ガン闘病記(7)

ガン闘病記(7)             吉田 春子

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 夫が右腎臓摘出の手術を受けてからはや2年8ヵ月が過ぎました。術後担当医から、「すでに右腎臓はほとんど機能していませんでしたね」と言われて体をすーっと寒気が走ったのが思い出されます。これからは左の腎臓しか残っていないのだとあらためて自分たちの態度を問われているような厳粛な気持ちにさせられました。
  今回は、癌患者と生活を共にし、一番近い場所で癌患者を見てきた者の立場からお話しさせていただきます。幸運なことに夫はこれまでのところ最初考えていた以上に順調に予後が推移し、私の出番は予想以上に少なくなりましたので、厳しい癌との闘いを余儀なくされ、今現在も苦しんでいらっしゃる方々を見守るご家族の方々にはほとんど参考にしていただけないかもしれません。
 
  といっても、わが家も、癌と宣告された最初からすべてが順調に運んだわけではありません。病巣が特定され、癌が最初に発見されるまでの半年~1年ほどはすでに体調がすぐれず、歯の噛合せが悪いといっては歯科に通い、腰痛を治すのだといっては近所の接骨院に行き、運動不足かもしれないとプールに通ったりもしました。にもかかわらず腰痛は続いておりましたので、その後総合病院に移り、整形外科、内科、耳鼻咽喉科を経て、最終的に泌尿器科で発見されるに至りました。私はこの経緯をずっとみており、歯科や病院への送迎に付き合っていたわけですが、まさか夫の腎臓が機能しないほど悪化しているとは夢にも思いませんでした。

 この頃は、夫の執筆活動も軌道にのり、姫路工業大学(現兵庫県立大学)に転任以来三冊目の著書を執筆中でした。在野生活の長かった夫は当地に赴任してからも全力疾走型の仕事スタイルは変わらず、しかも研究だけに専念できるとあって、水を得た魚のようにますます仕事に情熱を傾け、家庭生活は衣食住の数時間に限定されるといった極端なものでした。家族も慣れない当地での生活と中三の二学期から転入してきた次女の精神状態の変化、老齢の母の手術など、次々と問題が生じましたが、それも一息つき、次女の進学に伴って徐々に雑事から解放された私はやっと何か外の世界との接点をもちたいと、県内の書店を対象とした仕事を得て、希望に燃えて走り回っていました。夫が発病したのは私の仕事がちょうど1年を過ぎ、ある出版社の委託を受け、担当する書店に挨拶にまわった直後のことでした。
 
  夫は夫で家で食事ができ、安眠でき(もっともこの頃はすでに不眠に悩まされておりましたが)、自分の研究生活に支障が生じなければ、それ以外のことにはほとんど関心がありませんでした。家庭を維持しているかぎり私も自由だったはずですが、なにしろ当地に来てからの夫の家庭への無関心に対する不満がたまり、せっかく仕事を得てこれからという時に病状を訴えられた私は、「今まで勝手なことばかりしてきて、病気になったらなんで私に頼るの?一日中研究室で夏はクーラーにあたりっぱなし、冬もからだを動かさず暖かい部屋で前かがみの姿勢でパソコンと向かい合ってれば病気にもなるわよ。たぶん運動不足と疲れと精神的なものでしょう」と意にも介さないまま病院への送り迎えに付き合っておりました。
  私のほうはそんな強気の精神状態でしたので、総合病院の泌尿器科でCTに写った大きな影を見せられ、月内に手術をと促された時にはまさに青天の霹靂でした。その日は、「精神的・肉体的疲れですね」という診断を得て、夫と共に気分転換に蟹を食べに繰り出す日だったのですから。今でもその時のことを思い出すと、一番近くにいながら夫の癌の発病を見抜けなかった自分のふがいなさに情けなくなり、夫には大変申し訳なく思っています。

 ちょうど12月で、病院側も新年の休暇前でしたので、私たちは大急ぎで友人・知人に連絡をとり、紹介していただいたり、どこで誰に手術を受けるかも含め、日程を調整するなど師走を走り回ることになりました。それでもまだ体を動かしている間は気がまぎれていますが、夜になって家に戻ると急に「ああ、もうこの人と一緒にいられるのはあと1年あるかないか」などと考えると自然に涙がこぼれます。本人の前では涙を見せないように心がけてはいるものの、どうしてもがまんできずに私が泣いていると(ふだんは涙を見せないかわいげのない妻なのですが)夫も現れ、二人で顔を見合わせて泣いていました。生活上の不満はお互いにあるにしてもやはり30年以上一緒に暮らせば、男と女、夫と妻というよりは、家族であり、兄弟であり、仲間で味方です。私の中にまだこんなやさしい所が残っていたのかと自分でも驚くほど涙を流しました。
  その年、わが家にお正月はありませんでした。結婚以来新年を祝わなかった年は初めてです。子供たちも父の手術の知らせに驚いて帰省しましたが、話は病気と手術のことばかり。毎年大騒ぎで作っていたおせち料理を作る気にもなれず、既製の料理で簡単に済ませ、わが家にとっては真っ暗なお正月となりました。
  夫も手術の前は弱気になり、必要と思われる引継ぎを体調の不調をかかえながらこなしてくれました。こういう事態に陥った時には○○氏に連絡をとるように、こうなったら△△に頼れなど、細々と指示を出す夫の胸中を考えると今でも辛くなります。

