【アメリカ報告】

よみがえるオバマ大統領とアメリカの人種差別

武田 尚子


 オルタ139号・140号で、アメリカの人種差別について報告してきた。この数ヶ月、人種問題はこれまでにない厳しさで、アメリカ人の心を揺さぶり始めた。
 まず、ドライブ中にかけられた停車命令から死に追いやられることも稀ではない、ポリスによる酷薄な黒人の扱いかたが続いて明るみに出て、いまになって識者や評論家やマスコミをまきこむ大きな社会問題として浮かび上がってきたのはなぜだろう。

 その直接のきっかけは、オルタ139号で報告した、サウスカロライナの銃撃事件であろう。
 2015年6月、ヴァージニアの州会議員であり、きわめて人望の高かったクレメンタ牧師をふくむ9名の黒人が、エマヌエル教会内の聖書講義の最中に、21歳の白人青年によって射殺された事件である。青年の背景には、白人絶対優位を説く集団への情熱的な傾倒があったことが次第に明らかにはなったが、彼はその集団に銃撃の具体的な手引きをされたわけではない。しかしほぼ1年前のミズーリ州ファーガソンでの、ポリスによる、無防備の青年マイケル・ブラウン殺害の衝撃以来のこの事件の大きさが、アメリカに黒人差別への考察のきっかけを提供したのは確かなことに思われる。

 この動きを助けたのは、ほかならぬオバマ大統領の“よみがえり”とも“人種的ルネサンス”とも呼ばれる、これまで彼を牽制していた政治的考慮を超える、黒人大統領としての、人種偏見に対する正直な対応である。オバマのよみがえりは、限られた彼の任期の終わる前に、なんと批判されようと、なすべきことはすべてしとげたいという彼の決意に動かされていることも事実であろう。

 ニューヨークタイムズへの寄稿論説“オバマ大統領の人種的ルネサンス”で、ジョージア大学教授、エリック・ダイソン氏の声をきこう。(要旨)

 “本年7月の、フィラアデルフィアでのNAACP(全米有色人地位向上協会)での例年会議で、オバマ大統領が壇上に立ったとき、彼は2009年の大統領就任式以来私が待望し続けていたリーダーにふさわしい言葉を聞かせてくれた。

 オバマ大統領の多くの支持者は、彼の選挙以来、人種差別についての率直な言葉を聴きたがっていたが、就任してからの大統領はこの問題にいささか臆病であり、ほとんどの場合、我々支持者の心穏やかならぬ沈黙のうちに、逃げ去っていたのである。

 ファーガソンのマイケル・ブラウンの死から1年が経つが、アメリカは黒人に対する猛襲を少しも解決してはいない。
 しかし我々は今、大統領と共にそれと対決しようとしているのだ — 我々には初めての、アフリカ系アメリカ人の大統領としての自信ある声を見出した大統領と共に。

 オバマ大統領を人種的ルネサンスに導いたのは何だろう? さらに重要なのは、この動きが言葉以上のものであるためには、何が必要なのか? 鋭利なレトリックと、ポリスにボディカメラ(*)をつけさせる資金を供給したこと以上に、初代の黒人大統領は残された任期を終えるまでに、この国の黒人市民がよりよく生きられるような政策をとることができるのだろうか?
(* ポリスの黒人への暴行を審査しても、証拠がない限り、ポリスたちは言を左右にして事実を認めようとしない。ボディカメラの強制着用は、ポリスの虐待を防ぐ上ですでに成績を上げ始めているという。 武田)

 私は大統領が彼にとってよりふさわしい声域で歌い上げるなら、必要な行動が生まれると信じる。つまりそれは例えば連邦政府による警察部門への圧力であり、最高裁判所による、人種偏見にあふれた警察署へのより正確な事件調査の要求であり、また、無防備の市民の殺害事件の調査を今後は地方検察官に任せないとするなど、大統領の力で可能な、広範な保安上の改革を意味している。

