■落穂拾記(7) 

シーサー「職人」 石川喜進        羽原 清雅

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  蒐集の癖はないが、沖縄・壺屋のシーサーつくり石川喜進(いしかわ・きし
ん)さんの作品は別だ。 筆者は20体余しか持たないが、見て、触って飽きな
い魅力がある。沖縄といえば、思い出されるもののひとつは「魔よけ」のシー
サーだが、喜進作に追いつくものはまずない。

 彼は1920年、那覇のヤチムン(焼き物)の街 壷屋に生まれた。アラヤチ
(荒焼)の窯元の7代目で、9歳の頃から見よう見まねでシーサーを作り、15
歳で家業に入っている。推測すると、250年ほど続いた窯元、といわれるが、
記録は一切ない。陶器を焼く温度で赤く、黒く仕上がる素焼きの「荒焼」は、南
蛮ガーミ(甕)などの生活雑器が一般的で、喜進作のシーサーもそのひとつであ
る。彼は、作家などといわれることを拒み、あくまでも「シェーク(しょくに
ん)」だ、といった。

 喜進さんは沖縄各地に出かけては、古いシーサーを観察して学び、模作をし
た。筆者も、首里にある玉陵(タマウドゥン)の墓陵の塔上に飾られている立像
シーサー2体の模作や、古い絵をもとに造形した龍や虎、あるいは劉備?の像を
持っている。

 シーサー以外で特筆したいのは那覇市75周年に向けて制作、寄贈した「万国
津梁の鐘」を模した高さ55センチの黒釉荒焼の作品は、金属かと思わせるほど
の出来映えだ。鐘の周囲に細かく刻まれた文字は千代夫人が書き、喜進さんが掘
り込んだもので、これは素晴らしい。2基作って、ひとつは喜進宅に置かれている。

 喜進作品のシーサーは総じて、重厚で、威迫するものがある。「魔よけ」にふ
さわしく、睨み、吼えの表情は厳しく、また手足はがっちりと太く、胸など筋骨
たくましく、たてがみはふっさり、尻尾はいかにも勇猛、といった点が特徴だ。
ほかのシーサー作家のものにも、当然このような特徴が示されているが、概して
部分的な強調が目立つ。その点、喜進作品は全体のバランスが格別にいい。風格
というか、品位がある。

 それでいて、どこか親しみある素朴な穏やかさものぞく。類似を避け、一体ず
つ作り上げて、型取りなどの量産は一切しない。シーサーの表情は作者に似る、
とよくいわれるが、たしかに喜進さんの仕事中の厳しい表情を思わせる。彼は、
時折ネコを抱え、床に落としては、その足元をじっくりと見つめる。それがシー
サーに生かされる。一体ごとに、姿態も、表情も、身のこなしも異なる、その風
情がいい。

 戦時中は一兵卒として中国に行き、ヒマを見ては「唐獅子」を探し歩いた、と
いう。伝統文化功労者表彰(文科省)、勲6等瑞宝章、黄綬褒章などを受け、皇
居に千代夫人とともに出向いた時の緊張と喜びは幾度も聞いた。その語りは、壷
屋ことばという独特の方言で、まことにわかりにくい。初めて喜進宅に連れてい
ってくれた政治記者時代の故豊平良一さん(元沖縄タイムス社長)が通訳してく
れて、なんとか理解できたほど。

 それまではシーサーに特別の思いはなかったのだが、豊平さんの手ほどきを受
け、またあちこちの工房などに案内してくれたことが今日の関心に至る発端にな
った。ちなみに、豊平さんの父良顕さんは沖縄タイムス紙の創業にあたり、戦争
で壊滅状態になった琉球文化の再興に尽くされた人物。

 良一さんの実弟良孝さんも相当のシーサー好きで、欲しかった喜進作品を先に
持っていかれた兄貴が悔しがる場面にも遭遇した。余計ながらいうと、良孝さん
は現在のタイムス社長だが、この社に世襲はなく、実力によるたまたまの起用で
ある。

 ところで、シーサーの話に戻るが、沖縄に到着すると、あちこちでシーサーが
目に入ってくる。近代的なビルにも掲げられ、民家の屋根や門柱に飾られ、古く
からの城門や村落の入り口、墓地などにも守護神のように置かれている。琉球石
灰岩を荒削りにしたもの。しっくい(漆喰)をコテで刻んで作った愛嬌のある屋
根のシーサー。陶器、つまりやちむん(焼物)のシーサーなど。

 それぞれに個性があり、なにか語りかけている。観光の土産屋にならぶ逆立ち
など理由もない仕草をしたり、わざとらしくひょうきん、おどけ、あるいは媚を
売ったり、およそ魔よけとはいえないものも多いが、これらは論外である。ま
た、型取りをした量産のシーサーには個性がなく、魅力も乏しい。

