【コラム】海外論潮短評(121)

よりよい人生終末期の迎え方
― 過剰医療より人道的ケアこそが必要 ―

初岡 昌一郎


 ロンドンの『エコノミスト』誌が半年前の4月29日号で、人生終末迎え方の変化を論説欄トップで論じた後、国際欄でその問題を解説的に堀下げている。長文のこの記事は東京発。また、サンパウロ発の記事も併せて収録されている。これらを要約して以下に紹介を試みる。

◆◆ 死は不可避だが、みじめな人生終末期は回避可能

 人は長生きできるようになったが、以前よりも病気に悩まされていることは現代医療のパラドックスだ。死が迅速かつ無痛であることはあまりなく、トラウマを伴うことが多い。終末期が近づくにつれ、少しばかりの延命よりももっと大事なゴールを認識するようになる。富裕国ではほとんどの人が病院か療養所で、あまり意味のない集中的で高額な医療行為を受けた後に逝く。意識が混乱したまま、苦痛の中で孤独に死ぬ人が多い。

 こうした不安と苦痛は大抵不必要で、回避可能なものである。末期的な疾病を抱える人にもっと配慮したアプローチを医療がとる可能性が、最近ようやく注目され始めている。終末ケアの提供方法と医師・患者間のコミュニケーションの改善のために、遅まきながら改革が始まった。患者の苦痛と苦悩を軽減するために、改革の目的は人生の最終段階まで自己決定権を持たせることだ。

 20世紀中に死の多くの側面が変化した。その後半40年間に、それに先立つ8,000年以上に相当する幅で平均寿命が延びた。1900年当時、世界的な平均寿命は32歳で、農業開始期よりも少し伸びていたにすぎなかった。今や平均寿命は71.8歳。乳幼児死亡率が低下したことが最大の要因であるが、成人が長命になったことも大きい。

 富裕国の人間は、終末期に重病の床で8-10年間も過ごすことは珍しくなくなった。成人病は途上国でも増加している。一世紀前には、ほとんど人々が死を自宅で迎えた。今日では、自宅で終末をまけられる人は、先進国において3分の1以下にすぎない。富裕国の貧困者ほど病院で死を迎える。今や、所得が人の死場所をも支配する。

◆◆ 効果なき高額終末医療の横行

 多くの死者は終末期に集中的な治療を受けるが、ほとんど意味のない医療行為が多い。日本における調査によると、呼吸器官にチューブを差し込まれた患者の90%はそれを外すことなく死亡する。病院で死亡する患者の5分の1はチューブを差し込まれている。アメリカでは癌終末期の患者の8分の1が、手遅れであるにもかかわらず、最後の2週間にも化学療法を受けている。高齢アメリカ人の3分の1が死亡前1年以内に、8分の1が死亡直前の1週間以内に手術を受けている。チューブの挿入や人工呼吸器の装着を受ける患者の大半は、同意を表明できる状態にはない。

 健康保険給付のあり方が過剰治療を奨励している。病院は患者の苦痛を除くことではなく、やみくもに治療することで収入を得ている。アメリカの調査では、家族と医師が対立するケースの約半分が、治療継続の可否をめぐるものである。集中治療室に入れられた患者の家族の約半数が、術後に神経性トラウマがみられることを報告している。最も重要なことは、高額な費用を要する手術・治療を施したのちの死は、患者や家族の望みに沿ったものというより、収益の拡大を図る病院側の意向によるものだ。

 アメリカのシンクタンクと『エコノミスト』誌の共同調査からも、人々が望む終末ケアと実際に受けるケアの間に大きなギャップがある。人口、宗教上の伝統、経済的発展度に大幅な差のある4ヵ国(アメリカ、ブラジル、イタリア、日本)における死と終末ケアに関するサンプル調査がある。調査対象者は過去5以内に家族か親しい人を亡くしている人だ。4ヵ国すべてで、大多数の人が自宅での死を望んでいる。だが、そうなることを予測している人は少ない。ブラジルを除き、苦痛、不快、ストレスなしに死ぬよりも、延命が大事とみる人は非常に少ない。

◆◆ 終末期を迎えた人びとの希望を汲まない医療

 人々が期待していることと実際に行われている医療のギャップは容易に解消されそうにない。死に瀕している人の希望は気づかれないか、無視されている。イタリア、日本、ブラジルでは、近親者の終末ケアについての決定に関与している人の3分の1が、臨終の床にいる人の希望が何かわかっていなかった。聞けなかったか、手遅れと思ったという人が少なくない。希望を承知していても、それが適えられるものか判断できなかったという人もある。

