オルタナティヴな開発をめざすタイの仏教僧

■宗教・民族から見た同時代世界    荒木 重雄

~オルタナティヴな開発をめざすタイの仏教僧~

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 タイはミャンマー、スリランカなどとともに上座部仏教圏である。小乗仏教と
もよばれる上座部仏教は、大乗仏教が一切衆生の救済をめざす菩薩行を旨とする
のに対して、出家者が自らの悟りを求めて戒律を守り修行に勤しむ自己救済的な
宗教と理解されがちである。ところが、1980年代から、タイ東北部農村を中心に、
仏法に基づいて地域の開発や農民の生活向上に取り組む僧たちが現れてきた。
これを「開発僧」という。


◇◇農村の荒廃に心の開発


  彼ら開発僧が活躍している東北部とは、もともと地味の悪い乾燥地帯であるう
え、森林伐採がすすんで、いっそう耕作条件が悪化した地域である。劣悪な土地
でそれでも生産をつづけるためには、化学肥料を大量に投入するしかなく、農民
たちは借金をして高価な肥料を買い求める。ところが、この地方の気候は不安定
で、しばしば旱魃に見舞われ、作物は実らず、借金だけが残ったりする。農民は
借金の返済と生活費を賄うために都市に出稼ぎにでて、建設労働や日雇い労働に
つく。子どもを児童労働に出したり、娘を少女売春に売る農家も少なくない。こ
のような借金地獄と家族の崩壊から、村人の精神的荒廃がすすみ、酒や賭博に逃
避する者たちが増えてきた。こうした村人の状況をみるにみかねて、日頃から村
人の尊敬と信頼を集めている仏教僧の一部が、農村開発に取り組みはじめたので
ある。

 タイの仏教では、僧は、生活の糧を人々の布施で得ながら、もっぱら修行に勤
しむものとされている。俗界の人たちは、僧に布施をすることで徳を積むことが
でき、そのことによって来世の安楽が保証されると信じている。村人たちは自分
たちの食べ物がなくても、借金をしてまで、僧の托鉢に応え、寺への寄進を欠か
さない。そうした村人たちの真心に、僧たちは、来世のことだけでなく現世のこ
とでも報いたいと考えたのである。

 開発僧たちは、村人の状況から、物質面の開発より精神面の開発が先であると
考えた。村人が、欲望や悪習に囚われている自分たちの姿や、自分たちが直面し
ている問題について、正しく理解し、精神面で向上することができるならば、村
人自身で問題の解決が図れるはずだとの考えからである。
そこで僧たちはまず、村人に「瞑想止観」の修行法を教えることからはじめ
た。
瞑想止観の「止」とは煩悩・欲望を消し去ることを意味し、「観」とは「止」
によって得た正しい智慧で対象を観ることをさす。15日間にわたる座禅・瞑想を
つづけ、厳しい戒律を守り、心を清らかにして自分の心の奥底を見詰め、そこか
ら、すすむべき道、なすべきことを見出す。これが村人に課した瞑想止観であっ
た。

 こうした心の開発・精神の開発と併せて、僧侶たちがとりかかったことは、肥
料組合や米銀行の設立であった。肥料組合というのは、地味の悪いこの地域では
農業に肥料は不可欠で、村人は前借りで肥料を購入する。商人の方は弱みにつけ
こんで高い値段で、しかも法外な前借り利子を加えて売りつける。僧たちは、こ
の問題を解決するために、寺に寄進されたカネを元手に肥料組合をつくり、卸商
から直接購入させて、市価より安く村人が肥料を手に入れられるようにした。
 
また、米銀行というのは、旱魃と洪水に繰り返し悩まされるこの地域では米の
自給もままならないため、村人は農民でありながら、米を買ったり借りたりしな
ければならない。その前借り利子も肥料同様きわめて高い。そこで僧たちは、寺
に寄進された米と村人たちが持ち寄った米をもとに、米が不足した者に安い利子
で貸し出すシステムをつくった。

