下げ、ゲートに提示するとドアが開く。カードには行き先情報がインプットされているからそこだけにドアが開くように設計されている。

 ぼくは外部の人間だからそのシステムも理解できなくないが、読売の社員も同じで、自分の部屋と仕事に関係ある階だけドアが開くようになっているそうだ。自由に社内を歩けない。完全にコンピューターに管理されている閉鎖社会である。

 銀行はもちろん官庁やホテル、オフィス・ビルなど「セキュリティ上の理由」で管理統制が行き届くようになった。組織内の人間は完全管理されている時代を迎えた。そこへマイナンバー制度が始まった。為政者には実に都合のいいシステムである。

 そうした社会への異議申し立てが本田の「戦後論」だった。
 日韓合意で「不可逆的」と書くことで「戦後」が終わるのではない。戦争がばらまき散らした数々の悲劇の末に戦争は終わった。日本に初めて自由の雰囲気が蘇った。そこから現代はスタートしたのではなかったか。

 ぼくは昨年暮れ「共生」という共通テーマで星槎大学の研究紀要に原稿を書いた。2015年8月27日−9月4日、インドネシアのバリ〜バンドン〜ジャカルタへと旅した紀行文である。

 インドネシアという国はいろんな顔がある。世界最大のイスラム国であり、人口は2億5,546万人(2013年)、米国に次いで世界第4位。1万7,508の大小の島から成る島嶼国。1,128の民族、745の言語という多民族、多言語、多文化国家でもあり、共通語がインドネシア語である。マレー語系だそうだ。バリ島はヒンズー教、ジャワ島やスマトラ島はイスラム教、さらに未開に近いニューギニア西部もインドネシアである。スマトラ島では石油が採れる。

 1941年12月8日、日本海軍が真珠湾を奇襲攻撃した、その直前に別動の陸軍部隊がマレー半島に上陸し、南下した。狙いはインドネシアの石油だった。

 この国は350年間、オランダの植民地として収奪され、日本軍がオランダを降伏させて占領、1945年8月15日の敗戦まで統治したという歴史がある。ぼくの実父は鉄道員で、軍属としてジャワ島へ赴任した。バンドンの駅長だった。子供のころ、親父はよくジャワの話をした。軍属とはいえ植民地で支配者側として居心地が良かったに違いない。

 オランダ人の圧政に比べ日本軍は同じ黄色人種、アジア人として歓迎されたという。幸いインドネシアでは過酷な戦闘が短期で終結した。オランダが降伏した後は敗戦まで平和が続いた。当時、陸軍では「ジャワ天国、ビルマ地獄」と言ったそうだ。

 しかも敗戦直後、インドネシアは独立宣言した。しかしオランダが再度、インドネシアを攻め、独立戦争となった。このとき日本軍の残留将兵が密かに武器を渡し、独立軍を支援し一緒に戦ったという事実があり、現在、アジア隋一の親日国である。

 バリ島は観光の島だが、この島だけヒンズー教で、島内にはブサキ寺院というヒンズー教の総本山の広大な寺がある。島の人々は敬虔なヒンズー教徒で日々、神への供えを欠かさない。

 ジャワ島やスマトラ島はイスラム教でインドネシア国民の88.6%がモスリムである。
 ジャワ人、スンダ人、バリ人、ミナンカバウ人など多種多様な多民族国家で、言語が違う。衣装なども違う。料理も違う。家の造りもデザインも違う。こうした多民族、多言語状況を日本人はなかなか理解できない。

 例えば西スマトラ州の高地に住むミナンカバウ人は人口400万人で母系社会だという。300万人はインドネシアやマレー半島の都市部に住んでいるが、住宅、衣装など一見してジャワ人やスンダ人とは違うのである。土地や資産は女が受け継ぐそうだ。

 インドネシアは東南アジア諸国連合(ASEAN)の盟主であり本部は首都ジャカルタにある。1955年、バンドンで開かれたバンドン会議(アジア・アフリカ会議)は、東西冷戦の狭間で産声をあげ、東西陣営ではない第三勢力として世界を驚かせた。今は会議場が記念館になっている。