 大統領の変化の大部分は、歴史の大波によるものであり、偶然の要因が重なって、彼を2−3ヶ月前には考えられもしなかった、力の高みにおしあげた。ポリスによる、ガンを持たない黒人市民の射殺にたいする BLACK LIVES MATTER 『黒人の命は重要だ』運動の立ち上がりが、大統領を正しい方向に導いたのだ。

 大統領就任の初期、彼が人種を問題にしなかったのは理解できる。彼を「ろくでなし」とも「猿」とも呼んで、国の最高政治を任せるに全く値しない人物だと決めつけた右翼の猛攻撃の真只中に人種問題を持ち出したら、アメリカは分裂していたことだろう。

 彼は嘗て2010年に、オーバル・オフィスでのインタビューで私にこう話してくれた。「私は四六時中批判にさらされています。批判の若干は正当なものだが、そうでないものが大部分です。もしも私がそれらについて考えることで時間をついやしてしまったら、私は麻痺して手も足も出せなくなるでしょう。人々は自分の気持がいかに傷つけられたかを愚痴る人間ではなく、自分に職を与えてくれる大統領を求めているのですから。」ついでティーパーティからの黒人大統領への抵抗の大部分は人種偏見というより反政府感情から出たものだと言った後で、付け加えた。「もちろんあの抵抗には私の人種についての要素が含まれてはいるのでしょうが。私の知るかぎり、れっきとした出生証明書を持ちながら、出生地を疑われた大統領が他にあったとは思えないのですから。」

 この大統領はしばしば、人種を潜在化する政策をとってきた。人種のエネルギーを取りこんで、それを人種中立の企画に持ち込むのであり、医療保険オバマケアがその好例である。少数民族のためという体裁なしで、主として彼らを助けようとしているのは明らかだ。しかし、なかなかむずかしい問題で、表面は静かにみえても、人種間緊張は常に底流にあった。だが警官の黒人殺害問題と黒人の抵抗が大問題として浮上した時、正面きっての(警察官の黒人虐待に対する)大統領布告への道は開かれていた。

 昨年11月、ニュース会見のテレビスクリーンで、半面はオバマ大統領、半面は催涙ガスやサイレンが鳴り響くファーガソンの街で、最高裁判所がガンを持たない青年マイケル・ブラウンを射殺したポリスを不起訴にしたために起こった、大きなプロテストの情景が放映された。オバマ氏は厳しい表情で、顔面はやつれ、黒人の苦痛を最終目的にした、悔悟抜きの論理によるこの残酷な事件に緊張していた。
 その時の大統領は、アメリカ黒人の大統領ではなく、彼の言葉と同時に分裂していくかにみえたアメリカ合衆国の大統領だと感じられた。

 以来、何ヶ月かが過ぎた。彼はアメリカ黒人の生活について考慮する必要の切迫していることをはっきりと口に出した時はじめて、アメリカ全体の大統領である道を見出した。
 アメリカ黒人への偏見と彼らの生活状態の真実についてオバマ氏が自由に述べることができる時、彼は彼の達成し得る最善の大統領となる自由に恵まれるのだ。 (エリック・ダイソン)

 オバマは黒人も白人も含むアメリカの大統領である。つまり彼には、白人の残酷さも、黒人の苦痛も、大統領としての自分の(責任の)一部である。であれば、彼が、悔いを見せないアメリカ白人の黒人虐待を自分の罪と感じて苦悩することも、一旦緩急あらば、政治的な懸念をこえて、黒人の権利を臆さず堂々と主張することも、彼をより良い大統領にするとダイソン氏は述べているように見える。「オバマよ、自分自身であれ、自分の声を聞け。」というこの歓迎すべき正当な主張が、現下の困難な政治状況のもとで何をもたらすか。行く方を見守りたい。(武田)

◆アメリカが、人種偏見の真実に目覚める時

 ここで、サウスカロライナの銃撃後に現れたいくつもの人種差別に関する論説の中で、筆者が非常に興味深く読んだ一編の大要をご紹介したい。ニューヨークタイムズの通信員だったイザベラ・カーソンという女性の筆になるもので、同氏には『偉大なるアメリカ移住者たちの叙事詩的物語:よその太陽の暖かさ』の著書がある。

