アランの『定義集』

■【横丁茶話】

アランの『定義集』          西村 徹

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 森有正が翻訳しようとして未完に終わったアランの『定義集』(みすず書房1
988年)という本がある。原著の出版は1953年。完訳は2003年岩波文
庫から神谷幹夫訳が出ている。みすず版には所雄章による克明な編集後記と、辻
邦生と所雄章による「森有正と『定義』とアランと」というかなり長い対話が付
録されている。そっちはそっちで面白いがいずれのこととして、みずず版本文を
読んで気付いたこと、欄外書き込み的なことを順次書きとめる。先ずは


●AMOUR-PROPRE

 これには「自尊心」という訳語が当てられている。たしかに「自尊心」は白水
社ロベールなど大きな辞書だけでなく、クラウン程度の辞書にも出てはいるが、
アラン本文の内容を見るかぎり適当でないと考える。AMOUR-PROPRE が迷惑する
以上に「自尊心」がもっと迷惑する。その本来具えていない概念を背負わされる
ことになるからである。アラン本文はこうである。

【自分を愛することがなく、自分に対して苛々する、これが自尊心である。そ
れはすすんで非難に立向かう。それは言う、≪人が私のことを何と考えているか
は、わたしがよく知っている≫と。どんなに賞賛されても彼が満足することはけ
っしてない。それは不幸な愛である。】

 岩波版もほとんどまったく同じである。見出し語の訳も「自尊心」を踏襲して
いる。はたして「自尊心」はこのようにグロテスクな定義が当てはまる言葉だろ
うか。日本語の「自尊心」は一般に肯定的に用いられる。「プライド」という日
本語ほどにも否定的に用いられることはない。

 「プライド」にしてさえ、英語の pride 本来の「自惚れ;思い上がり;優越
感;高慢;尊大;自負;自慢」の意味は、それほど直ちに浮上してくるわけでな
い。「自尊心」にはその種のマイナスの含みは本来ない。「自尊」は「尊大」で
はないし「自慢」でもない。「慢心」でもない。テング極まって破裂して、もん
どりうって自己嫌悪の奈落に落ちるようなことを、そもそも「自尊心」は想像さ
せうる言葉ではない。

 「自尊心」は理念あるいは徳目であって、何とかコンプレックスというに類す
る精神病理を指示する概念たりえない。逆説としてでも、「自分を愛することが
なく、自分に対して苛々する」などという倒錯した、サド・マゾヒスティックな
心根を指すものであるべくもない。

「プライド」はしばしば安っぽく軽いが、「自尊心」は、抑制が利いて過剰の
ない、自信過剰とはむしろ逆の、重心の低い心的態度をいうであろう。自他に対
する攻撃に結びつかない。「自負」ほどにも気負いを感じさせない。

 例えば「イケメンタレントはツラに異常なまでのプライドを持つ」などと芸能
記者がいうとき、「プライド」の代わりに「自尊心」は使えない。「あなたの知
性と私の美貌を兼ね具えた子供ができるから」と言ってバーナード・ショーに求
婚した女性は自分の容貌について滑稽なまでのプライドを持ってはいたのだろう
が、自尊心の方は持っていなかったのだろう。

 朝日新聞大阪版8月17日夕刊「人脈記」から拾う。元阪神球団の江夏投手は
言う。「自分は王さんに対し、プライドをぶつけた」。この場合の「プライド」
は上記の間抜けな女のプライドとはまったく違うが、やっぱりこれも「自尊心」
に替えることは難しい。自尊心は内に保つものであってぶつけるものではない。
麻生太郎の好む「矜持」ならあるいは代用可能かもしれないが。


●福沢諭吉の「独立自尊」

 「独立自尊」は福沢諭吉が強く唱えた理念である。慶応幼稚舎には舎訓(?)
として諭吉遺墨が掲げられていると聞く。日本人に今もっとも不足しているもの
はまさにこれである。少なくとも対米関係において自尊心こそ日本人に、あるい
は日本国政府に、もっとも必要とされるものであろう。福島第一の事故以後も責
任を取らずに居座っている原子力安全・保安院の人々には死活的に必要とされる
ものであろう。