 手術は無事成功し、同じ手術をされた方々と同じような普通の経過をたどったと思います。私は何度か近しい者の手術に遭遇して手伝ったり見舞ったりしておりましたが、夫となるとやはりまったく別でした。手術の成功に一安心し、夫の傍らで介助していた、特に術後数日の心理は私にとって初めての経験でした。このときのことは今も時々思い出します。体がまったくきかず、手や足を動かすのさえ介助を必要とし、やっと発する言葉も痛みや苦しみを訴えるだけの夫の弱々しい体は、それまで私のそばにいた相当強力な人格をもった人間ではなく、自分の意志をもたず、個体としての生命体をやっと維持しているだけのとてもはかない存在に思えました。夫は病気になろうと手術をしようと、いつも個性的な人格をもつ人間でいるものだと信じていた私はこの突然の変化にショックを受けました。かつてはよく病院で看護師さんたちが、思うように体がきかなくなったお年寄りの患者を、相手の人格を無視して小さな子供を扱うような口調で対応しているのを見かけましたが(最近では相手の人格を考えた対応をされているそうです)、その気持ちがわかる気がしました。そしてこの驚きは裏を返せば言葉にできない不安だったのだと思います。

 夫は手術でかなり体力を消耗し、1ヵ月ほどで退院して家の周りを少しずつ歩き始めた頃は、足取りはいかにも頼りなく、筋肉も落ち、体も一回り細くなって杖をつきながらフラフラ歩いておりました。そんな折、ちょうどその年に持ち回りの自治会の理事に当っていた私は、不安をかかえたまま、役員決めのある最初の会議に出席しました。いつも夜中までかかっても会長が決まらず後日に持ち越すので有名な役員決めです。最初の顔合わせで、夫が手術したばかりなので、できれば役員からはずして欲しいとの希望を強力に申し出ましたが、どの家庭からもさまざまな理由が出て、結果的には全員でくじ引きとなりました。たまたま私は主要な役員には当らず、心配していた二年間の任期も夫の予後がよかったおかげで介護と平行して無事こなすことができました。
  退院してしばらく経った頃、知り合いの紹介で、癌で片方の腎臓を摘出しながら10年以上お元気で再発せず、海外旅行にも飛び回られているという生還者が同じ市内の、しかもそう遠くない所にいることを知り、二人でお話を聞きに行きました。同じ県立成人病センターで10数年前に手術され、見放されて高熱のまま退院し、別の独特な方法(西洋医学の代替療法)で生還された方です。ここで私たちは、絶望的と思われていた夫の将来に少し光を見出しました。この方と同じ療法を受けるにしろ受けないにしろ、これだけはっきりした生還者がいらっしゃるという現実が将来の希望を失ってしまっている術後の患者にどれだけ励みになるかは同じ境遇に陥った人でなければなかなかわからないと思います。「癌は不治の病」「転移すれば希望はない」などの社会意識を信じて希望を失っていた私たちが出会った最初の驚きと喜びでした。

 この出会いと前後して、「ガンの患者学研究所」の存在を知ったことも、今の夫の存在の基盤となりました。代表の川竹文夫氏はご自身も腎臓癌を発病し、腎臓の摘出手術後、考え方から生活スタイル、食事まですべてを変えて生還した方です。同研究所のビデオでは、統計には表われない(わざわざ西洋医学の主治医に報告に行かないため)癌からの生還者は実際には数多くいること、癌は治療の方法を変えれば、不治の病ではないことなどが次々と説明され、さまざまな生還者たちが登場していました。また、同研究所で出版している雑誌には多くの生還者の体験談が載っていました。研究所の主催する研究会に顔を出すと、体験談を書いた生還者本人や、さまざまな癌と共生中あるいは闘病中の患者やご家族の方々と実際に知り合えますし、情報も得て帰ってきました。ここには、「癌は不治の病」との社会意識とは裏腹に、癌患者本人や家族など近しい者たちがあちこちにアンテナを張り、西洋医学の医師との連携以外の方法も選択肢に組み込んで、患者本人が主体となって闘病する精神的に自立した人たちが集まっていました。そこには癌は不治の病ではないと証明してくれる生還者たちも目の前にいました。何よりも嬉しかったのは、今まで絶望的だと思っていた癌の予後を、もしかしたら生還できるのではないかと初めて思えるようになったことです。
  私たちが、いま苦しんでいらっしゃる癌患者やご家族の方々にぜひお伝えしたいのは、こうした団体や生還者と連携をとり、まずは自分のまわりに元気をもらえるいい場を作っていくことではないかと思います。名古屋で患者を大いに勇気づけている「いずみの会」(HP:http://homepage2.nifty.com/izuminokai/ TEL・052-363-5511 FAX・052-362-1798 )など他にもいろいろな団体ができています。自分が動かなければ既存の標準医療の体系のなかで進むしかありません。病院任せにせず、本人や家族が主体となって、西洋医学も含め、別の選択肢も取り入れて進んでいけば、必ずや違った世界が開ける時代となっています。

