オーバーアマガウの受難劇

■ 【横丁茶話】                  西村 徹

-オーバーアマガウの受難劇-

───────────────────────────────────
 ドイツ最南部、袋の底みたいなところにオーバーアマガウという山奥の村があ
る。10年に一度、人口5000の村人によって上演される受難劇は多くの観光
客を集めるので有名だ。30年戦争さなかの1633年にこの村もペストに襲わ
れた。ペストから救ってくれたら受難劇を上演すると神様に約束したのが因縁で
始まったらしい。約束した功徳でペストが収まった。と、村人は考えた。だから
初演は1634年ペンテコステの時ということであるらしい。

 今では10年に一度。前回は2000年だったが、そのとき知人の牧師が信者
を集めてツアーを組んで観に行った。それを聞いて私はこれを知ることになった。
  ついこの間のことのようだが早くも十年の歳月がめぐって、今年2010年の
オーバーアマガウ行きを、83歳になる牧師が、またもや五月に27名を連れ
て、また出かけた。仏教の寺の坊さんも講とかいって檀家の善男善女をバスに乗
せて本山などに連れてゆくのは知っているが、さすがキリスト教はローマ帝国の
国教となって以来ヨーロッパ白人帝国覇道の支柱となった宗教だけあって、教会
の牧師はそのやることがグローバルだ。

 住んでいる自治体とアメリカのベツレヘムが姉妹都市だとかいうことと繋がっ
ていたかどうかは忘れたが、とにかく危険極まりない時期のパレスチナのベツレ
ヘムを込みにしてエルサレムへの巡礼を企画(さすがに実現しなかったが)した
りしていた。
 
  私はオーバーアマガウに行ったことも、もちろん劇を見たこともないが、7月
3日夜にNHK総合で45分の紹介番組を見た。私の持つ演劇史の予備知識では世
俗劇に先んじて道徳劇があり、それに先んじて宗教劇があった。日本でも神楽か
ら演劇がはじまるように教会から演劇は始まった。劇は無文字の大衆にキリスト
の福音を教えるための方便、すなわち福音書の3D-AV(三次元視聴覚)化であっ
た。降誕劇は桶屋、受難劇は釘屋、復活劇は石屋という風に関連ギルドが担当す
るところの、山車の上の移動舞台上で演じられる古拙な仮面劇のようなものをし
か私はイメージとして持っていなかった。

 ところがそれは大間違いだった。私がイメージした素朴な宗教劇は中世ルネッ
サンス以前のもので、登場人物の身体性はたぶん敬虔の紡ぎだす様式に制約され
て露わでなかった。オーバーアマガウの受難劇はそれらとはまったく異なる、ル
ネッサンス=宗教改革以後の活人劇であって、身体性と運動性がむき出しに強調
されるものであった。

 村芝居だというのでうっかり大きな時代錯誤に陥ったわけで、17世紀30年
戦争のさなかに生まれた受難劇が中世教会劇とおなじであるはずはなかった。む
しろおなじく17世紀シェークスピアの「タイタス・アンドロニカス」やジョ
ン・ウェブスターの「アマルフィの公爵夫人」や「白い悪魔」など、セネカ系残
酷劇のジャンルに入るべきものであった。

 テレビで覗き見たかぎりでいうと「宮の清め」と呼びならわされている場面か
らこの劇は始まる。エルサレムの神殿境内にイエスが乱入する場面、居並ぶ縁日
の屋台をひっくり返して商品の鳩をいっせいに飛び立たせる場面から始まる。飛
び立つ鳩の糞が客席に降ってこないか心配になるほど無数の鳩が飛び立つ。撮影
クルーの中の秋川という声楽家はそう言っていた。最後の晩餐、オリーブ山上の
祈り、審判、十字架の道行きなどなどを経て、磔刑、そして復活で終わる。
 
  老耄のせいで5分の番組でさえ途中で舟を漕ぐこと稀でないから見落としはも
ちろんある。しかし、とにかく、なにからなにまで超リアルで、ほとんどハリウ
ッド製スペクタクル映画をそのまま舞台に持ってくればこうなると、そう言えば
およその見当がつくようなものであった。

 磔刑の場面で真っ先に思い出したのはマティアス・グリューネヴァルトのイン
ゲンハイム祭壇画である。磔刑にかわりはないから磔刑の図を思い出して不思議
はないが、無数にある磔刑図の中から他ならぬこの祭壇画を思い出したのは、た
ぶん、その苦悩の表現の強烈において共通するものを感じたからであろう。

 祭壇画のキリストは砂塵にまみれゴルゴタの烈日に灼かれてまるで乾物のよう
に痩せこけている。その顔はゲルマンとかアジアンとかいう人種民族の枠組みを
踏み越えた、惨殺された農民か漁民の苦悶のはての顔以外のものではない。
ちょっと伊藤雄之助に似ている。つくられた聖性、理想化の影は微塵もない。