 沖縄には、魔よけ、災難、厄よけとして、シーサー以外にも辻々に「石敢当」
と書かれた石塔ないし石標が見られ、また「ヒンプン」という玄関前の遮蔽壁が
立てられるなど、身辺の安泰を願う趣旨のならわしがある。それに、本土にある
ような、しかし形態の異なる「獅子舞」も集落ごとに現存する。これらは生活の
中の、素朴な祈りなのだろう。

 シーサーについては、いろいろな解釈がある。まず、一対でなければならない
のか、という疑問。これは「雌・雄」「阿・吽」の形からすれば、対であるべき
だ、という見方が多い。ただ、喜進さんは「対でもいいが、ひとつでもいい。守
ってくれればいい」と言っていた。

 獅子にはたてがみの有無があり、男根付きや子育てのシーサーもあるので、雌
雄はあるのだろう。また「阿形(あぎょう)」は開口、「吽形(うんぎょう)」
は閉口、が定番なので、これも対である。

 「阿・吽」は、密教では宇宙の始まりと終わりだそうである。また、シーサー
には陰陽の思想や風水の影響がある、という。つまり、陰陽は森羅万象を陰
(暗・冬・夜・女・地・水・柔など)と陽(明・夏・昼・男・天・火・剛など)
の2元でとらえ、また風水は方角や時間などを吉凶禍福を判断する材料にする、
といった点で、中国の影響を受けているようだ。たしかに、シーサーを置く場所
などはあれこれややこしい判断が語られている。

 さて、シーサーの出自はどうか。「シーサー」とは、百獣の王といわれる「獅
子」である。ライオンの生息するオリエントでは、古代エジプトのスフィンクス
(紀元前2500年頃か)があるが、これは怪獣とも、ファラオの顔とライオン
の体を持つともいわれる。メソポタミア地域では有翼のライオンの絵が残されて
いる。

 こうしたライオン礼賛の文化が中央アジアを抜けるシルクロードに沿って、中
国、インドやタイなどにも伝わり、造形や彫刻、絵画などとなって、いまも存在
する。中国にはライオンは生息していないので、「獅子」にまつわる文化はシル
クロードから入ってきたに違いあるまい。

 インドでは、仏の両側にライオンの像を侍らせたので、これが仏教の伝来とと
もに狛犬として伝わった、とも言う。そして、中国には、「唐獅子」がある。置
物や絵画、獅子舞といった舞踊などに使われ、故宮などの王宮や寺社などの屋
根、ひさしには、これも想像による「龍」とともに、小さいながら数匹の獅子風
の装飾具というか魔よけが飾られている。

 そして日本には、朝鮮半島を通じて入ってきたであろうことは、狛犬という名
前からも連想される。つまり、「高麗(こま)」の犬である。想像の動物であ
り、長い歳月や伝播の広い地域を経ることで、ライオンが犬などの形として伝
わったものか。高麗は10~14世紀にかけて朝鮮を支配し、宋、南宋、元時代
の中国との関わりがあって、このルートから日本に伝わったと考えられる。表現
としては、「拒魔犬」とも書かれる。

 漢和辞典によると、「狛(こま)」のけものへんは犬で、オオカミのような獣
をいうので、日本では犬や狼のたぐいの、空想の動物として伝わったのかもしれ
ない。あるいは、獅子とは別の生き物として、同じころに伝来したのだろうか。
本来、日本での「シシ」は、けもの全般、あるいはその肉であり、「いのしし
(猪)」、「かのしし(鹿)」と呼んだ。

 もっとも、「獅子」としての伝来もあるようだ。10~11世紀にあたる平安
中期に、清涼殿(京都御所)に左に獅子、右に狛犬の一対が置かれたといわれ、
かつては無角の獅子・有角の狛犬のセットで寺社などの門前に置かれたようだ
し、そうなると「獅子」もこのころには伝来していたことになる。

 10世紀末の「枕草子」にも、行幸の際などに獅子や狛犬の舞いが行われてい
たことが書かれている。8世紀中頃に出来たとされる正倉院には、獅子頭が保存
されているというが、それがいつ頃に奉納されたかはわからないにしても、日本
に獅子の情報が伝わったのはかなり古いことになる。7~9世紀の遣唐使による
輸入だとすれば、獅子文化の歴史はさらにさかのぼることになるだろう。

 寺社の門前などに一対の狛犬がさかんに置かれるようになったのは、鎌倉時代
(12世紀末から14世紀前半)のころから、とされる。戦乱期を迎え、平安を
願ったのだろうか。また、16世紀後半の文化の花開いた桃山時代には、唐獅子
は屏風、ふすま、衝立などに多く登場しており、一種のブームを呼んでいたとい
われている。

 脇道に入るが、「牡丹に唐獅子、竹に虎」の組み合わせは、獅子は百獣の王、
牡丹は百花の王で、その似つかわしさから、という説がある。唐獅子牡丹の刺青
などは、これからくるイメージなのか。一方、虎は象が苦手で、牙のある象が入
りにくい竹の茂みに隠れるように、獅子は皮や肉に寄生する「獅子身中の虫」が
苦手で、害虫が嫌う牡丹の夜露の下にもぐりこんで寝る、という解釈もあるそう
だ。

