ガン闘病記(8)

■ ガン闘病記(8)            吉田 勝次

───────────────────────────────────
 今朝早くいつもの散歩コースの大学のグランドの芝生に出ると、初霜なのでしょうか、芝生一面が白く光って輝いていました。朝晩眺めてきた180メートルほどの丘、八丈岩山も心持ち薄く朱に染まり始め、紅葉の季節がすぐそこに来ているのを感じるなかでゆっくりと心をこめて呼吸を整え、30分ほど気功をすると、心身ともに洗われるような清々しい生の充実感を感じました。私はたしかに生きています。癌と共存しながら元気に生きています。振り返ってみると、私の闘病の転機はセカンドオピニオンを求めて悩み動き回ったときでした。

 2003年12月、姫路赤十字病院泌尿器科で右腎臓癌という確定診断が下され、年末ぎりぎりの手術日が示されました。そこで私は、命にかかわるような病気で手術そのものも高度の技術水準を要すること、病院の総合力および医師の熟練度や腕前も病院によって相当の差があること等を考えると、セカンドオピニオンを求め、悔いのない選択をしようと思いました。もちろん、診断そのものが的確であるかどうかについても万全を期す必要があるのではないかと思いました。高校時代に肺結核で左上葉を切除した経験から、大手術の後遺症は術式と医師の腕前によって大きく変わり、生活の質もまた大きく異なるということを身を持って体験した点も大きいと思います。50年前の結核の治療の場合、ようやくストレプトマイシンが導入され、パスとヒドラジッドを合わせた三者併用が標準療法として導入され始めた時期でした。

 手術では、空洞にビニールを詰めるビニール充填という方式、肋骨を何本も切除して重しで空洞部分を圧迫する成形手術、それから病巣を摘出する手術と三通りありました。私が療養所に入っていた頃にビニール充填を受けた患者が相次いで膿胸で重篤な状態になり、一大社会問題でした。成形手術も体型が大きくゆがみ、呼吸機能が低下する過酷なものでした。肺切除の場合でも、術後の管理に失敗すると膿胸を併発するなどの二次的に危険な状態が生じ、さまざまな追加的な外科的処置が施されていました。私の場合には肺切除はうまくいきました。それでも傷跡はケロイド状で盛り上がり、公衆浴場などとても行く気にはなれないのが本当のところでした。高校、大学時代は体育の授業はすべて見学していました。ですから、外科手術というものは盲腸であれ何であれ絶対に避けたいという強い気持ちを持っていました。

 われわれ夫婦は日赤の主治医に、セカンドオピニオンを求めたうえで最終的な治療方針を決めたいと申し上げ、手術日をひとまずペンディングにしていただきました。もちろんいい顔はしませんでしたが、セカンドオピニオンは今日では広く認められた患者の権利ですので、紹介状などは迅速に書いていただきました。手術を避けたいと考えていた私が、セカンドオピニオンを求めて最初に飛び込んだのは慶應大学放射線科の近藤誠医師でした。クリスマスの日に妻と共に全身のいいようもない痛みを必死にこらえながら新幹線で東京に向かいました。近藤医師の診断は明快でした。放射線は当てられないね、まだ命のやりとりの段階でないから頑張って下さいと言われ、手術を勧められました。この段階で、手術以外にないことを納得しました。

 次に兵庫県内の医療機関のデータをインターネットで検索しました。少なくとも2003年12月段階における情報開示は兵庫県立成人病センター(現がんセンター)がダントツに豊富でした。腎臓癌手術の年間手術件数、術後の経過、医師の個人情報などが一連の学術的な論文と共に提供されていました。姫路赤十字病院と国立姫路病院(現姫路医療センター)が当時開示していた情報量は率直に言ってかなりがんセンターに比べて貧弱でした。ですから執刀件数がダントツに多い県立がんセンター泌尿器科の医療水準は一番高いのだと考えて同外来の部長診察日に関係書類をもって飛び込みました。もちろん、診断は腎臓癌ですし、即時手術を勧められました。医師の第一印象はとても誠実な人柄を感じさせるものでした。命を預けるわけですから、この人ならばという感じは大切だと思うのです。

