【国民は何を選んでいるのか】
国政選挙から読み解く日本人の意識構造(8)

どうして「山は動いた」のか
― 土井社会党「おたかさん」ブームの背景と教訓 ―

宇治 敏彦


 ブームは突然やってくる。それは政治の世界でも同じことだ。1986年7月の衆参同時選挙で日本社会党が惨敗を喫したことを受けて、同党の石橋政嗣委員長、田辺誠書記長が辞任した。9月6日の委員長選挙で土井たか子副委員長が上田哲氏(NHK出身、元日本放送労働組合委員長)を破って第10代委員長に当選。ミニ政党を除けば女性党首誕生は日本で初のケースだった。ちなみに土井さんは1996年、細川護煕政権当時に衆院議長に就任したが、これも国会において初の女性議長である。

 彼女は同志社大学や関西学院大学で講師として憲法などについて講義していた法学者で、いわゆる社会主義運動の活動家ではなかった。1969年12月の第32回衆院選で旧兵庫2区から初当選後は社会党右派の指導者・江田三郎氏に近い考え方の「新しい日本をつくる会」に田英夫氏(元ニュースキャスター)らとともに所属していた。活動家出身が目立つ社会党内では異色の存在だったが、その人が低迷する社会党に大ブームを巻き起こしたのだから不思議な現象ともいえた。

 副委員長時代の土井さんについて左派活動家として鳴らした曽我祐次氏(元社会党副書記長)が近年の著書で次のようなエピソードを紹介している。

 「(土井氏は)石橋委員長のときの副委員長。やっぱりお飾り副委員長。いつも三役会議を開くと遅れてくるんだ。そうすると石橋が『今お化粧のお時間だから、土井さん来なくてもやってましょう、ねえ曽我君』とかいって始めちゃって。だいたい重要ないいところが始まってから来るんだ。ちゃんと自分の席に座るけれども、ほとんど何の発言もしなかった。そんな具合で副委員長を務めていたが、三役までやっているんだから、少しは党的な運動とか活動というものを理解していたかというと、ちょっと無理だったね。憲法学者というのかな、そういうことで売り込み中だったから。『やるっきゃない』とか、そういう言葉をつくるのは、なかなかセンスがあってうまかったんだが、やっぱり本当の社会民主主義者に育ったというふうには思えませんな」(曽我祐次『多情仏心 わが日本社会党興亡史』2014年、社会評論社)

 いかにも曽我氏らしい毒舌だが、その「社会党的活動をしなかった」女性リーダーが1989年7月の東京都議選では社会党の議席3倍増、同じく参院選で改選議席を倍増させ自民党を上回る大勝を果たしたのだから、けなすだけでは故人に酷というものであろう。

 土井委員長が誕生した時は中曽根自民党が1986年7月の衆参ダブル選挙に圧勝した直後であった。中曽根首相の総裁任期がさらに1年延長され、同政権が国鉄の分割・民営化8法を成立させるなど自民党政権の底力を見せつけた。ところが、翌年春になると、様相は一変する。
 1987年3月8日に行われた参院岩手補選で社会党の小川仁一氏(前衆院議員)が42万票余を獲得し、弔い合戦だった自民党新人の岩動麗氏(岩動道行・元参院議員夫人)に22万票以上の大差をつけて圧勝した。岩手選挙区で1968年以来19年ぶりに社会党が議席を回復したことになる。また4月12日に行われた第11回統一地方選挙でも北海道知事選で横路孝弘氏、福岡県知事選で奥田八二氏と革新系が圧勝した。それとは対照的に道府県議選では自民党の不振が目立った。

 なぜ農村部に弱いとされてきた社会党が地滑り的大勝を果たすことが出来たのだろうか。その大きな原因は中曽根自民党が掲げた「売上税」導入路線にあった。社会党をはじめ公明、民社、社民連の野党各党は、一斉に売上税の導入反対で足並みを揃えた。
 「岩手県民が(岩動氏への)香典票を入れないほど冷たいはずがない。売上税は公約違反という反対論が香典票を上回ったということではないか」と解説する識者もいた。売上税法案は事実上の廃案になった。

 同年10月、中曽根首相は後継の自民党総裁に竹下登氏(経世会代表)を指名し、11月6日に竹下内閣が発足した。同時に労働側でも11月に従来の総評、同盟などに代わる全日本民間労組連合会(連合)が発足し、55単産、約540万人が参加した。

 翌1988年には政界全体を揺るがす大きな事件が発生した。マスコミ報道が発端になったリクルート事件である。リクルート関連会社・リクルートコスモス社の未公開株を政界・官僚・財界・地方自治体幹部・マスコミ関係者に大量に配布し、公開後に暴騰した時点での売却を勧め、千万円台から億単位の利益を贈答者に保証するという巧妙な贈収賄事件だ。未公開株を受理した公明党の池田克也代議士が党役員を辞職、社会党の上田卓三代議士が議員辞職したほか日経新聞社長、読売新聞副社長、NTT会長らが相次ぎ辞任。竹下首相、中曽根前首相、宮澤蔵相らにも嫌疑がかかり、消費税(売上税から改称)導入法案の責任者だった宮澤氏は蔵相辞任に追い込まれた。