 いまさかんに論議されているイジメ問題について連日識者の多くは新聞紙上で
も「逃げろ逃げろ」の大合唱である。応急策としてそれは妥当であろう。しかし
弱肉強食は本来が動物の自然状態である。おまけに動物にはない強欲という人間
悪が加わってとどまるところを知らない。冷戦が終わって後の強欲資本主義全盛
の現状がそれである。子供のみならず人間関係の全体に反映されないはずはない。

 この呪われた社会構造を解体克服し得るのは共生の論理であり、共生を支える
倫理の原点は「自尊心」であろう。イジメは平等と公正を破壊する行為である。
自尊心があれば誰しも己を恥じて弱者をイジメることをためらうであろうし、ま
たこれに加担することも控えるであろう。自尊心があれば強きを挫く勇気も智慧
も湧くであろう。自尊心があれば義を見てせざるはないであろう。一寸の虫にも
五分の魂という。苦境から逃げるにさえ五分の魂がなければなるまい。

 自尊は責任感とひとつである。「兵士の証言」というTV番組で、たとえば人肉
を食うとか、重傷を負った戦友を遺棄するとか、その他さまざま、極限状態に置
かれて土壇場で利己的な行為を自らに思いとどまらせたのは「自尊心」であると
言った。多くの兵士がおなじように自尊心を維持しえたか否かは別として、きわ
めて自然にほかならぬその人の口から出たのが印象的であった。「自尊心」という
語の用法の典型例であろう。自尊は他尊と手を携えて成り立つ。自尊なくして惻
隠はない。

 自尊心は自重や自彊あるいは克己心と隣りする孤高の精神である。過剰や異常
とは遠い、むしろ内省的均衡の保たれた精神の状態である。ある心理学者(ウィ
リアム・ジェームズだったと思う)によると自尊心の値(度合い)は願望と成果
の比によって得られる値、すなわち願望充足度に比例するという。

 それならば道教起源の、禪が唱える吾唯知足が「自尊心」を支えるということ
になる。古代ギリシャの犬儒派あるいはストア派が唱えたアウタルケイア(自足)
とかいうものにも通じるものである。「異常な自尊心」とか「過剰な自尊心」と
かはすでに言語矛盾ということになる。


●ジョン・ロールズの「自尊心」

 ジョン・ロールズも『正義論』7章67節で、自尊(self respect or self
esteem)が「公正としての正義」に裏付けられているとしており、すくなくとも
英語における「自尊心」はフランス語の amour-propre とは定義上まったく異な
ることを示している。それぞれ意味を異にする2つの相異なる国の言語に単一の
日本語を当てはめるのは無理である。

 ただし言葉の意味は時空とともに変化する。文脈しだい、言葉の置かれ方しだ
いで意味はずれる。長期にわたって悪い姿勢を続けると腰椎スベリをおこすよう
に言葉もすべる。朝日新聞大阪版8月24日夕刊の「素粒子」に「払うときの大
変さは知りながら。強気や自尊がぶつかって掛け金ばかりつり上がる。どちらも
勝てない日韓勝負。」とある。なるほどこういう使われ方もあるか。そうなると
私の定義は修正を要することになる。

 ちょっと待て。たしかに強気と強気がぶつかれば「素粒子」が言うようになる。
しかし自尊と自尊が(ぶつかることはありえないが)対い合うとすればそうはな
らない。ちなみに日本の武道では、勝者は決してガッツポーズをしない。勝ち力
士も剣道の勝者も決してしない。一昔前は、むしろ勝ち力士のほうが、悪びれた
ような悲しそうな顔をしていたものだ。弓道では的中より作法が重んじられる。

 これを見れば自尊は他尊とひとつであることがあきらかである。素粒子の「自
尊」は誤用とまで言わぬが誤解を招きかねない。「強気や意地がぶつかって」で
すむことではないか。領土争いは劣情の争いであって自尊というような高尚な言
葉とは無縁である。