 では、ライオンの実物が日本にお目見えしたのはいつごろだろうか。磯野直秀
氏(慶応大名誉教授)によると、日本人初見の「象」は1408年に南蛮船で若
狭(福井県)に到着、「虎」は1575年に明の船で臼杵(大分県)に着いて、
大友宗麟に象とともに贈られたという。だが、「ライオン」がお目見えしたのは
ずっと遅い1865年のことで、明治維新の直前ころに、浅草での見世物に供さ
れている。こうした資料を見る限り、日本人にとってライオン・獅子はそれだけ
長い間、幻想の動物であったのだ。

 それでは、肝心の沖縄の獅子はどのようにして伝来したのか。
  現地の沖縄では、浦添市にある浦添城(うらそえグスク)址の「浦添ようど
れ」という王統の陵墓に残された石棺に獅子像の彫刻があり、これが最古のもの
とされている。

 「ようどれ」とは、琉球ことばで「夕凪」あるいは「極楽」といった意味だと
いう。この石棺の主は、沖縄が北山(北部・今帰仁城)・中山(中部・浦添
城)・南山(南部・大里城、のち高嶺城)の3地域に王国が分立していたこ
ろ、中山を支配した初代の「英祖王」(第一尚氏王統、1259?~1349)
である。

 ただ、墓陵が整えられた時期はわかっておらず、この獅子像は石材や彫刻技術
などから15世紀ころのものではないか、という見方が有力である(長嶺操「沖
縄の魔除け獅子」)。これ以上に古いものがあってもおかしくはないのだが、
17世紀はじめの薩摩・島津軍の侵攻、20世紀中頃の米軍の攻略を受けて破壊
された沖縄で、今後さらにさかのぼるような獅子像は出てくるだろうか。
 
  三山に割拠した国家が統一されたのは1429年で、琉球の中心は首里に移っ
た。シーサーの像はこの王府やその周辺の墓陵、欄干などに多く見られるので、
当初のシーサーは貴族階層中心のものだったことがわかる。

 しかし当然、災厄や戦火から身を守りたいという願いは庶民層に広がってい
く。街角や村里に置かれる。中国の唐獅子にあるように、そして玉陵の塔に飾ら
れたような、毬に足を掛け毬の紐をくわえたり、子どもの獅子を抱えたりする
シーサーが今も残されている。

 この毬は、じつは宇宙で、シーサーが守っているのだ、という人もいる。要
は、多様な守りの主として親しみが込められて今日まで続いたのだろう。屋根に
置かれた漆喰シーサーは、1889年に民家での瓦葺きが許されて以降に登場し
た、と言われるように、時代時代の歴史も感じ取れるのがシーサーである。

 シーサーはオリエントからはるばる、そして幾世紀を超えて、日本にたどりつ
いた。 その旅路の果てである沖縄で、独創の要素も取り入れて開花したのが今
日のシーサーだといえよう。職人の域を超えた、芸術作品に近いものさえ出てき
ているが、やはり生活臭が抜けないところがいい。

 そうしたシーサーにこだわる先達には、無名の多くの職人がいた。島常賀、宜
保次郎、石川喜進、高江洲育男、初期の金城次郎・・・そしていまも、理髪業を
辞めてシーサー作りに徹した大林達雄(小生の好きな造形だが、もうひと苦労が
欲しい)をはじめシーサー一途の人々も輩出してきている。

 ところで、石川喜進さんは2009年7月18日、亡くなられた。88歳。
  その10日ほど前、たまたま那覇を訪れることがあった。昼すぎに喜進さん宅
を訪ねたところ、だれも出てこない。裏口に回ると、ちょっとして喜進さんが現
れた。小さくなって、足元がおぼつかなく、明らかに衰弱していたが、話はいつ
ものように変わらなかった。

 突然のように立ち上がり、2階に向かう途中の壁面に飾られた、1頭のやちむ
んシーサーを板に張った壁掛けを外してきて「あげますよ」。小生に差し出した
のだ。

 じつは、この壁掛けは気に入っており、頒けて欲しい、と10年以上前に申し
出たことがある作品だった。だが、「これはなあ」と断わられたのだったが、覚
えていてくれたのだ。悪いような、嬉しいような奇妙な気分だった。そして帰京
後間もなく、訃報に接した。予想の死であったのだろうか。
 
  この形見のシーサーはいま、わが家の狭い階段に飾られ、筆者を守っていてく
れるような気分でいる。

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 シーサーの話を書くうちに、沖縄でもうひとつの関心である「グスク(城)」
についても書きたくなった。いつか取り上げてみたい。沖縄の城は、海に面した
ところが多く、風光に恵まれ、形状もシャレたもので、まことに魅惑的なのだ
が、観光バスは二、三のところしかあまり訪れない。残念なことである。

(筆者は帝京平成大学客員教授・元朝日新聞政治部長)

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