 この論考はまず、南北戦争の南部連邦の軍旗が、サウスカロライナの首都、チャールストンの市庁舎に、1961年4月以来かかげられていたこと。わずかに時をさかのぼって、1960年7月にはアメリカの道徳の守護者と讃えられ、アメリカ文学の中でもっとも愛されたと言われる理想主義者アチカス・フィンチが、ハーパー・リーの“TO KILL A MOCKINB BIRD =アラバマ物語”で登場したことを指摘する。“TO KILL A MOCKINB BIRD”は、アメリカを席巻して数十年にわたるベストセラーを続けただけでなく、イギリスの読書界が、聖書を読む前にまずこれは万人が読むべきだと讃えた本でもあったし、オスカー賞に輝いたこの作品のアメリカ映画では、アチカスを演じたグレゴリーペックが、20世紀の映画界最高のヒーローになった。

 ところがこの二つ、南部連邦旗とアチカスがともに、数ヶ月前には想像もできなかったことだが、ほとんど時を同じくして[落ちた偶像]になってしまった。そしてそれは、アメリカ人に彼ら自身とその歴史に反省を強い、彼らがこれまでどんな人間であったのか、またどんな人間になろうというのかを徹底的に考えることを求めている。

 さて、連邦旗が降ろされたのは、エマヌエル教会の銃撃事件後、2015年7月10日のことだった(オルタ139号)。続く火曜日には、まるで歴史の神々からメッセージを受けたかのように、ハーパー・リーの作品“GO SET A WATCHMAN” の出版で、新しいアチカス・フィンチが世界に登場した。これはリーの若い時の作品で、それまで出版されなかったが、アラバマ物語に語られた仮想の事件から20年後に設定されている。

 新しく登場したアチカスは、アラバマ物語の、自己の信念のために戦い抜く颯爽とした理想主義者ではなく、娘スカウトに“お前は黒人が大量にこの国にやってくるのを本当に見たいのか、彼らは民族としてはまだまだ幼稚すぎるのだよ”と、かつての黒人被告擁護の時、娘にきかせた言葉とは裏腹な黒人観を明らかにして恥じない老人なのである。

 アメリカは今、ポリスの手で理由なく殺される黒人の現実に目覚め、抵抗する黒人の騒乱に出会い、チャールストンの教会を襲撃した、絶対的な白人優位の信奉者である青年を知り、かつての奴隷船の船長の歌った“驚くべき神の恩寵 — AMAZING GRACE”を、クレメンタ牧師への弔辞の一部として歌い上げたオバマ大統領の心をさぐり始めた — かに見える — つまり、歴史はいま、アメリカ人が、彼らの心中深く根を下ろしている「我々は人種偏見を既に乗り越えた」という希望的な思い込みに、真っ向から対決せよと告げているのだ。

 この新しいアチカスについて重要なのは、いま彼の擁護する人種差別が、幾つかの層を持つ複雑なものであることだ。彼は紳士的差別主義者とさえ呼べるかもしれない、白人優位を当然とする善意の人間である。言葉を換えて言うなら、彼はアメリカのどこででも出会える、ごくありふれた人間なのだ。アメリカ社会で人種差別がいかに発展してきたかという近々発表される人間の性格研究に照らしてみるなら、同情心と偏狭さが同一人物の中に住めるはずがないというのが世間の通念であっても、実際にはしばしばそれが同時に存在していると研究者のいうところとアチカスの例は、まさに一致している。そしてそれこそ何世代もの変異を経て、アメリカの人種偏見問題の処理を非常に困難にしてきたものなのである。
 新しいアチカスに見られる、複雑な人種偏見のパターンは、今日のアメリカ人の多数の心に住み着いているものとさして変わらないと、ハーバードの社会学者デヴィド・R・ウィリアムズ氏は言う。アメリカ社会では、大半の子供は黒人にたいする明らかに否定的な偏見を持って育つようになるが、そのために悪い人間とは言えない。彼や彼女はごく正常なアメリカ人なのである。