 その場で手術のお願いをし、年明けの1月17日が手術日と確定しました。この間に知り合いの看護師経験者から次のような情報があったことも決断に有益でした。患者一人当りに対する看護師の人数は県立、市立が他の医療機関よりも充実しているということでした。術後管理の重要な大手術の場合に、夜間の看護体制の充実は文字通り生死に関することなのだと彼女は強調してくれました。術後この助言の意味がよくわかりました。この段階でのわれわれのセカンドオピニオンについての考え方は、外科手術、放射線治療、抗癌剤投与のいずれがよりよいのか、どの病院のどの医師の治療がより良いものなのか、そうした情報を何とか必死で集めようというものでした。もちろんこのレベルのセカンドオピニオンで私の場合にはひとまず窮地を脱したので成功したと思います。ただ、術後に再発や転移を予防するということを考えるときに、西洋医学の三大標準療法では腎臓癌にはほとんど効果を上げていないという現実を学び、すでに書いてきたような伝統医学や代替療法などを総動員する統合医療という道に進んでいきました。

 その後、セカンドオピニオンが癌患者の命を救うという経験が私にごく近いところで起こりました。私のゼミ卒業生、中国浙江省からの留学生S君です。S君は2年間働いたトヨタ系のベアリングメーカーを辞めて2007年春から兵庫県立大学の大学院に入学し、私のもとで研究活動をスタートする計画でした。2006年9月に入学試験に合格し、すでに会社を辞めて姫路に住居を移していました。ところが運の悪いことに9月末に白血病に近い骨髄異型性症候群という難病の診断を受けました。そこで、セカンドオピニオンを求めて神戸市民中央病院に駆け込みました。当時の彼の体調は、食欲がなく、下痢が続き、不整脈、めまいがあり、不眠に苦しみ、気力も衰え、顔色も非常に悪い状態でした。免疫力が低下しているため、人ごみに出る時には二重、三重にマスクをして慎重を期していました。

 姫路から神戸市民中央病院までの往復もわれわれ夫婦が車で送迎し、同病院では40分ほどの診察を受けました。病名はセカンドオピニオンでも同じもので、骨髄移植以外に方法のない難病との結論でした。そこで彼等夫婦は姫路のアパートをそのままの状態にして9月末日に中国に帰国しました。帰国直前に彼から、北京にいる姉の主人が事業家なので骨髄移植の費用は心配するなと言ってきたと私に伝えましたので、彼が骨髄移植で病気と闘うという道を選択したものだと考えていました。ところが一方では診察の後に「あの医師はどうも私の命を大切にしているとは感じられないのです。病気は見ているのですが、病人である私の人間を見ていないのです」とも語っていました。今考えれば、あのときからいまひとつ骨髄移植に気持ちが向かっていなかったのかもしれません。

 いずれにせよ中国に帰国するや彼の治療方針は大転換しました。北京で伝統的な中国医療(漢方)によって闘病し、骨髄移植はしないと決めたのです。それからの彼の闘病は家族総ぐるみの深い愛情のなかで始まりました。母親も浙江省から北京に上京し、半年間はソファに寝て彼を励ましたと語っていました。今年4月初め症状の安定したS君は姫路のアパートを閉鎖するために1週間ほど来日しました。当時すでに状態は着実に回復している様子でした。中国医師は診察の最初の診断日から、「大丈夫、大丈夫。絶対に治るから。唐辛子以外はどんどん栄養を採ってください」と激励してくれたと語っていました。また、毎週毎週処方箋が変わり、そのつどどんな薬草、薬剤が入っているかを家族は歓声を上げながら語り合っているのだと嬉しそうでした。要するに、彼の命のエネルギーが伝統医学によって高まっていることは間違いないのだと思います。それでも私は彼に、「闘いは長いんだから、S君、慎重に闘おうぜ」などと声をかけていました。それから半年、奇跡が起こりました。すでに血液検査のデータはほぼ正常値に近いものに回復していました。10月上旬夫婦で気分転換のために私の家に遊びに来ました。183センチの長身の彼が学生時代の一番元気な時よりもさらに生気溢れる姿を見せてくれたのです。彼はわが家に飛び込むなり、「診察のたびに良くなっている。山は乗り越えたね。完全に治るまで頑張ろうと中国医師は言ってくれたんですよ」と報告してくれました。狐につままれたような感じがしました。いまひとつ腑に落ちなかったのは、いつどこでどのようにして西洋医学の骨髄移植の道から中国医学の漢方の道に転換したのか、その謎をどうしても聞いてみたいと思いました。
 
