【自由へのひろば】

シベリアの埋葬地に、せめて墓標を

増子 義孝


 シベリア抑留者の埋葬地が、荒れるがままに放置されています。遺骨の収容は年ごとに難しくなっており、約5万5千人の抑留中死亡者のうち、日本に帰還することができたのは、これまでに4割にしかすぎません。「骨を拾ってもらう」あてもなく、この先も異国で眠り続けなければならない抑留犠牲者の墓地の保全について、真剣に考えるべきときにきていると思います。

◆ ゴミ捨て場と化した埋葬地も

 多少は荒れているかもしれない、と覚悟はしていました。しかし、実際にその光景を目にして、衝撃を受けました。
 昨年6月のこと、70年前にシベリア抑留中に死亡した父親の埋葬地が分かったという思いがけない知らせが、厚生労働省から届きました。早速、沿海地方・ウスリースク市(旧ウォロシロフ)郊外の墓地(第4865特別軍病院・第1墓地)を訪ねてみると、そこには墓標もなく、ペットボトルや古タイヤ、廃棄物を詰め込んだビニール袋などが散乱し、ゴミ捨て場の様相を呈しているではありませんか。この埋葬地からは、20年ほど前に90人の遺骨が収容されましたが、いまもまだ135人が眠っているというのに、です。

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一部の遺骨を収容したときに、きちんと埋戻しをしなかったのだろう。ロシア人墓地に囲まれた埋葬地は窪地になっていて、墓参りのロシア人のゴミ捨て場になっていた=第4865特別軍病院・第1墓地(埋葬者225体、内90体収容)

 近くの埋葬地も探訪してみたのですが、案の定というべきか、それぞれ133人、64人が埋葬されているという二つの地点には、やはりなんの目印もなく、腰までくる雑草に覆われていました。

◆ 遺族にとっての埋葬地の意味

 ここであえて強調しておきたいのは、シベリア抑留者の埋葬地は、だれが葬られているとも知れない無縁墓地ではない、ということです。
 アジア・太平洋地域の激戦地と異なり、旧ソ連は抑留犠牲者について、どこの埋葬地に、だれを埋葬したか、記録を残していました。その資料の読み解きが進められた結果、遺族の多くはいまや、自分の肉親がどこに葬られているのかを知らされており、墓参も不可能ではなくなりました。シベリアの埋葬地は、遠く離れてはいても、文字通り肉親の眠る墓地であり、粗末には扱えない存在なのです。
 遺族のとって埋葬地が大事なもう一つの理由は、たとえ遺体が収容されても、遺族のもとに還ることができるのはDNA鑑定で身元が判明した一握りの人にすぎないからです。残りの遺体は「無縁仏」として千鳥ヶ淵戦没者墓苑に葬られ、身元が特定できないので、遺族に知らされることもありません。

◆ 保全に本気でない日本政府

 厚生労働省によると、これまでに所在が突き止められた抑留犠牲者の埋葬地は224か所にのぼります。
 しかし、日本政府は埋葬地の保全には関心が薄く、墓地の荒廃を指摘しても、「1991年に旧ソ連との間で結ばれた協定により、埋葬地の管理はロシア側の責任。ロシア側に申し入れておく」という回答がかえってくるだけです。
 肝心のロシア側はといえば、協定を守ろうという姿勢はほとんどみえません。墓参のために現地を訪ねた複数の遺族も、「埋葬地に管理の手が入っている形跡はない」と証言しています。ウスリースク市の担当者に協定について聞いてみると、そんなものは知らないというこたえでした。
 本気で協定に実効性を持たせようとするなら、日本側としては少なくとも、①墓標を建てるなどして、そこが抑留者の墓地であることを明示する、②そのうえで、管理を要請する埋葬地のリストをロシア側に提示し、③さらに、埋葬地の状況を定期的にチェックし、管理に問題がある場合は、ロシア側に強く申し入れる、という対応が必要でしょう。
 しかし、シベリア抑留問題に関する日ロ協議が最後に開かれたのは2010年10月で、この四半世紀に4回しか開かれていないのが実情です。

◆ ロシアに「丸投げ」でいいのか

 ロシア側に管理を「丸投げ」という現状は、事実上、埋葬地の放置にひとしい、と言わざるをえません。このままでは多くの遺族が知らない間に、埋葬地の荒廃が進み、墓標もなく打ち捨てられた埋葬地は、墓地としての痕跡すら失われる恐れがあります。