 人種偏見はあまりに深くアメリカの文化に埋め込まれているので、偏見が我々の世界観を作り、偏見が我々の信条を、行為を、自分以外のグループの人に対する行動を決定する。我々は、我々自身を深く掘り下げて調べてみることなしに、偏見の問題を解決はできない。

 150年前、アメリカは南北戦争後の国家の再建を始めようとしていた。それは、奴隷としてアメリカに連れてこられ、無報酬でこの国の建設にたずさわった人たちに自由と平等への希望を与えた時期であった。しかし再建期は10年そこそこで終わり、もっと陰険なジムクローの階級制度が、彼らをまた底辺に縛りつけて苦しめることになった。アメリカは未だにそこから完全に解放されていない。

 ところで、最初に合衆国を脱退し、南北戦争の最初の銃弾が放たれたサウスカロライナで南部連邦旗がとり下ろされたことは、これからのアメリカを今度こそ真に意味のある再建に向けて出発させるのだろうか? 「アメリカは人種偏見を克服した」という神話の虚偽を捨て去り、アメリカがいかにしてこの現実にたどりついたかについてもっと正確な歴史を知るためには、大きな勇気が必要だ。この国の岸辺に連れてこられた人たちの未だに続く苦難をはっきりと認め、アメリカ人が遺産として受け継いだ、ものいわぬ階級制度が今日もなお力を保ち、アメリカを国家として停滞させているのを理解するには、きわめて寛大な精神が要求される。

 サウスカロライナで南部軍旗がとり下された翌日、リッチモンド・タイムズ・ディスパッチ(*1)は驚くべき宣言をした。「ついに Truth and Reconciliation Commission — 真実と和解委員会(*2)の出るべき幕になった。そしてそれはヴァージニアがリードすべきだ」というのである。「最後の決算はまだ出ていない。半ばはいまだ語られない」とも。これこそまさに歴史が求め、この瞬間が要求するものだ。ひょっとすると、新しいアメリカが、もともと南北戦争で、合衆国に抵抗した土地から始まるとすれば、持続する、真に意味深い再建が生まれるかもしれない。

 仮面を脱いだ新しいアチカス・フィンチは、アメリカ人がこれまで何者であったのかに彼らを目覚めさせ、現実には決して存在しなかったアメリカを理解させる助けをしてくれるだろうか? 今のアメリカ人には、過去の罪を洗い流し、真実を抱擁しーさらにその発見を力とすることこそ、至上命令なのだから。(イサベル・ウィルカーソン Isabel Wilkerson)

(*1)リッチモンドは、ヴァージニア州の首都

(*2)Truth and Reconciliation Commission 真実と和解委員会(仮訳)
これは政府の行った過去の不正行為を発見し、明らかにする委員会であり、何年も何十年もの、いやそれ以上もの昔から未解決の争いを解決する目的で行動する。アメリカにはこの委員会はないが、この会議がアメリカで開催されて、アメリカの黒人にたいする諸悪が改善されてこそ、人種問題と対決できるというのがリッチモンド・タイムズ・ディスパッチの主張である。この委員会の記録した個々の黒人の体験を瞥見するだけで、戦慄しない人はいないだろう。 武田)

 この論文の素晴らしさは、人種偏見を、万人に共通する心の問題として大きく取り上げたことだと私は思う。黒人偏見は明らかに、もの言わぬ劣等階級として、大半のアメリカ人の心に住み着いて来た。あまりに自然なので、自分に人種差別偏見はないだろうかと、改めて問うことなどしないで、ほとんどのアメリカ人は生きてこられたのである。
 では意識下に始まる偏見をどうやって克服するか。少なくともファーガソンのマイケル・ブラウンの死に始まるポリスの黒人射殺を転機として、ポリス側の残忍も、多くの場合、射撃者である白人を不起訴にしてきた最高裁判所サイドの、無言の差別容認の慣行にも、最近になってようやく日が当てられてきた。アメリカの原罪と呼ばれる人種問題は、アメリカの膿(うみ)でもある。オバマが去った後、この問題がまたもや中途半端な終わり方をしないことを心から望みながら、とりあえずはここで擱筆させていただく。

 (筆者は米国ニュージャージー州在住・翻訳家)


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