 しかし第三の道を歩もうとしたAA会議諸国は開発は遅れ、インフラ整備などは未だ発展途上国としか言いようがない。中国、インドが台頭しインドネシアも成長を続けている。

 ジャカルタ〜バンドン間に高速鉄道を敷設する、という計画で日本は中国と受注を争ったが、ほとんど決まりかけていて最後の瞬間、中国にドンデン返しされたことは耳新しい。現地で訊けば国民の多くのは華人嫌いだそうだが、これはインドネシア経済を中華系に牛耳られているためだ。

 日本車が96%を占め、オートバイは99%とほぼ独占的に日本製が売れている。
 バンドン工科大学で日本語を学ぶ学生は400人もいるという。
 実際、バンドン市内や駅を案内してくれたインドネシア人の学生は日本語がほぼ完ぺきと言えた。ジャカルタにある大手日本旅行社の支店で採用が決まった、と嬉しそうだった。
 ジョコウイ大統領は家具商でインドネシア初の庶民出身の大統領だというが、インフラ投資はジャワ島に集中せず、遅れている他の島々のインフラ整備に重点を置くと選挙で公約した。

 さらにイスラム教を子供から教えるプサントレン(全寮制寄宿学校)は飛躍的に増えているのだという。小学校の下校時に出会ったが、女の子は全員、スカーフを被っていた。庶民のレストランではビールは出ないし、駅には誰でも使える祈りのスペースが用意されている。イスラム化が進行しているのである。

 もちろんアラブ諸国、とりわけ世界を震撼とさせているIS(イスラム国)とはかなり様相が違うとは言え、バリ島では10年前、観光地の繁華街が爆弾テロに攻撃され多くの犠牲者を出した。
 中国や韓国と違って、親日的で日本大好き人間が多いのは嬉しい。日イ間の経済格差は大きいがそれだけに日本の援助への期待は大きいと思う。

 1965年9月30日、5人の将軍が暗殺された事件が起こり、これをきっかけにスハルト将軍がスカルノに代わって実権を握った。スハルトは共産党弾圧に乗り出し、大量殺害した。犠牲者は50万人とも100万人とも言われている。2015年10月1日付『産経新聞』で吉村英輝記者は200万人と書いた。

 共産党員、そのシンパを含めて大量虐殺があったことは事実だった。
 スハルトの開発独裁時代が終わりを告げ、ようやく民主化の道を歩み始めたのが17年前。バリ島はじめイスラム過激派によるテロは断続的に発生し、ことし1月14日ジャカルタで発生した爆発テロは30人以上の死傷者を出した。シリアのIS(イスラム国)との関連が報道されている。

 電子新聞『ニュース・ソクラ』は、テロがアジアへ拡散し、タイ、インドネシア、フィリッピンなどで断続的に爆弾テロが発生している事実を指摘している。

 中東の分裂抗争はトルコ、EUへの大量の難民を生み、急激に流入している。パリの同時多発テロの発生と難民の流入で欧米は出口なしの状態だ。

 テロの拡散はやがてアジア全域に及ぶだろう。極東の日本へテロが侵入する可能性は否定できない。政府はテロ対策部を新設するという。テロ対策とはテロリスト情報の収集、警戒である。そのために防犯カメラを数多く敷設し大衆監視を続けることになろう。いや、すでにわれわれは監視対象の中で生活している。

 自由という意味で本田靖春は「戦後」は1960年に終わった、という。豊かになった日本は自由の幅が狭くなり、管理体制が社会全体を覆っている。しかもテロ対策でその管理体制はさらに強化され、ぼくらはそうした体制に嫌が応でも巻き込まれる。にもかかわらず戦争の傷跡はいつまで経っても続く。

 21世紀とは、グローバル時代とは、かくも不可解、不愉快な社会を生きねばならないのである。今夏の参議院選挙から有権者が18歳まで引き下げられた。政治に関心薄い若い世代の判断が得票に影響するだろう。そこにぼくらは期待できるというのか。
 ぼく自身、そういう思いを抱きながら今季、教壇を降りることになる。

 (筆者はジャーナリスト・日大特任教授・オルタ編集委員)


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