 それに反して受難劇のキリストは中東ユダヤのイエスなどとは似ても似つかぬ
生白い肉体を持つ、まぎれもない類型的ゲルマンの白人である。本来両者は相隔
たること遠く、深刻の度合いにおいても同等であるべくもない。おそらくオーバ
ーアマガウはイーゼンハイムの持つ表現主義的ないしは内的な潜勢力をまったく
持たないであろう。おそらく逆方向の形象外面主義的な表層リアリズムが支配的
であろう。すくなくとも2010年版においてそのように見える。観光化、大衆
化の進展に伴いそうならざるをえまい。しかしながら多くの磔刑図に見られる浪
漫的非人間化、非現実化からはともに遠いことが両者になんらかの共通性を感じ
させるゆえんであろう。

 祭壇画の描かれたのは16世紀、この受難劇初演から120年も昔のことであ
る。しかし血で血を洗うドイツ農民戦争を予告するかのような農民の苦悩がまざ
まざと磔刑のキリスト像に凝縮されており、30年戦争時とおなじくペストや麦
角中毒症などの疫病が猛威をふるっていた点にも両者に共通するところはあるだ
ろう。たぶん17世紀に初演された受難劇は、今のものよりさらにイーゼンハイ
ム祭壇画に近かったであろう。21世紀の今日、おそらく観光客の多くが大西洋
を超えてやってくる、メガチャーチのメンバーを含むバイブルベルトからの客で
あろうことは演出に少なからず影響することにもなろう。

 なにしろ、この、バイブルベルトの圧力はすさまじい。フィリップ・プルマン
の『黄金の羅針盤』は2007年に映画化されたが、翌年映画化されるはずの続
篇はアメリカ・カトリック連盟のボイコットによって映画化が阻止された。朝日
新聞GLOBE(7月8日)に紹介されたThe Good Man Jesus and the Scoundrel Ch
ristという新作も、心にくいばかりに挑発的なタイトルだけで十分物議を醸すこ
とであろう。昔グレアム・グリーンはカトリックの作家でありながらアメリカに
上陸できなかった。正しいことは正しくないのである。
 
  すでに2000年版においても従来の聖書の記述と解釈に見られる反ユダヤ主
義を抹消する演出がなされていたと聞く。イスカリオテのユダの苦悩が強調され
たのはロックミュージカルのジーザス・クライスト・スーパースターの先例にし
たがったのであろうか。ここでちょっと思い出したことを書く。かつてロックに
いかれている学生が、ユダという洗礼名でいいなら受洗してもいいと言った。そ
れを聞いたクリスチャンであるらしいある教授が言った。「ユダ!ユダったら悪
魔だ?」。近ごろもおなじようなことがあった。「消費税!消費税ったら悪税だ?」。

 「イエスを十字架にかけよ」と呼ばわったのはユダヤ人群集のすべてではなく
「イエスを助けよ」と呼ぶ声もあったとか、ニコデモやガマリエルがイエスを
弁護したことを強調する演出もあったとか。加えて今年2010年版では、ECCE
  HOMO(このひとを見よ)のピラトを、「このひとに罪はない」(ヨハネ・19
章)と言ったポンテオのピラトを、なんと正反対の悪者に仕立てているのだと、
それはひとえにユダヤ人に配慮してのことなのだと、映像を見せてNHKは紹介し
ていた。聖書もいろいろ、信仰もいろいろか。ドイツ人もご苦労なことだ。

 ここでまた余計なことを思い出した。7月3日、久米宏のTBSラジオの「ラジ
オなんですけど」という番組のオープニングをポッドキャストで聴いた。
 
  《ワールドカップでドイツがイングランドに勝った。誤審がなかったらどうな
っていたか分らないが結局ドイツが勝った。ドイツは戦時中になにをしたかを学
校で徹底的に教える。選手はみんな知っている。ドイツがロンドンを爆撃したこ
とも、無人機で空襲したことも。日韓の試合では韓国の選手は日本のしたことを
知っている。日本の選手はなんにも知らない。なんにも学校で教えないから。知
ってないと勝てないと思う。》

 およそこんな風なことを久米はしゃべった。なぜ「勝てない」という結論にな
るのか、辻褄が合っているわけでないのでお相手役の女性アナは吹いた。たぶん
久米自身が結論をいうとき半ば吹いていたと思う。しかし前提部分はまったく正
しい。ドイツも韓国も学校で自国と周辺諸国との近現代史を徹底的に教える。

 日本はなんにも教えない。戦陣訓の呪縛の大きさも教えていないらしい。日米
が戦争したことさえ知らないのが現れている。日教組はなにをしていたのだろう
か。このままではサッカーで日本は「勝てない」、ではすまない気がする。

               (筆者は堺市在住)

                                                    目次へ