画像の説明
埋葬地は腰まである雑草に覆われており、GPSの位置情報を頼りに、やっとたどりつくことができた=第4865特別軍病院・第3墓地(埋葬者133体、遺骨未収用)

 それは、赤紙一枚で召集され、餓えと寒さと強制労働で非業の死を遂げたシベリア抑留犠牲者を二度殺すような仕打ちだ、と私は思います。さらには、旧ソ連による60万人を超える日本人の不当な拉致・抑留を告発する「歴史的遺産」の消滅をも意味します。
 最近はルーツ探しが盛んです。孫が祖父の埋葬地を訪ねて、そこが原野と化していたらどうでしょうか。若い世代への歴史の継承という点からも、保全をおろそかにはできないはずです。

◆ 墓標建立も「国の責務」

 そこで私は、「せめて位置が特定できる埋葬地には、『国の責務』として、日本人が眠っていることを示す墓標の建立をいすぐべきだ」という意見を新聞に投稿するとともに、厚生労働省に同趣旨の申し入れをしました。
 昨年、議員立法で「戦没者遺骨収集推進法」が成立し、「国の責務」として遺骨収集が強化されることになりました。遺骨収集が「国の責務」なら、「骨を拾ってもらえない」抑留犠牲者に敬意を払うのも当然、「国の責務」でしょう。それにしても、戦後70年も経って、遺骨収集が「国の責務」だとはじめて法律に明記されたというニュースには、遺族の一人として正直びっくりしました。
 実は、シベリア抑留者の団体が建立した墓標がいまも各地に残っています。1990年代に埋葬地100か所を目標として、2千万円の募金を呼びかけて建てたものといいます。さらに全員の遺体が収容された埋葬地を除くと、墓標を建立すべき埋葬地は100か所未満と考えられます。
 埋葬地には通常、2桁の遺体が葬られており、中には100体を超える埋葬地もあります。そこに簡素な墓標を建てて欲しいというのは、法外な願いでしょうか。

◆ 戦争責任をどう考えるか

 諸外国の戦没者への対応は、日本政府とはだいぶ違うようです。
 産経新聞のルポによると、たとえばドイツでは、戦争墓地維持国民同盟(VDK)と呼ばれる民間団体が、政府の委託を受けて遺骨収集や墓地の整備・管理をしています。年間予算は4,200万ユーロ(約48億円)で、その3割を政府が支出、残りは約15万人の会員の会費や寄付でまかなわれ、昨年4月現在で45か国837か所の墓地の管理に当たっているということです。
 遺骨収集や墓地の保全に対する国の姿勢は、戦争責任をどう考えるか、ということと深くかかわっています。
 荒涼としたシベリア抑留犠牲者の埋葬地を思い起こすたびに、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや」という寺山修司の歌が胸をよぎります。寺山の父親は太平洋戦争末期、インドネシアのセレベス島で戦病死しました

画像の説明
当時はウォロシロフ(現在の地名はウスリースク)

<私が訪問した埋葬地>
(1)第4865特別軍病院・第1墓地(埋葬地整理番号:5084、埋葬者数:225、うち90体収容)
(2)第4865特別軍病院・第3墓地(埋葬地整理番号:5086、埋葬者数:133、遺骨未収集)
(3)第14収容所・第8支部ウォロシロフ市(埋葬地整理番号:5043、埋葬者数:64、遺骨未収集)
(4)第14収容所・第7支部ウォロシロフ市その1、その2(埋葬地整理番号:5041、5042、埋葬者数:74、遺骨未収集、「日本人死亡者慰霊碑」の石碑あり)
(5)第14収容所・第1支部及び個別労働大隊ウスリースク市(埋葬地整理番号:5112、埋葬者数:94、遺骨未収集、「日本人死亡者慰霊碑」の石碑あり)
(6)第4865特別軍病院・第2墓地(埋葬地整理番号:5085、埋葬者数:270、遺骨未収集、「平和鎮魂 日本人埋葬碑 全抑協会長 斎藤六郎」の石碑あり)

 (岩手県立大学名誉教授)

ー「この記事は著者の許諾を得て「シベリア抑留者支援・記録センター通信」から転載、したものですが文責はオルタ編集部にあります」
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