 こうした取り組みによって村人たちは、いくらかでも借金地獄から解放される
ようになっていった。僧たちはさらに、生協をつくって日用品が安く手に入るよ
うにしたり、若者たちの浪費癖をみて、貯蓄組合をつくり、貯金をする喜びを若
者たちに教えると同時に、村人が低利で必要なカネを借りられるようにした。
 
また一方、村人たちが互いの農作業を手伝う習慣を復活させたり、共同で植林
したりすることをすすめ、村人たちが少しでも自立した自給自足の生活に近づけ
るよう、工夫を重ねていった。
  瞑想止観の修行によって「助け合う慈悲の精神」を学んだ村人たちが積極的に
事業に参加し、協力していったことはいうまでもない。


◇◇仏教的農業で共生社会


  仏教を活かして村人を貧困と心の荒廃から解放しようとするこの試みは、やが
て、貨幣経済にまるごと頼るのではない生活スタイルづくり、コミュニティーづ
くりに、方向を見出していった。経済的に力のない農民が市場経済に巻き込まれ
れば、丸裸にされて村から放り出されるのがおちである、だから、これまでのよ
うな「売るための農業」から「食べるための農業」に変えよう、そして余ったも
のだけを売ろう、という、価値観・生活様式・営農法の根底からの転換であった。

 そのための農法として、ここでは、リサイクルを軸とした複合農法が採用され
た。これはまず、田畑の所々に池を掘ることからはじまる。池は灌漑用に使われ
るが、それだけでなく、そこに魚を飼い、回りの土手には野菜や果樹を植え、牛
や豚や鶏を飼う。ここでは徹底したリサイクルが図られて、牛の糞は豚の餌にな
り、豚の糞は鶏の餌になり、鶏の糞は魚の餌になり、魚の排泄物を含む池の水は
田や畑に灌漑されて肥料になる。
 
カネのかかることは最小限にする。池を掘るのも費用がかかる機械力は用いな
い。肥料も飼料もカネで買い求めることは極力避けて、自然の循環をむだなく活
用する。そして農村がもつ潜在力を引き出す。農村の潜在力とは、土地であり、
水であり、労働力であり、そして、人と人との相互扶助的な協力関係である。

 こうして食べることがひとまず保障されれば、そのうえで、養蚕や畜産を協同
組合方式で行って収入の向上をはかり、さらに、村人の共同作業で、村の環境の
整備、トイレ・水道の設置や、診療所や小学校の建設を、手造りで行って、村の
生活全体の質的向上をはかる。このようなシナリオで、農民の自立と貧困からの
脱出、生活改善の取り組みがすすめられているのである。


◇◇開発で心の平安を増やす


  こうした開発運動でのキーワードは、「慈悲」、「共生」、そして「足るを知
る」である。開発の目的とは「最小限の物質的消費によって最大限の心の満足を
得る」ことであり、開発僧たちは、「開発とは物の生産を増やし所得を増やすこ
とではなく、心の平安を増やすことである」と言い切っている。

 このような開発が、タイでもすべての人に受け容れられているわけではもちろ
んない。むしろきわめて少数派である。しかし、物の開発中心の経済発展が同時
に格差や貧困、環境破壊、資源の浪費、人びとの心の荒廃、家族や共同体の崩壊
など多くの問題をうみだしていることを考えると、心の開発を重視して、物欲を
自制しつつ、自立的・内発的な、調和のとれた発展をめざそうとするこの営みは、
タイの村という枠組みを超えて、地球社会全体のあるべき発展にむけての大き
な示唆を与えているように思えるのである。

 こうした開発僧の取り組みは、曹洞宗国際ボランティア会などによっても紹介
されたナーン和尚やパーイ村長の活動が広く知られるが、有名・無名を問わず多
くの僧がその実践に当たっていて、活動領域も農村開発のみならず、環境、スラ
ム、エイズなどに及んでいる。最近のタイにおける市場経済の飛躍的発展のなか
でその存在はとかく見失われがちであるが、そのたゆまぬ活動は、経済成長の陰
に押しやられた人びとに寄り添い、力づけつづけているのである。

         (筆者は元桜美林大学教授・社会環境フオーラム21代表)

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