 私たちがかなり早い時期にこうした団体や生還者と知り合えたのは幸運でした。食事をはじめ、夫は生活上のあらゆる細部にわたって変えていきました。この経緯はこれまでの連載をご一読いただければと思います。それでもなかなか「癌=死」の社会意識から離れられず、いつまた悪化するのでは、突然転移して大きくなるのではとの思いをぬぐい切れませんでしたが、半年ほど経って術後の体が回復してくるのと同時に、検査結果に徐々にいい数字が並び始め、私たち(夫はもう少し後かもしれません)はこのままいけるのではとの確信を強くしていきました。いま、夫は私によく「どうして最初からそんなに簡単に治るって信じられたんだ?そんな確信がどうしてあったの?」と聞いてきますが、なにも私にも最初からそんな確信があったわけではありません。もちろん、夫は現役の癌患者ですから、なかなか私のように簡単に前途を信じきって進めないでしょうし、本人と介護者では時間差は大きいと思います。私の目の前で患者である夫が徐々に元気になり、昨日より今日、先月より今月と回復していく姿を見ていれば、夫の健康状態を本人より素直に楽観視できるのではないかと思います。検査結果に多少の上下はあるものの、総じてどちらの方向に向かっているかは、結果に一喜一憂しなければならない本人より距離をおいてみられるからでしょう。
  今の夫の生活は、癌が発見される前の生活をそのまま180度転換したような生活に変わりました。これまでは土曜も時には日曜・祝日もなく朝7時過ぎから夜7時前まで研究室にこもっていた生活から、朝は6時過ぎから散歩に出かけ、2時間ほど散歩・しばらく研究室で仕事、太極拳などをして8時半頃に家に帰って朝食をとるというスタイルになりました。昼食も家でとり(職住が近いため)、昼休みの時間帯は歩いて5分の楽寿園(老人向け施設)で半身浴をしてきます。
 夕方も4時頃から2時間ほど散歩や太極拳をして、丸山ワクチンを打ちにかかりつけの医院に歩いてまわって帰ってきます。7時にはきちんと夕食をとり、9時半就寝です。執筆原稿を考えることで頭の中が冴えて睡眠薬に頼っていた以前と違い、今はいっさいどんな薬も飲んでいないにもかかわらず朝6時頃までぐっすり
眠っているようです。
  精神的にもずいぶん変わりました。性格がとても穏やかになり、怒ることがなくなりました。これはがまんしているのではなく、私のみるかぎり本当に変わってしまったようです。ゆっくりと生活を楽しむこともできるようになり、今では絵を描いたり音楽を聞いたり、落語や漫才を楽しむなど趣味の幅もどんどん広がっています。変化の前後の夫を知っている学生さんたちからは、「以前は質問があっても昼休み以外に研究室に入るのが恐かったですよ」とか「先生に何か言われると頭が真っ白になったんですよ」と言われ、同僚の先生には、その変化を「思っていたよりしなやかですね」などとからかわれたりしています。

 夫を通してみて、人は危機的な状況に遭遇すれば本当に変わることができるのだと実感しております。癌患者もそれぞれに生きてきた歴史をもっており、その延長線上で闘病生活をされている方のほうが圧倒的に多いと思いますが、こうして間近でどんどん元気になっていく夫を見ていると、本人が納得できるなら癌の発病を契機に自分を見つめ直し、癌を作り出す土壌となったこれまでのあれこれのスタイルを片っ端から変えて残りの人生を楽しむこともまた選択肢の一つではないかと思えるのです。
  それにしてもここまで快復できたのはとても本人や家族や近しいものだけの力によるものではなく、夫の勝手を大目に見ていただいた職場の皆様方や、夫の闘病に気長に付き合っていただいた学部や院の学生さんたち、太極拳の王さんをはじめ仲間の皆様方、困ったときにかけつけて下さったり、遠くから電話や手紙で励ましをいただいた先生方や友人・知人の皆様、そして、夫の体をずっと診続けて下さっている執刀医やかかりつけの先生、何でも相談させていただいているカウンセラー代わりの東京の先生等々、周囲の皆様のお力があったればこそと心からの感謝でいっぱいです。本人は今後は何をやるにしても「生涯現役」を通すのだと豪語しておりますが、それが実現できるよう、なにごともなく過ごせるよう祈るような気持ちです。また、夫の闘病記のために紙面を提供して下さっているオルタの加藤宣幸様にもあらためてお礼を申し述べさせていただきます。夫と交代で書かせていただいた私の持ち分は今回で終了させていただき、次回からは吉田勝次のみの執筆とさせていただきます。患者の皆様のご快復を心よりお祈り申し上げます。

      (筆者は兵庫県立大学吉田勝次教授夫人)

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