【北から南から】フィリピンから(3)

キリストの道、リサールの道

麻生 雍一郎


 フィリピンは1億国民の9割近くがカトリック信徒、アジアで最多のカトリック信徒を抱える国である。今月2日から5日までの4日間は信徒たちにとって1年で最も大事な聖週間( HOLY WEEK )だった。キリストが磔刑(たっけい)に処されたとされる聖金曜日(3日)は各地でその受難を偲び、追体験する儀式が、またキリスト復活の日とされる日曜日(5日)には復活を祝う行事が行われた。3日の儀式の前には多くの市民がボランティアとなって酷暑の中、汗まみれで「ゴルゴタの丘」を作り、丘の上にはキリスト受難の舞台装置—処刑場、柵、十字架など—の造形物が整えられた。

 私はセブ市内のグアダルーペ教会での儀式(野外劇)を見に行った。
 5千人を超す人々が見守る中、まずキリストと共に処刑されたとされる2人が左右の十字架にはりつけにされる。キリスト役を演じるラフィ・アノールさん(25)は3キロ離れた別の教会で十字架を担ぎ、手足から血(本物ではない)を流しながら受難の道のりを歩き続ける。故事にちなんで途中で14回倒れ、追捕の兵に追い立てながら息も絶え絶えにゴルゴタの丘へたどり着く。
 舞台前には2000年前のユダヤの庶民たちの衣装をまとったエキストラ(セブ市職員)が数百人。聖母マリア役の声をかき消すように「はりつけに! はりつけに!」と叫ぶ。アノールさんはついに両手、両足を十字架に縛られ、左右より一回り大きい十字架は舞台の真ん中に立てられた。左わき腹に槍が入る。
 アノールさんの顔がガクッと崩れ落ちた。執行人が身体にさわり、その死を確認する。身体が紫の布で包まれ、十字架から降ろされる。悲嘆にくれる聖母マリアに抱かれるキリスト。ミケランジェロはじめ多くの芸術家が描き、刻んだピエタの図である。そこへ突然の雷鳴、一天にわかにかき曇り、大地は大きく振動する。驚いて頭を抱え、逃げ惑う民衆たち。やがて天が鎮まると、登場人物たちが壇上に勢ぞろい、観客の大きな拍手を受けて、1時間の受難劇は終わった。

 ところでフィリピンでも欧米でもキリストの十字架への道行(ヴィア・ドロローサ)は悲痛極まりない姿で絵画や彫刻に描かれ、聖週間の野外劇でも配役は十字架をかつぎ、血の汗を流しながら、苦痛に顔をゆがめながら歩いていく。実際にはどうだったのだろうか? ごくまれながら、この姿に異説、異議を唱える人がいるのである。

 桜美林大学の創設者として知られる故清水安三氏は「イエスが聖画に見るようないともあわれな死相をさらされるはずがないと思う」と記している。清水氏はエルサレムを訪れ、ピラトの邸からゴルゴタの丘までのヴィア・ドロローサを歩いた。上ったり下ったりの坂ではあるが、距離は遠くなく、当時78歳だった清水氏は20分足らずで楽々歩けた、という。
 「私はイエスが軽々と十字架をかついで行かれたであろうと想像する。十字架はポプラの木で作られたというから、そう重くはなかったであろう。何しろイエス・キリストはまさに男盛りの、しかも大工さんなのであるから、軽々とかついで胸を張って、足取り確かに行かれたであろう。多くの聖画に表現されているようなみじめな道中ではなく、少なくとも喪家の犬のごとく、あえぎあえぎ歩かれたとは考えたくない」。清水氏は自伝『石ころの生涯』でそう書いている。

 となると、これは1896年12月30日に処刑されたフィリピンの国民的英雄、ホセ・リサールの道行と重なってくる。フィリピンが生んだ天才的学者、医者、哲学者、思想家、作家、詩人として名をはせたリサールは、祖国の解放、独立を画策した、などの容疑で捕えられた。銃殺刑に処されることが発表されると、当日は朝早くから数万のマニラ市民が監獄から処刑場までの沿道を埋めた。リサールはその道行を微笑みをたたえながら歩いた。側近に「ケ・マニャナ・タン・エルモサ!(美しい朝だね)」とつぶやき、アテネオ校のそばまで来ると「あの学校で学んだことがあるよ」と語った。医師が同行したが、呼吸や脈が乱れることは全くなかったという。前の夜、収監されていたフェルサ・デ・サンティアゴ刑務所のランプの下で1枚の紙片に記した『別れのあいさつ』は、のちに世界で最も美しい、感動的な遺書、として知られるようになった。

 聖画に描かれ、劇で演じられる悲痛なキリストの道行と、微笑みながら刑場へと赴いたリサールのそれは余りにも対照的だが、ヴィア・ドロローサを自ら歩いた上で新しい見方を披露した故清水氏の指摘が正しければ、キリストとリサールの2つの道行は1つに重なってくる。聖週間のキリスト受難劇にも将来、違った脚色、筋立てが現れるかもしれない。歴史的、学問的な検証が進むことを期待したい。

 (筆者は日刊マニラ新聞セブ支局長)