 S君夫妻が中国の伝統医学の医師(中医)にセカンドオピニオンを求め、北京に向かった最初の一歩は奥さんのOさんのメールと電話でした。華僑との関係が深いことで有名な曁南大学の大学院の学生時代に彼女は膝を患い、立ち上がることができない状態になりました。それを週1回の通院を3ヵ月続けて治したのが同大学付属病院の張女医でした。張医師は西洋医学の医師ライセンスをもつと同時に熱心に中国の伝統医学の習得に努めていたやさしくて温かい性格の方だったそうです。

 Oさんは姫路から張医師に電話とメールで夫の病気について相談し、セカンドオピニオンを求めていたというのです。張医師の返事によれば、再生性造血障害の患者を鍼灸で治療した研究報告例を読んだことがあり、血液に関する難病についても中国の伝統医学は対応できるはずであり、北京にはそうした名医が必ずいるので北京で治療したらどうかと薦めてくださったそうです。そこで、S君夫妻は北京に飛び、家族総動員で中医探しに奔走したわけです。そこで探し当てたのが北京の天安門に近い平心堂という中医専門病院の孔嗣伯教授でした。同教授の経歴それ自身が中国近代における伝統医学の歴史そのものを物語るものなので大変興味深いのですがここでは省略します。

 どうもOさんはわれわれと一緒に神戸の市民中央病院に行った時にすでにこうした連絡をとっていた形跡があるのです。われわれはその時すでに、玄米菜食やら気功やらという自然治癒力を主軸にする闘病の道に入っていましたが、その闘病の道をけっしてS君夫妻に押し付けてはいけないと自制していました。しかしOさんは実に積極的に妻の春子に玄米菜食やら、新鮮な水を手に入れたいとコンタクトしてきたと思います。Oさん自身が子供の時に病気をすると、注射か苦い薬かという選択を迫られました。もちろん子供は注射より苦い薬、つまり漢方を選んで、大概の病気は二日で治ったと言っています。おそらく、漢族の家庭では小さいときからごく自然に、病気になると漢方薬を煎じて子供に飲ませて対処しているのだと思います。

 漢方を煎じる時のあの強烈な匂いも漢族社会では懐かしい母の味なのでしょう。ですから中国の庶民の社会意識のなかでは西洋医学も医学だけれども、中国の伝統医学もまた同じように効果のある医学なのだというものが根付いているのだと思います。もちろん最近では西洋医学の専門家が、伝統医学は迷信にすぎないという批判を上げることもあるようですが、北京政府の衛生部長(閣僚級)はそれにこう反論しています。中国人が一年間に買う医薬品の価額は西洋医学の薬品が半分、中国医学の薬品が半分。中国医学の単価が西洋医学のそれよりも安いことを考えると、実際には漢方薬の処方で治療している人の数が西洋医学を利用している人の数を超えているのです。根強い社会意識が中国の伝統医学をしっかりと支えているのです。この点が日本と大きく違うように思われます。

