それで良いのか:朝日の誤報叩き

藤生 健


 政界とネットはすっかり「朝日叩き」の祭りと化している。本人たちは狂喜乱舞して楽しそうだが、国際社会から「人権軽視」と白眼視され、「歴史修正主義」と危険視され続けている現状に変わりは無く、祭りに酔いしれれば酔いしれるほど、目覚めたときに取り返しの付かないことになっている可能性がある。

 個人的には「朝日叩き」そのものは、同社の権威主義的スタンスが招いた問題と解釈しており、全く擁護するつもりはないのだが、それがテロルに発展し、日本の国際的地位や民主的体制を脅かすとなれば、やり過ごす訳にもいかないだろう。

 ただ、先に指摘しておくが、朝日新聞は自らの社史(1995年)で1931年の柳条湖事件について、「関東軍の謀略とは知る由もなかった」と自己弁護に努めているが、最新の研究では、新聞記者たちが陸軍の記者クラブなどで関東軍の謀略によるものであることを耳にしていたことが分かっており、憲兵の記録には新聞記者が「日本軍による自作自演」説を論じている旨の報告があることも明らかになっている。

 大日本帝国は枢軸国として連合国(後の国連)体制に挑戦して敗北、ポツダム宣言を受け入れて、ファシズムとミリタリズムを否定し、民主的な政治体制を確立することで国連体制への参加、つまり国際社会への復帰が認められた。その経緯を考えた場合、本来であれば、西ドイツのように戦前・戦中の国家犯罪に対して正面から向き合って「ファシズムの犯罪は永遠に許さない」という「戦う民主主義」を採るという選択肢しかないはずだったが、戦後日本は異なる道を歩むことになった。

 戦う民主主義は、ドイツなどの欧州において実践されているデモクラシーの理念の一つで、ワイマール体制の崩壊とナチス独裁の成立を許したドイツの歴史を踏まえ、デモクラシーを否定する自由や権利は認めないという考え方である。具体例を挙げるならば、ドイツ基本法は、意見表明や出版の自由その他の基本的権利を「自由で民主的な基本秩序を攻撃するために濫用する者は、これらの基本権を喪失する」と規定している。

 ポツダム宣言の受諾によって日本は政体の変更が余儀なくされ、その根拠となる憲法をどうするかが課題になるが、GHQとの交渉を経て、極めて権威主義的な大日本帝国憲法を廃棄することなく、憲法改正という手段をもって民主的憲法の導入が図られた。

 その際、日本の旧軍および右派勢力を過大視したGHQは、共産主義勢力に対抗する意図もあって天皇制の維持を容認することにした。具体的には、実質的な政府案で帝国憲法の字句を修正した程度だった松本丞治案を否定すると同時に、天皇制廃止と大統領制導入を主とした高野岩三郎の憲法草案も否定、独自のマッカーサー草案が作成されることとなった。これによって天皇の主権をはく奪し、国民主権を規定する象徴天皇制へ移行する方針が固まるが、権威主義の一部存続を容認する代償として、日本の常時非武装が求められ(防衛は国連軍が担う前提)、それが第9条という形で実現した。権威主義が一部存続した例として最も象徴的なのが日の丸と君が代であり、それはファッショ復活の苗床として戦後日本のデモクラシーを脅かし続けている。

 このプロセスは、日本国憲法の条文を一目見ればわかる。第1条から第8条までが天皇のあり方を示す一方で、それに蓋をするような形で第9条の「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権否認」が盛り込まれた。なお、他の憲法草案である松本案は再軍備を前提とし、高野案は軍事に触れていない。

 戦争責任については、軍部をスケープゴートとすることで(軍部悪玉論)、ファシズム・全体主義の政治的責任あるいは道義的責任を黙過すると同時に、天皇の政治責任をも問わないことになった。大日本帝国憲法においては、天皇が唯一の主権者であったはずだが、政府とマスコミは「一億総懺悔」を唱えることで、国民からの戦争責任の追及を回避した。その後、日本政府は、東京裁判の判決受け入れを含めるサンフランシスコ講和条約に調印、国際社会への復帰を果たした。

 ところが、自民党や旧日本維新の会あるいは右派勢力が志向するのは全く逆の方向で、「日本のファシズムとミリタリズムは犯罪ではなかった」という権威主義への回帰だった。それは旧連合諸国からすれば「ポツダム体制に対する挑戦」「自由と民主主義の価値の否定」としか写らない。靖国神社と慰安婦問題で日本の右派が採っている主張や行動は軍部悪玉論を否定するものでしかなく、安倍首相が主張する「戦後レジームの打破」と関連づけられて、いつ「ポツダム体制の否定」と理解されてもおかしくない情勢にある。

 天皇制・権威主義を肯定して「戦う民主主義」を採らない以上は、日本としては「戦前・戦中の軍部の行為と責任については連合国の言うとおりにする」ことが国連・戦後体制への参加条件になっていると考えるべきであり、むしろ史実や真相がどうであったかについては口をつぐんで一切触れないようにするのが、日本の国際的地位を保つ前提であるはずだった。
 特に韓国の場合、日韓基本条約に伴う請求権協定の締結をもって国家間の補償問題としては解決済みであり、韓国側は個人レベルか人道・倫理上の問題としてしか扱えないはずだった。ところが、日本側が国を挙げて騒ぎ立てているため、わざわざ相手側の土俵に乗ってしまって、逆にプロパガンダの材料を与えてしまっている。

