アメリカと日本社会党

■ 【河上民雄20世紀の回想】(3)           

アメリカと日本社会党             河上 民雄

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  本稿は2010年2月6日および3月6日に実施された河上民雄氏(元衆議院議員・元
日本社会党国際局長)へのインタビューを岡田一郎が再構成したものである。2
月6日のインタビューには浜谷惇氏・加藤宣幸氏・山口希望氏および岡田が、3月
6日のインタビューには加藤氏および岡田が参加した。

◇質問:今回は、アメリカと日本社会党の関係についてうかがおうと思います。
まず、アメリカと社会党の関係について、簡単な流れをお教えください。

●河上:社会党が1955年に再統一したとき、社会党は「全方位外交」の原則を掲
げていました。すなわち、ソ連・中国などの共産圏だけでなく、アメリカとも友
好関係を築くという意味です。1957年には私の父・河上丈太郎を団長とする訪米
団がアメリカを訪問しています。

河上訪米団はアメリカで冷遇されたと報道されましたが、実際にはアイゼンハ
ワーと2度にわたって大統領の座を争った民主党のアドレイ・スティーブンソ
ン氏(ケネディ政権下で国連大使)と親交を温め、サイン入りの著書を彼から
贈られたり、ウォーレン最高裁判所長官など当時のアメリカの政財・文化界の
重鎮と会見するなど十分な成果を納めました。
 
しかし、ダレス国務長官の対応が非常に冷たかったため、日本では河上訪米団
はアメリカで冷遇されたと報道されました。ダレス長官はある国際会議で、中国
の周恩来総理とばったり会ったときに、周総理が差し出した手を払いのけたとい
うエピソードが残っている人物であり、ダレス長官こそ米ソ対決の冷戦下のアメ
リカの体現者であったのです。河上は帰国後、空港に出迎えた朝日新聞の今津記
者に「荒地にくわを入れてきた」と題した原稿を託しており、感慨と示唆がこめ
られています
 
その後、社会党内では親ソか親中かという議論が主流になり、訪ソ団、訪中団
は回を重ねましたが、訪米団は18年間も送られませんでした。1975年、江田三郎
さんを団長とする訪米団が送られることとなり、私は江田さんから訪米団に参加
するよう求められました。そこで、私は江田さんに(1)日本国際交流センターの山
本正さんに全てを任せてほしい(2)出発前にアメリカをはじめ外国の特派員を集め
て、なぜ私たちは18年ぶりに訪米団を組織して、出かけるのかという趣旨を説明
する機会を作って欲しいという2つの条件を提示しました。

江田さんはこれを快諾し、「それじゃあ、早速、山本さんに頼みに行こう」と
言い出したので、私が山本さんに電話すると、山本さんは「そんな偉い人に来
てもらっては困る」と言って、すぐに飛んできてくれました。山本さんの尽力
のおかげで、江田訪米団に対するアメリカの対応は歓迎ムードでした。ベトナ
ム戦争で敗退した直後であったこともあり、社会党の言い分を聞こうという姿
勢でした。ニューヨーク・タイムズは私たちの訪米を第1面で伝え、さらに記
者1名を随行させました。

当時、日本の首相が訪米してもベタ記事扱いされるのが当然という時代であり、
それは異例の扱いでした。ニューヨーク・タイムズは私たちがアメリカを離れ
る日に、1面ではありませんでしたが、紙面の4分の1を割いた「18年ぶりの日本
社会党訪米団」という見出しで大きな記事を掲載してくれました。しかし、記者
クラブを通さなかったためか、日本の記者は1人も江田訪米団に同行しませんで
した。
 
われわれはワシントンにまず到着、それからニューヨークに廻ります。ニュー
ヨークでの日米協会(ジャパン・ソサイエティ)での江田さんの講演「日本社会
党はアメリカの友たりうるか」も成功でした。われわれはこの演題にアメリカの
言いなりになる自民党政権は本当の友ではなく、社会党こそ面倒かもしらないが、
アメリカの真の友人だという寓意をこめたのです。ワシントンでは連邦議会の
本会議場に招じ入れられ、江田訪米団全員が紹介されました。アメリカの下院議
長は江田さんと会ったのち、社会主義という言葉は使いたくないが、江田さんの
考えならわれわれも共鳴すると、アメリカ人に語ったと伝えられています。