 加えて、Oさんの家庭は父方の祖父が香港で漢方の薬局を経営しており、曽祖父が中国医師だったというのです。ですからOさんにとっては、なんの迷いもなく西洋医学と同じ、あるいはそれ以上に効果がある医学として中国の伝統医学があり、セカンドオピニオンの対象としてごく当然のこととして相談を求めたのだと思うのです。少なくとも私の場合には、セカンドオピニオンの対象として最初に癌の診断がなされた時に中医を選択するということは思いもつかなかったことです。こう考えてみますと、漢族の癌患者のほうが選択肢が多く、それだけにまた治療の効果を上げているといってもいいのではないでしょうか。日本の現状では伝統的な中国医師は医師法で治療行為が禁止されています。漢方薬を輸入している商社には顧問として中国人中医が働いているケースがありますが、治療は行っていません。西洋医学のライセンスをもった医師のうちのごくわずかな方が中国医学をも勉強し、脈をとり、漢方を処方しているというのが現状で、大多数の癌患者がそのチャンスをとうてい利用することはできません。仮に患者本人が漢方薬をメインにして治療しようとしても家族や周囲の者がそんなもの効くはずがないと寄ってたかって止めさせようとする社会意識が働いているにちがいありません。

 S君夫妻と話しているうちに、若いOさんが実にはっきりした死生観をもっていることに気がつきました。広東省の新興県新城鎮の彼女の六階建ての実家では、一階がすべて仏間になっていて、大家族が出入りするときに必ず仏壇に線香を立てて手を合わせるのだそうです。92歳の祖母が亡くなったときにも三日三晩盛大で綿密な葬儀がとり行われたとのことです。その葬儀に参列した周君はこう感想を述べていました。「ここまで大事にしてくれるようなところで自分もやっぱり死にたいですね」。Oさんはまた、小さいときから先祖の霊に線香を上げているのでご先祖様が必ず一階にいてわれわれ家族を見守っているという強い意識を感じて育ってきたとくり返し言っていました。この地域には禅宗の有名な國恩寺があり、特別に信仰心の厚い地域なのかもしれません。

 しかし大切なことは、Oさんは死んだら自分がどこに帰っていくかということにはほとんど疑問の余地なく、自分の故郷の実家の仏壇に帰っていくと考えていることです。そこで、先に亡くなった先祖と合流し、現在と将来の同族の人生を見守るのだそうです。彼女のこうした非常にはっきりした死生観は死ぬか生きるかの瀬戸際に立った夫を支える重要な不動点だったと思います。恥ずかしながら64歳にもなり死生観の定まらぬ私に
折に触れて喝を入れてくれたのは妻春子でした。彼女は幼いときから家族が天理教の信者であったこともあり、教会にごく普通に出入りしていました。ですから彼女はなんとなく生死について達観しているような印象をずっと私は感じていました。そんな妻が隣にいると、臆病者の私でもドンと構えているふりをしなければならないし、私の最も尊敬する大先輩上田さんの得意の台詞「山よりでかい獅子はいない」を思い起こしながら起伏のある闘病生活の精神をゆるぎないものにするように努めてきました。S君にしても死を恐れずドンと構えた奥さんがいることが、迷わず伝統医学に命を託そうと決断する大きな支えになったのだと思うのです。彼等は北京で本格的な闘病生活を始めたのち、2006年12月に浙江省と広東省で結婚式を挙げました。そのことがS君の精神の安定を決定的に強めたのだと思います。

  セカンドオピニオンは癌患者の生きるか死ぬかを決します。セカンドオピニオンを西洋医学のあれこれの違いだけではなく、もっと目を広くさまざまな伝統医学、代替療法、サプリメント、民間療法など幅広く考え、医師だけでなく看護師、医療関係者、民間療法家、各地の患者組織の活動家などできるだけ多くの人に接し、自分にこれだと直感できるものをぜひ選択されることを期待します。もちろん、漢方薬だけがS君を治したのではないかもしれません。妻や両親、兄弟姉妹などの深い愛の力に負うものも大きいでしょう。中国に帰るときに彼はこう語っていました。「母はもう漢方薬を止めたらどうかと言っています。止めても必ず回復するよ、と言います。私も近々そうしてみようかと思っています」。S君はそう言って笑いながら国に帰っていきました。

           (筆者は兵庫県立大学教授)

                                                        目次へ