 核家族に変化した現在、高齢者と終末期の人々は若い人たちから切り離されており、自分の希望を聞いてもらえる機会を喪失している。ヨーロッパでは、80歳以上の高齢者で若い世代の家族と暮らしているのは10%に過ぎず、半数は一人暮らしだ。2020年には、アメリカ人の40%が老人ホームで孤独死すると予測されている。日本でも娘たちが伝統的な役割を放棄しつつあり、孤独な老人のためのホスピスや介護ホームなどの施設が増えている。

 終末ケアを怠っている主たる責任は医療にある。医師と重病患者の関係は「相互疑心暗鬼」だと東京の有名病院看護師が述べている。10年前までは、日本の医師は癌告知をしないのが一般的であった。今日では隠蔽できないが、でもセンシティブだ。医師は末期患者の寿命を過大に評価するのが普通で、それによって率直な告知を回避、成功の見込みがほとんどない過大な治療を納得させようとする。手術後2ヶ月以内に死亡した患者の診断書に関する国際的なチェックによると、平均して医師が見込んだ生存期間の半分をやや上回る程度の短期間で死亡していた。

 医師は、鎮静剤投与、呼吸困難対策、カウンセリングなどの苦痛緩和措置を無視することが多い。患者がもっとも重要なこととして求めているのが、常に治療とは限らない。このような治療を断念した終末期患者にたいする対策の研究には、癌研究支出の僅か0.2%がイギリスで、アメリカでも1%が振リ向けられているにすぎない。

◆◆ 緩和ケアを無視する現行制度 ― 高額治療に傾斜する病院

 2009年以後、末期癌患者に化学療法などの通常の治療に並行して、苦痛を緩和するケアが試行的に実施された事例に対する調査がいくつかある。それによると、苦痛緩和ケアを受けたグループは気鬱になる人がはるかに少なかったし、痛みを訴える人がほとんどなかった。いくつかの研究では、緩和ケアを受けた患者は、通常の治療を削減したにもかかわらず、生存期間が延びている(他の研究では、治療を受けても受けなくとも変化がなかった)。2016年の事例調査でも、通常の治療を受けず、緩和ケアだけを受けた場合でも、生存期間が短くなることはなかった。

 調査は癌患者のケースだけだが、こうした理由は未解明である。緩和ケアを受ける患者は病院に滞在する時間が短いので、他の病気に感染する危険が少ない。何人かの研究者は心理的な説明をしている。つまり、気鬱が早期の死につながるので、カウンセリングが効果を上げるとみる。ある専門家は「会話は医療技術に勝る」と指摘する。東京の聖路加病院もそのような実例を挙げている。この病院は、日本で緩和ケアを重視している数少ない病院の一つ。

 しかしながら、毎年癌で死亡する約5,600万人のうち、適切な終末ケアを受ける人はまだ極少数にすぎない。『エコノミスト』調査部が2015年に発表した報告は、80ヵ国における死の「質」を評価している。緩和ケアを受けるのが妥当とされる人の約半数が実際に受けているのは、オーストリアとアメリカだけである。多くの国は緩和ケアにアクセス可能としているものの、保険制度が費用を負担していない。スペインは緩和ケアを利用できるとする法律を制定しているが、現実には4分の1の患者が受けているにすぎない。末期患者に高い質のケアを提供するホスピス運動は1960年代にイギリスで始まったのだが、英国の病院の約5分の1が日常的な緩和ケアを提供しているにすぎない。

 現在の保健制度による給付は緩和ケアを念頭に置いていない。終末ケアの可能性について説明しても、日本の医師は保険から収入を得られない。アメリカの病院は、重病患者が他の場所でよりよいケアが受けられる場合でも、不要な手術などで高額治療費を稼ぎまくっている。呼吸困難など病状悪化で救急搬送された患者の10人のうち9人は、もっと迅速、効果的、安上りに家庭で治療できるものであった。高齢者向けの公的保険制度「メディケア」は、老人ホームに入ると適用されない。

 しかし、徐々に改革を図る国が増えている。2014年に国連WHOが緩和ケアを健康保険制度に組み入れるよう勧告した。エクアドル、モンゴリア、スリランカ等の開発途上国がそれに従い始めた。アメリカでも一部の保険会社が、患者にとって良いことは会社にとっても良いことを理解しつつある。2015年にアメリカでも、公的保険制度メディケアが医師の終末ケア相談を給付対象に含めた。

◆◆ よりよい人生の終末を迎えるために必要な医療制度改革

 アメリカでは事前の意思表示や遺言のなかで、自分が指示能力を失った時のために、望む治療法を書いておくことが最近普及している。65歳以上の人の51%が終末期の希望を書いている。しかし、終末が近づくにあたって派生する様々可能性を文書で予めカバーすることは困難だ。医師は患者が心変わりすることを心配する。われわれの調査によると、終末治療に関して生前に書いた意志を2年後に変更することを望まなかった人は42%にとどまった。遺言による存命中の指示はアメリカ以外では稀である。しかし、死はもはや秘儀ではなく、死に関する文化は世界的に変わりつつある。