また、私はワシントン到着直後、ナショナル・パブリック・ラジオでモートン
・ハルぺリン氏(ジョンソン政権で国防次官補代理、ニクソン政権及びクリント
ン政権で国家安全保障会議メンバー、1998年から2001年まで国務省政策企画本部
長)のインタビューを受けました。沖縄返還の時に、ニクソン大統領に「核抜き
本土並みで沖縄を返還し、時に応じて必要な時に核兵器を持ち込めば良い」とい
う案を提案したのが、ハルペリン氏だそうです。現在は息子さんがジャーナリス
トとして活躍されています。なお、ハルペリン氏に私が語った内容は、のちに『
中央公論』のアーミテージ氏との対談で、私が述べたこととほとんど変わってい
ません。
その後、飛鳥田一雄さん・石橋政嗣さん・土井たか子さんと歴代の委員長が訪
米するようになりました。

◇質問:河上先生はそれらの訪米団に同行されたのですか。

●河上:1979年の飛鳥田訪米団には秘書長として参加しました。飛鳥田訪米団は、
現役の社会党委員長が参加した初めての訪米団で、訪米団のメンバーまた、日
本から同行した記者団も各社そうそうたるメンバーでした。飛鳥田訪米団はモン
デール副大統領などアメリカの要人と会談し、アメリカと友好ムードを築くこと
に成功しました。しかし、折悪しく、イランでアメリカ大使館人質占拠事件が発
生し、アメリカ政府の関心が完全にそっちの方向に行ってしまっていて、十分な
成果をあげることができませんでした。石橋・土井訪米団には参加していません
。だが、土井訪米団が出発前に、駐日大使のマンスフィールド氏に表敬した際、
私にもついて行ってくれということで、随行しました。

大使は私の質問に答えて、米中接近の際、ニクソン大統領から最初、北京に特
使として行ってほしいともちかけられたが、当時、上院院内総務だった自分とし
ては三権分立の建前から適切でないとお断りしたところ、そのごキッシンジャー
氏が北京に赴いたことを知ったという、とっておきの思い出話をしてくれました。
私の質問は、アメリカは日本の頭越しに北朝鮮と交渉し、外交関係を結ぶこと
はありますか、というものでした。大使の答えは、米中接近のとき、あとで日米
間でギクシャクしたので、二度とあのようなことはしないということでした。

◇質問:先生は『中央公論』1990年3月号で、後にジョージ・W・ブッシュ政権で
国務副長官をつとめて、日本でも名前が知られたリチャード・アーミテージ氏と
日米関係について対談されています。そのときのことをお教えください。アーミ
テージ氏は当時から知名度が高かったのでしょうか。

●河上:この対談が載った号の『中央公論』の表紙を見ると、伊藤憲一さんと浅
井基文さんの対談が大きく書かれていて、私とアーミテージ氏の対談は表紙には
書かれていません。つまり、当時の彼の知名度はすでに高かったのですが、『中
央公論』の編集部というか、日本の世論の受け止め方がそうであったのだと思い
ます。

◇質問:アーミテージ氏は知日派として知られていますが、彼は対日政策が専門
なのでしょうか。

●河上:対日政策というより、もう少し広く安全保障問題の専門家といった方が
よいかと思います。彼は椎名裁定で有名な椎名悦三郎さんの息子さんの椎名素夫
さんがやっていた研究所の招待で日本を訪れていました。おそらくその研究所が
『中央公論』に売り込んで、私との対談の企画になったのだと思います。

◇質問:対談を拝見すると、アーミテージ氏は社会党に警戒感を持っているよう
に思われます。対談の最初に石橋訪米団がペンタゴンの朝食会に参加したときの
話を持ち出して、「ペンタゴンにいる人間がまるで悪魔のように鉤のついた尻尾
を持っているわけじゃない、ということを分かっていただけたかと思います。
(笑)」と冗談を交えていますが。

●河上:そこで、私が強調したのが、江田さんが訪米したときに、講演のテーマ
にした「日本社会党はアメリカの友たり得るか?」という問題です。私は社会党
がアメリカと疎遠になった理由として3つの要因を挙げています。

1つは中国との国交問題、2つ目がベトナム戦争、3つ目が日米安保条約です。
私はこのうちはじめの2つは社会党に軍配が上がったが、3つ目の日米安保条約を
めぐる見解の相違は残っていると述べましたが、アーミテージ氏は中国との国交
問題については私の言い分を認めたものの、ベトナム戦争については、ベトナム
からのボート・ピープルの存在をあげて、ベトナム戦争の正当性を強調しました。
もちろん、ベトナムについては米軍敗退の事実は否定できず、形勢が悪いとみ
てか、「私だってベトナム戦争の孤児を養子にしている」という秘話を持ち出し
てきました。

この秘話は『中央公論』の記事には出ていませんが。1975年の江田訪米団のと
きのアメリカ有識者の方が、年月が経ってからのアーミテージ氏より素直にベト
ナムからの敗退を受け止めていたような気がします。