 89年に入ると有権者の「自民党離れ」は一段と加速し、2月12日の参院福岡補選では社会党候補が自民党候補に19万票の大差を付けて当選した。そして竹下首相の後援会がリクルートからの献金を受けていた疑惑で「金庫番」といわれた元秘書が4月に自殺。竹下内閣の支持率は7%台に下落した。竹下氏は予算案、消費税導入法案の成立と引き換えに辞任する決意を固め、6月2日に首相の座を宇野宗佑氏にバトンタッチした。竹下氏としては政治改革に熱心な伊東正義氏に後継を託したかったのだが、伊東氏が「(自民党の)中身を変えずして本の表紙だけ変えても無意味だ」と固辞したことから、宇野氏にお鉢が回ってきた。

 ところが、その宇野新首相の女性スキャンダルが週刊誌などで報道され、東京都議会議員選挙、参院選挙を控えて自民党は再び苦境に立たされる。7月2日の都議選では社会党が36議席と議席を3倍に増やす一方、自民党は20議席減らして43議席にとどまった。社会党で女性候補の当選者は12人に及んだ。

 翌3日午前11時過ぎ、三宅坂の社会党本部に顔を出した土井委員長は報道人からコメントを求められ「怒りの一票が政治を変えるということね」と述べた後、与謝野晶子の「山動く」という歌を引用して「眠っていた山が動きだしたということです」と語った。

 土井氏は委員長就任以来、(社会党再建のために)「やるっきゃない」、(消費税導入には)「駄目なものは駄目」などの流行語を生みだしてきたが、「山が動いた」はそうした土井語録の中でも突出しており、今日まで広く伝えられている。
 ちなみに土井氏が好きだった与謝野晶子は、山をテーマにした短歌をたくさん作っており、歌集「深林の香」には「霜降れば白樺の木の梢なる遠山うごくここちこそすれ」とある。土井委員長にしてみれば、各種選挙での社会党の快進撃は、まさに「山が動く」心地がしたのであろう。

 社会党の躍進はさらに続き同23日の第15回参院選では同党が46議席(24議席増)、自民党が36議席(30議席減)と与野党逆転が実現した。非改選との合計でいうと、自民109、社会67、公明21、共産14、連合の会11、民社8で、自民党は過半数(127)割れをきたした。宇野首相は24日、辞任を表明、わずか69日間の短命内閣に終わった。宇野首相の後任には自民党から海部俊樹氏が選ばれたが、この時の首班指名選挙では衆院で海部氏、参院では土井氏がそれぞれ1位となり、憲法第67条により海部首班となった。41年ぶりに両院で異なる指名であった。

 土井ブームは、この後もしばらく続き1990年2月18日の第39回衆院選挙では、自民党が275議席で安定多数を確保した一方、社会党も136議席と解散時勢力より53人も増やす大躍進だった。これは1967年の140議席以来の成績である。

 こうした土井ブームの背景には何があったのだろうか。よく指摘されることに次の3要因がある。

 第1に有権者は「増税には絶対反対」という意識が根強いこと。それは大平正芳内閣当時の1979年、元日の年頭所感や1月4日の伊勢神宮参拝後の記者会見で大平氏が「財政再建のため一般消費税を(昭和)55年度中になるべく早く導入する契機を掴みたい」と述べた時の有権者の反応がそうだった。同年10月の第35回衆院選で自民党が振るわなかったのは日本鉄道建設公団(当時)の組織的なカラ出張とヤミ給与問題が有権者から「政府機関がヤミ給与を支給していて何が財政再建だ」と反発を買ったせいもあるが、底流には次のような事情もあった。

 「自民党内でさえ、“増税を掲げては選挙は戦えない”との空気が圧倒的に強く、それを受けるかのように、河本政調会長は、(9月)12日の自民党全国県連幹事長会議で『下記の経済運営を誤らなければ、5兆円の自然増収は可能』であると発言し、増税なき財政再建の路線が共感を呼んだ。13日には、三木武夫元首相が『増税の独断専行は困る』と首相を批判した」(『大平正芳回想録』1983年、大平正芳回想録刊行会)

 また1998年7月の参院選で自民党が惨敗し、橋本龍太郎首相が退陣を余儀なくされたのも、次の理由からだった。
 「支持を失った原因は政策通を自認した、その政策にあった。すなわち97年4月からの消費税5%のスタートや医療費の値上げ、特別減税の中止などが響いたのである。財政再建に足を踏み入れたことと並行してデフレ要因が増大し、回復軌道に乗り始めていた景気が97年後半から中折れしてしまった」(2001年『首相列伝』宇治敏彦/編、東京書籍)

