■ 【オルタのこだま】

オクシモロンについてもっと議論しよう         木村 寛

   -西村先生のエッセイ、臆子妄論の連載中止にあたって-  
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1.オクシモロンとは何か?


 英和辞典にあげられている例は「残酷な親切」Cruel-kindnessであって、
日本語にも今では「迷惑な親切」という言葉がある。しかしもっと古い「慇懃
無礼」に至っては、ひざを打ちたくなる出来栄えである。もちろん、英語と日
本語ではその表現が逆転していて、英語ではけなしておいて褒める、日本語で
は褒めておいてけなすのである。
 
しかしオクシモロンとは果たしてそれだけに限られたものなのだろうか?言
葉は自己発展していくことがあることから言えば、日本語の「一筋縄ではいか
ない」を敷衍すれば、「単純にはいかない」、「複雑である」がすぐさま浮か
ぶ。すなわちオクシモロンは「複雑系」を指す言葉であると理解してもあなが
ち間違いではあるまい。(例えばM・ミッチェル・ワールドロップ「複雑系」田
中三彦、遠山峻征訳、新潮社1996。私がこの本を読み始めてただちに気づいた
ことは複雑系というのはいろんな問題があちこちに局在化して顔を出している
ということであった。局在化しているいろんな問題を同時に論じようとすれば、
複雑系にならざるをえない)。
 
大塚久雄の本で見た「世界歴史が横倒しになっている時代」という表現も、
世界各地の歴史的発達が横並び一律というわけにはいかない以上、あるところ
では中世の問題が、別のところでは近代の問題がというふうに、同時代の中で
いびつな不整一の状況を示すのである。

 唐突に聞こえるかもしれないが、私は「東西南北」というのはオクシモロン
だと思う。その証拠に東西問題が議論され(例えばヨーロッパ)、南北問題(例
えばイタリヤ)が議論されるのであるが、東西と南北とはそもそも直交する関
係にあることから言えば、東西南北問題を一度に議論することはおそらく非常
にむずかしいだろうと思う。

 単純な表現の中にもオクシモロンが潜むことは「本当の嘘」を考えてみれ
ばわかる。その嘘が本当であるとは何が嘘で何が本当なのか?すぐには返答に
窮するに違いない。これは「すべてのクレタ人は嘘つきだと一人のクレタ人が
言った」と古来から人々の頭を悩ました命題と同じなのである。


2.不連続な連続


 これも一つのオクシモロンだと考える。点線は線が途切れているにもかか
わらず、点線と理解されて存在する。しかしよくよく考えてみれば、点と点の
間の何も無い領域は何も無いのであるから、先の点が伸びる方向を指示するも
のなど何も無いはずで、点線の方向を暗示するものは点と点をつないだ方向が
それしか予想できないという常識的判断によるだけだと思う。

 ピアノの音もまた途切れた音からなりたっているにもかかわらず、音楽と
して成立していることは言をまたないし、音が途切れる楽器は無数にある。音
楽の中にもオクシモロンがある。

 「計算しない打算」、一見言葉遊びに見えるかもしれないが、近江商人の
三方良しの精神はこれではないだろうか。自分(売り手)、相手(買い手)、世間
(経済)、この三つが良ければ経済活動が反映することは、彼らの歴史が証明し
ている。私がガラクタ市で壊れた懐中時計を三千円で買い、修理して三千円で
店に戻し、それを買い手が店のマージンをのせた値段で買い、店がマージンを
儲けるという話と似ている。私には修理技術が、買い手には懐中時計が、そし
て最後に店にはマージンが残る。その上私が一度支払った三千円はこのサイク
ルの終了時にはちゃんと私の財布の中に戻ってくるので、私は一円もお金を使
わずに(私の修理という軽作業で)、一つのサイクルを作り出しているのである。

 アメリカで増殖を繰り返すマモニズムは二千年前から新約聖書で批判され
たマモン(財神)信仰にほかならない。近江商人に伝わる「忘己利他」(もうこ
・りた、これは比叡山をひらいた最澄の言葉だと言われる)もまたオクシモロ
ンである。ここには決して自分を忘れることのないベンジャミン・フランクリ
ンのエートス(「自伝」参照、彼のキリスト教は世俗化しているので、彼の神
もまた世俗化した神に過ぎない)を越えるエートスがある気がする。何か宗教
的世界の雰囲気が漂っているし、自分を忘れるということは多分仏教的な特
徴なのであろう。