◇質問:当時は土井ブームで社会党が参院選で圧勝し、社会党政権の可能性もさ
さやかれていたころですが、先生はアーミテージ氏に「私どもは単独政権であれ
連立政権であれ、日米安保条約をはじめ従来の日本政府が果たしてきた外交上の
義務はそのまま引き継いでいく。これははっきりお約束します」と述べて、アー
ミテージ氏も「社会党が日米安保体制に関してこれまでの日本政府の立場を引き
継ぐとのお約束を承って、大いに意を強くしました」と応じています。先生のこ
のような発言は社会党内で問題にならなかったのでしょうか。

●河上:社会党政権が出来たら次の日から日米安保条約を破棄するわけではない、
というのが昔からの社会党の基本的な立場です。1975年の江田訪米団の時も上
田哲教育宣伝局長が「政権を獲ったら翌朝、鶏が鳴いたらすぐ安保条約を廃棄す
るんじゃない」という言い方でアメリカ側を説得していました。「負の遺産」と
して受け継ぐが、政権をとっている間に日米安保条約を軍事条項を伴わない日米
平和友好条約に変えてゆこうというのがわれわれの立場でした。原爆の唯一の被
害国民としての日本国民の感情と哲学に基づいていたといえます。

◇質問:ならば、村山政権のときも社会党はそのような立場でいくべきであった
と思いますが。

●河上:村山富市さんとその側近の人たちが「安保堅持」と言わないと政権は持
たないという考えが強すぎたのではないでしょうか。事実、そうであったのかも
しれませんが、一つの考えに取り付かれる必要はなかったと思います。外交の常
道として、安保は維持するけれども、非武装中立は理想として掲げ続ける。ただ
し、安保条約はすぐ一方的に破棄するわけではありませんよ、という立場でうま
く野党の攻勢をかわすことが出来なかったのかと思います。しかも、党大会で安
保堅持を事後承認してしまったのは大変まずい選択であったと思います。

◇質問:先生がアーミテージ氏と対談された1990年は冷戦終結直後であり、また
日本はバブル景気のころで「アメリカ何するものぞ」といった空気が強かったと
思いますが、その後、日本人の意識の中で対米従属の意識が強まったように思い
ます。先生はここ20年間の日米関係の変化をどのようにお考えですか。

●河上:こんど『中央公論』の対談を読み返して、あれから20年経って、あそこ
で語られ論じられていることが今も少しも変わっていないことに驚きます。しか
し、ここ2~30年間で、日米関係には2つの大きな転機があったと思います。1つ
は鈴木善幸首相のときです。鈴木首相は「日米安保条約は軍事同盟でない」と発
言して、辞任に追い込まれました。

もう1つは湾岸戦争です。湾岸戦争のときに、アマコスト駐日大使が自民党の
小沢幹事長の所に押しかけて「日本は湾岸戦争の戦費を負担しろ」と要求し、小
沢さんがあわてて当時の海部首相にかけあって、日本は1兆円を負担します。し
かし、戦争後、クウェート解放に尽力した国のリストに日本の名はありませんで
した。小沢さんは「あれだけ協力したのに・・・」とかなり悔しい思いをしたと思
います。そのときのトラウマが彼の現在の対米不信につながっていると思います。
 
小沢さんとアメリカの問題で関連して言えば、現在、普天間基地の移転の問題
が紛糾しています。この問題の解決の参考になるのが、ドイツが統一したときに
、当時のコール首相が、旧東独地域に駐留していたソ連軍を撤退させるため、移
転費用から撤退した兵士の兵舎建設費用に至るまで全て負担し、莫大なお金を払
って撤退させたことです。後にコール首相はこのことを含め東西ドイツの統一を
急ぐあまり拙速にすぎたと非難されましたが、あの時期に莫大な費用を提示しな
ければ、ソ連軍を撤退させることは難しかったでしょう。

日本も莫大な移転費用を提示して、普天間基地をグアムなどに移転してもらう
という選択肢を視野にいれても良いと思います。中には、「グアムに海兵隊が移
転したら、非常時における海兵隊の到着が1日遅れる。1日の遅れが命取りになる
」と言う人もいます。しかし、アメリカ軍がインド洋を防衛するのに不可欠と言
われていたフィリピンのスービック基地は火山の噴火で使えなくなったら、あっ
さりフィリピンに返還されました。基地の必要性というのはかくも根拠があいま
いなものなのです。
 
去年あたりからの動きで、トルコ・ウクライナ・日本の3ヶ国で、それぞれ事
情は異なるにせよ、アメリカとの距離の再検討が取沙汰されていることは注目す
べきことと思います。

        (元日本社会党国際局長・元衆議院議員・東海大学名誉教授)

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