●ロレンスの目、福田恒存の目

 いまひとつ「素粒子」と似たスベリの生じる例に出会った。D.H.ロレンス
『黙示録論』福田恒存訳のなかで「守旧派メソディスト教会の連中のうちに感じ
られる奇妙な自尊の観念」とか「自尊と権力の宗教」「自尊、卑屈なる者たちの
自尊のクリスト教」などとある。これはジョン・ロールズの self respect ある
いは self esteem とは違って self glory あるいは self glorification が原
語である。self glorification が圧倒的に多いので、「自尊」では舌足らずだ
から「自尊化」と造語している場合もある。

 ロレンスは一定の批判をこめてこの言葉を使っているのはたしかであるが、そ
の訳語として「自尊」でよかったのか。今度はおなじ英語でありながら意味の異
なる2つの英単語におなじ1つの日本単語を流用してしまった。手っ取り早く該
当する日本語を探して他に見当たらなかったからであろうが、やはり無理であろ
う。ぎこちないが「自己荘厳化」、せいいっぱい「自己尊大化」とでも造語する
しかなかろう。

 この「自尊」のありていはいかなるものか。宗教がらみの文脈から外してしま
えば、なんのことはない。20世紀初頭のイギリスの炭鉱の坑夫は地底の労働現
場を離れていったん家庭に入れば家父長的威光に輝いていたというにすぎない。
翻訳本文に先立って福田恒存は前書きを書いている。

 「陰鬱な顔をした、しかも厚顔な坑夫は一日の激しい労働から解放され、疲れ
きった姿を我が家にはこぶのであるが、その戸口をくぐるや、彼の打ちのめされ
たような、卑屈な表情は蔭をひそめ、傲岸で無愛想な自尊の念をとりもどして、
この坑から上がってきたばかりの家長はがたりとばかり食卓につく。妻や娘たち
は愛想よく彼にかしずき、その息子も大した謀反気もなく黙って父親のお説教に
耳を傾けている。あたりには原始的な神秘と権力との気が異様なまでにただよい、

 照応するとおもわれる本文(福田訳)は・・・

 「こういう人々には・・・たしかに、謙遜なところもなければ自己弁護らしき
ものもなかった。どうしてそれどころか、彼等は坑から上がって来るやいなや、
がたりとばかりに食卓につく。妻や娘は愛想よく彼等にかしずこうとして馳せ寄
って来る。息子も大した謀反気もなく黙ってその言うことを聴いている。家庭は
殺風景ではあったが、さほど居ごこち悪いところでもなかった。あたりには野生
的な神秘と権力の気が異様に漂っていた。」

 本文には「自尊」はなく、福田自前の文章には「家庭は殺風景ではあったが、
さほど居ごこち悪いところでもなかった」がない。両者の微妙な違いから、炭坑
労働者およびその家庭について、炭鉱労働者を父に持つロレンス自身は、東京電
燈社員を父に持つ本郷の家庭で育った福田ほどには蔑みの目で見ていなかったこ
とが読み取れる。


●オーウェルの目

 これに似た炭鉱労働者を含む労働者階級一般とその家庭の情景を、ジョージ・
オーウェルは、30年ほど時代は下るが『ウィガン波止場への道』(1937)の
なかでじっさいに住み込んで活写している。「自尊」という訳語の適不適から離
れるが道草をする。

 「ランカシャーとヨークシャーの坑夫たちの私に対する親切丁寧な扱いはこち
らが面食らうほどのものだった。もし私が劣等感を感じてしまうタイプの相手が
いるとするなら、それは炭鉱の坑夫だ。まったくのはなし、私がよそ者だという
ので蔑むようなそぶりを見せるものは誰ひとりいなかった。・・・労働者階級も
中産階級同様家族の絆は固いが、その結びつきは中産階級に較べてはるかに強圧
的(tyrannical)でない。」