 ほとんどの人は自分の究極的な死を熟慮することを疎ましく感じている。病院や老人ホームでは死は隠蔽され、話題に乗せるのが控えられている。政治家も個人の問題としてその話題を避けている。だが、死に方について公然かつ率直に医師が患者と話し合うことは、薬を処方することや骨折を治療することと同じように、現代医療の一部とされなければならない。死を会話の対象とすることは、終末ケアをオーバーホールするために必要だ。多くの人にとって死は恐怖の対象である。現行の医療が提供されている方法・制度を改革しない限り、ほとんどの人は終末期に不必要な苦痛を受け続けるだろう。

◆ コメント ◆

 終末期を迎える人々に対する個人と社会の心構えが、高額最新医療行為による過剰医療と医療費負担の高騰、それによる公的保険制度の破産状態に密接にかかわっていることに、この記事は目を向けさせる。最新技術を駆使する手術や過剰な化学的治療が高負担を課す割に終末期患者を助けるものでないだけでなく、他方で公的医療保険制度を財政的に危機に陥れる重要な要因になっている。

 昨今の医は「仁術」ではなく「算術」に化している感がある。病院は患者を助けるよりも、自らを助けることを重視しているという批判が後を絶たない。公的医療保障制度が財政的に破綻しかけているのだが、それは高齢化社会の到来とか、老人医療費の高騰という、一般論で論じられ、受益者負担の増額という誰でもが思いつくような解決策で済まされてよいものではない。新薬開発に対する巨額投資を短期間に回収するための高額薬価の設定する薬品会社や、高価な医療機器設備に対する投資を迅速に回収するために不要な検査や手術を乱発する病院の体質など、医療保険制度を食い物にする悪弊が人生終末期を迎える高齢者たちにも犠牲を強いている。

 恐縮ながら評者の個人的経験を披露させていただくと、2年ほど前に急に首に痛みを感じ、そのうちに首が全く回らなくなった。昼間の活動もさることながら、就寝と起床の前後に特に苦痛を味わった。すぐに、かかりつけの病院で診てもらいレントゲンを撮ったが原因は究明できず、東京の専門病院で診断を受けることになった。この有名病院でCTスキャンとMRIなど、最新機器での検査を受けるために2週間を費やした後、医師が下した診断は「頸椎の老化によるもので、手術以外に施す手はない。でもこれは、リスクを伴うので本人の意思を尊重する」だった。手術を強要しない医師に感謝し、80歳を迎えた自分は手術を望まないと伝えて、唯一処方された鎮痛剤と頭部を支える首巻用リングをもらった。でも、そのいずれも使用せず、できるだけ通常の生活をスローペースで続けるようにしていた。

 その後、台湾の友人の勧めによって、漢方的な健康診断に関心を持つ友人数名と共に花蓮の大学病院で診断を受けた。西洋医学と漢方医学の両方に習熟した若手医師が、日本での診断書を参考にしながらもっぱら触診と問診で診断した。その先生は3日の間隔を置いて自ら針による治療を2回行ってくれ、漢方薬を処方してくれた。最初の治療以後、痛みが薄皮をはがすように軽減されていった。彼の診断は、私の痛みは骨よりも首の筋肉から来ていると見抜いての処置であった。日本の病院では触診と問診がほとんどなく、医師はもっぱら検査技師から提出された検診の数値と写真を見ながらの診断であった。最新機器は骨の故障は見抜けても、筋肉の損傷はよくわからないらしい。

 その後、飯島和一『狗天童子の島』など漢方医を主人公にした小説を読み、今まで全く知らなかった漢方の治療にたいする基本的なアプローチに感銘を受けた。漢方療法は人の心身を強めるのを助けることによって、傷病を克服するのを目指している。救急的な外科手術では西欧医学が優れているが、他方では漢方的なアプローチを末期ケアにもっと生かしうるのではないかと実感した。

 いずれにせよ、末期ケアにいたる人生のあらゆる段階おいて、節制と自己努力による健康維持管理を促進、助長し、病院における過剰医療への依存を抑制する方向で、医療と健康保険制度を再構築する必要性を真剣に検討すべきだと思う。これが、公的医療制度を救う道であるだけでなく、個人の健康と終末へのよりよい道ではないかと愚考している。傷病を治癒する医学的なアプローチだけでなく、健康の維持を奨励する健康科学的なアプローチを健康保険給付に組み入れることを真剣に検討すべきだ。

 (姫路独協大学名誉教授)

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