3.主観的意図と客観的成果の乖離


 オー・ヘンリーの短編集の中に、青白い顔色の青年が古くなったパンをいつ
もパン屋に買いに来る話がある。おかみさんは彼はきっとバターも変えない貧
しい若者に違いないと思って、ある日パンの中にたっぷりバターを隠して売
る。翌日、その青年がパン屋にどなりこんでくる。彼は古くなったパンで製図
を消していたのである。
 
さてこの笑い話は我々の日常を考えると実は笑えない話である。主観的意図
は客観的成果と決して連続はしていないし、連続を保証するものは実は何も無
い。ある主観的意図を抱いた人の希望的観測が客観的成果を生み出すわけでは
決してないし、宝くじを買う人が買う瞬間に自分に当たるかもしれないと抱く
微かに胸をときめかす何の根拠も無い淡い期待が客観的成果を生み出すわけで
もない。

複雑な諸事情のからまりの中で、まるで神経系の情報伝達回路が発達するよう
に様々な干渉の中で一つの道が作られて、客観的成果が生み出される。
それは初期の主観的意図から見れば、驚くほど隔たっている場合もあるし、ひ
どい場合にはまるで逆の結果となりうることさえある。それ故にOra et labora
(祈れかつ働け)がヨーロッパのキリスト者たちの精神的伝統となったのである
(富田和久著作集第六巻、102頁、著作集刊行会1996)。

 余談ながら、ウィリアム・ジェイムズの死後出版本「根本的(ラジカル)経験
論」1912、ロンドンの二章「純粋経験の世界」の記述はそうした神経系の情報
伝達回路の発達をアナロジーとして下敷きにすれば理解しやすい気がする。な
おこの章では何度か、quasi-chaos(擬カオス)という表現もでてくるので、現
代のカオス論を下敷きにするのもあながち的外れではないと思う。カオスとは
外部からは制御できない、微視的には予測不可能な現象を言う。
 
私はこの問題を大塚久雄のマックス・ヴェーバーの紹介本で読んだ気がす
るのだが、大塚の言う新約聖書ルカ伝の(良き隣人)のたとえ話で、(誰が隣人
になったか?)という問題指摘の重要さと並んで、いつも心の中にとどめておか
ねばならないものだと思う。
 
「非合理を貫く合理性」、このオクシモロンは、近江商人の「もうこ・りた」
の合理性を越えてさらに深遠な世界の消息である。「無定形から結晶化」、こ
れもオクシモロンであろう。アモルファス(無定形)な思想こそが結晶化した思
想を生み出す母胎なのである。もっとも私は結晶化した(透明度の増した)思想
という表現でニッチもサッチもいかない思想(その終点は教条主義)を言いたい
わけではない。

証明できない怪しげな思想以前の妄想が跳梁跋扈し、それに人々ががんじがら
めに縛られている世界よりは少しでも透明度の増した、「人間が魔術から解放
された」(これはマックス・ヴェーバーの言葉)思想の展開する世界を意味した
いのである。これは換言すれば中世のヒューマニストたちの理解した世界、あ
るいはバートランド・ラッセルが「懐疑論集」(Sceptical essays,1935)東宮
隆訳、みすず書房1963で展望したある種の魔術すなわち宗教的教条による、理
性的根拠を持たない呪縛(例えば牛や豚を食べないなど)などから開放された世
界の消息である。


4.結論


 「複雑系」と騒がれた後で冷静になってふっと我にかえると、なあーんだ、
昔からあった話ではないかと合点がいくのだが、オクシモロンもまたギリシャ
の昔からあった話である(語源はギリシャ語のオクシモーロス)。しかしそれを
現代的に深堀する必要があると思うし、「運動の中で」とまで言わなくても、
人間の生きる地平の中でオクシモロンこそはこの世界に縦横に張り巡らされた
クモの糸みたいなものではないだろうか。西村先生の五十篇を越えるエッセ
イ、臆子妄論「オクシモロン」はその根底にこうした問題を見据えたもので
あったと言えるのであって、臆病な君子の妄想論であったわけでは決して無
い。
 
最後にもう一つオクシモロン。「勇敢な卑怯者」、あなたはこれをどう理
解するだろうか?私の印象では子供時代によく聞いた「卑怯」という言葉がい
つのまにか「死語」になった感じがするのだが、卑怯は帯刀の世界の言葉なの
だろうか。
       (筆者は麦の会共同作業所顧問・理学博士)

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