 ここで強調しておかねばなるまい。オーウェルは「私は労働者階級を理想化す
ることを避けるに十分なだけたくさん彼らを見てきた」と言っていることを。そ
のうえで続ける。そして以下は先に引用したロレンス本文(福田訳)の描く場面
とほぼ同じ場面の、宗教に汚染されない目で見た描写である。

 「労働者階級の家庭では―当面失業者のことは考えず比較的裕福な家庭にかぎ
る―他ではさほど容易く見出せないような暖かい、風格のある(decent)、まこ
とに人間的な雰囲気が漂っている。・・・そのインテリアの持つ、非の打ちどこ
ろない独特の寛ぎ、いわば完璧なバランス感覚(perfect symmetry)に私はしば
しば感動した。わけても冬の夜の食後のひととき。暖炉の焔が赤々と踊って鋼の
フェンダーに反射し、オヤジさんは暖炉の片隅のロッキングチェアに座り上着を
脱いで今日のレースの結果を読んでいる。オフクロさんは反対側で縫い物をして
いる。子供はアメ玉をしゃぶって大満悦。犬はラグにごろ寝で火に体を焙ってい
る」

 炭鉱労働者の家庭のほうが偽善的な下層中産階級よりも経済的にもむしろ余裕
があって decent であると称えている。decent というのは「見苦しからぬ」
「品位がある」「そのものに相応しい」「尊厳が保たれている」の意である。オ
ーウェルが大切にする言葉で、人間が正当に遇されているかどうかの目安にして
いる。1パーセントが富を独占することによって、いま地球上の人口の99パー
セントは「貶められている」、「尊厳を奪われている」。つまり indecent な状
態に置かれているわけである。

 以上述べてきたところと併せて、とにかく「自尊心」はおよそアランが定義し
ているような病的な逸脱とは馴染まない。アランが定義している AMOUR-PROPRE
は「自尊心」とは真逆で、パスカルのパンセ100項において、さらに徹底して
抉り出されている。自己破壊に至るまでやむことのない「妄執」、陥ったら最後、
這い出すことのできない蟻地獄のようなものとして描きだされている。


●「自愛」?「自己愛」?

 パスカルの翻訳では古いところで岳野慶作訳;パスカル『瞑想録』フランスカ
トリック思想家選(1);昭和23年(1948年)初版;中央出版社がある。
それには、「自愛心」という訳語が与えられている。

1953年白水社刊のマルタン仏和大辞典はカトリックのフランス人神父が編
纂した辞書であるが、「自尊心」はなく、真っ先に「自愛」が来る。カトリック
では定番の訳だろうか。「自慰」とか「自涜」とかに並びそうで、つきすぎの感
じもするが本来かもしれない。宗教離れしたその後のパスカル翻訳家によって現
在は「自己愛」が定着しているようである。日本伝統の言葉なら「我執」がしっ
くりすると思うが仏教めくので敬遠されたのであろうか。

 どうしてこんな「自尊心」などという訳語を選択したのか。「フランス語の定
義の明確さと堅固さは、個人の恣意的表現などをまったく許しません」と、みす
ず版付録の対談で辻邦生は言っている。日本語にするときも、もうすこし明確で
堅固で恣意的表現を許さぬ訳語選択はありえたのではないか。なにしろ『定義集』
なのである。 そういう呼吸を日仏両語に精通する森有正は知っているはずだし、
また岩波版2003年の新訳までそのままなのは解せない。
(2012/09/04)

[付記]9月7日金曜TBSラジオ放送の「少年法について考える」という番組
を翌日9月8日ポッドキャストで聴いた。少年法の有期刑重罰化の声が高まって
いるが、その是非を論じて川村百合という弁護士は、非行少年は成育発達期に虐
待された経験を持ち、親の愛情を受けられなかったために「自尊感情」が低く、
他者の尊厳に対する気付きに欠ける場合が多いと発言していた。「自尊感情」の
語を一度ならず口にしていた。「自尊」の語の(ロレンスではなく)福田恒存や
朝日新聞・素粒子による用法とは反対のポジティブな用法例として付け加えてお
く。                      (2012/09/08)

 (筆者は大阪女子大学名誉教授)

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