 安倍晋三首相は就任以来、2回にわたって消費税の再引き上げを見送ってきた。合計4年延期して2019年10月に現在の8%を10%に引き上げる段取りだ。その時点の総理大臣が安倍氏か、あるいは別人かは現時点で不明だが、国民が「ハイ、ハイ」と同調するとは思えない。かつての「土井ブーム」の背景に有権者の「増税嫌い」が大きく影響したことは間違いない。

 第2の社会党躍進要因は、リクルート事件など主として政府・自民党幹部を中心とした金権政治体質への有権者の反発である。「政界の黒い霧」(佐藤内閣)、「ロッキード事件発覚」(三木内閣)、「ダグラス・グラマン両社の航空機疑惑浮上」(大平内閣)、「浜田幸一自民党代議士のラスベガス賭博事件発覚」(同)、「リクルート疑惑浮上」(竹下内閣)など自民党長期政権の膿が次々に世間を騒がし、さすがに有権者も1955年体制以来の自民・社会の二大政党制ないしは疑似二大政党制に愛想を尽かし、特に「自民離れ」が目立つようになった。

 第3には宇野首相の女性スキャンダルが女性有権者の反発を買い、土井ブームと重なって「マドンナ旋風」と呼ばれたほど女性議員の誕生を加速させた。

 しかし、1991年1月に湾岸戦争が勃発し、海部俊樹内閣が90億ドルの湾岸支援策を決めたり自衛隊の海外派遣(ペルシャ湾への掃海艇派遣)を行ったり、PKO(国連平和維持活動)協力法案を手掛けたりするようになると、非武装中立論の社会党の存在感が次第に薄れ始めた。それは今日の安倍政権が北朝鮮の軍事的脅威などを理由に安保法制や防衛費増強、さらには改憲ムードを高めているのに対して民進党など野党が陥没したのにも通ずる点がある。

 「土井ブーム」は、こうした空気の中でしぼんでいった。特に決定的なダメージは1991年4月の統一地方選における道府県議選で当選者数が過去最低となったことと、東京都知事選(鈴木俊一都知事が自公民3党推薦の磯村尚徳氏を破った選挙)で社会党が担いだ大原光憲候補(中央大名誉教授の政治学者。故人)は共産党推薦の畑田重夫候補にも敗れる4位に甘んじたことだった。翌月、土井委員長は責任をとって辞任した。4年半で「土井ブーム」は消えた。冒頭にも書いたように「ブームは突然やってくる」が、同時に「ブームは突然去っていく」ものでもある。最近では小池百合子東京都知事が立ち上げた「希望の党」もその一例だろう。都知事選、東京都議選までは「小池ブーム」がまかり通ったが、その後の衆院選では小池知事が出馬しなかったことも影響してブームは一挙に冷めてしまった。

 土井社会党の反省・教訓があるとすれば、政治活動に政治家個人の人気は不可欠な一面があるものの「人気」だけではいずれ廃れる。「人気」と同時に「理論武装」「日常活動」が不可欠なことである。土井さんを批判していた前記の曽我祐次氏(93歳)から今年もらった年賀状には「皆さんの元気をいただいて野党たて直しの一助たらんと心に決めています」と付記してあった。
 「旧社会党らしい会合だった」と筆者が感じたのは2015年10月1日夜、雨に打たれた日比谷公会堂での「浅沼稲次郎さんを追悼し未来を語る集会(日本の民主主義の危機を考える)」だった。詩人・草野心平が55年前の1960年10月につくった「浅沼委員長を悼む」という詩を講談師の神田香織さんが朗読した。

 「1960年。
  この年は忘れられない事件が沢山おこった。
  その一つ。浅沼社会党委員長暗殺さる。
  私は政治を知らない。
  私はどの政党にも属さない。
  私は然し一人の日本人として
  日本民族の一人として
  沼さんの死を心から痛む。
  少年の刃を心から憎む。
  少年の背後を更に深く怖れる。
  日本を愛するといって日本をあやまる人たち。
  間接に人殺しを援助する人たち。
  その暗いテロリズムを憎む。」

 ここでは冒頭部分だけ紹介したが、沼さんの死を悼むかのように激しく降る雨の中を村山富市、福島みずほ、伊藤茂、曽我祐次、吉田忠智、辻元清美氏らをはじめ旧社会党、社民党関係者などが会場一杯に詰めかけていた。作家の落合恵子さんは、こんなメッセージを寄せた。「『人間機関車』と呼ばれていた浅沼さん。非力ながら、わたしたちひとりひとりが、民主主義をとり戻す、あるいは自前の民主主義をここから創り上げる『人間機関車』でありたい」
 本稿の主人公、土井たか子さんは、この集会の前年9月20日に亡くなっていた。

 (東京新聞・中日新聞相談役、元論説主幹)

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