 実のところ、日本政府・外務省は十分に理解しているようで、だからこそ安倍総理らは一方的に朝日新聞社に対して「再検証」「国際社会に対する説明」「日本の名誉回復に向けた努力」を求めているのだろう。稲田朋美氏などは、大臣時代は口にすることの無かった「河野談話の見直し」を、内閣から外れて自民党の政調会長に就任した途端、政府に要求する有様である。

 それは安倍一派の姑息を示すものだ。彼らが本気で「戦後レジームの打破」を志向するのであれば、政府内や国会で検証し「軍の無実」を証明して、自らの口で国際社会に対して堂々と宣言すれば良いはずだ。だが、彼らは「河野談話の撤回」さえ出来ないでいるのが事実だ。それは、安倍一派が「政治的信念」「政治的パフォーマンス」と「国際社会における孤立」を天秤に掛けて、恐らくは政府・外務省の圧力にもあって「最後の一歩」を控えていると見るべきだろう。その歪んだストレスのはけ口が「朝日叩き」に向いている、というのが私の解釈である。これらのことは、安倍一派の論理が日本国内でしか通用しないことを示している。

 私自身は同問題に関わったことはなく、熟知しているとは言いがたいが、敢えて私の理解も示しておきたい。

 まず、日本軍の占領地と海外領土(台湾、朝鮮など)を含む日本国内とでは、慰安婦に対する軍の対応も大きく違ったようで、確かに国内では軍の委託を受けた民間業者が慰安婦の採用と渡航・移送を担っていたが、占領地では軍人や軍属などによる「現地調達」や性暴力が横行していたと考えられる。実際に後者のケースはインドネシア(蘭印)や海南島を始めとする中国、フィリピンなどで確認されているが、いずれにしても軍の文書が終戦直後に廃棄されているため、文書から検証するのは難しい。公文書が証拠隠滅を目的に意図的に廃棄されている以上、「軍による犯罪行為はなかった」と断定するのは軽率というよりも、証拠隠滅を認めるという意味で犯罪行為に荷担するに等しい。

 また、「慰安所は民間の公娼施設」なる言説もあるが、陸軍省の「野戦酒保規程」に、

第一条 野戦酒保は、戦地又は事変地に於て、軍人軍属其の他特に従軍を許されたる者に、必要なる日用品飲食物等を正確且廉価に販売するを、目的とす。野戦酒保に於て、前項の外必要なる慰安施設をなすことを得。

とあり、昭和12年(1937年)9月、日中開戦に合わせてわざわざ「慰安施設」の一節を加えて改正していることからも、これを民間営利施設とするのは難しいだろう。

 当時の「公娼」に対する理解にしても、昭和初年には「人身売買」や「強制売春」といった内外からの批判を受けて日本国内でも公娼廃止に向けた動きが進んでおり、内務省も「業者による自主的な廃業を進めて根絶を目指す」という方針だった。軍が民間業者を通じて国内で慰安婦を募集するようになってからも、「軍の依頼などと言って公序良俗に反する事業や犯罪行為がまかり通っているので厳重に取り締まるように」といった指示が県警から所轄に下されている。現代の右翼人士と異なり、当時の社会の一般的な理解は公娼制度が「人身売買を主とした強制売春」であり、「公序良俗に反する」ものだったことを示している。これは現代の国際社会が非難する「性奴隷」の意味と殆ど変わらない。

 ところが本来であれば、この手の「醜業」に従事することを目的に海外に渡航することは認められないはずだったが、その後急転して渡航許可が下りるようになった。その理由は判然としないが、恐らくは軍部と内務省に「軍の慰安施設開設に消極的に協力する」旨の暗黙の理解が出来たものと考えられる。

 実際に国内から戦地に慰安婦として送られたものの中には「契約した内容と違って慰安所に送られた」という苦情が無数に上がったものの、殆どの場合、彼女たちには抗議する権限も術もなかった。これは裁判権の行使が認められず、行政の人権救済制度も機能していないという点で、国内の公娼よりもはるかに奴隷に近い扱いだったことを示している。

 いわゆる吉田証言の否定は「軍による直接的な強制連行や誘拐は無かった(らしい)」というだけの話であって、日本政府や軍部の非人道性が免罪される理由にはならない。
現代の右翼人士は、せっかく政府が「ホコリが出ないように」、あるいは事が大きくならないように上手く誤魔化し先送りにしてきた問題を、わざわざ自らほっくり返して大騒ぎしてしまっているようにしか見えない。慰安婦の中には、朝鮮人や中国人よりもはるかに多い日本人がいたという事実を忘れて叩きまくって悦に入っている彼らは、結局のところ自国を貶めているだけであることに全く気づいていない。

 同時に、彼らはオランダに対しても「強制連行は無かった」と言えるのだろうか。このことは、本問題が人種・民族差別という側面を備えていることを示している。

 (筆者は政治・文化評論家)


最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