ジェンダーの平等を目指して(その2)

【アメリカの話題】

ジェンダーの平等を目指して(その2)

                      武田 尚子


 今回は先ず、ジェンダーの役割—その不平等がどうして起きたかを考えることから始めたい。つまり、女性の男性への服従は、いったいいつから、どういう風に始まったのだろう?
 もっとも常識的な答えは、女性の妊娠と出産、子育てに関わる一切の仕事が、しぜん、彼女たちを家内労働の担い手にしたということだろう。

 たしかにそれはもっともなことである。しかし役割の分担がなぜ、女性の劣位を生んだかについては、これだけでは理解できない。
 遊牧民時代に、地球上のある地域では、女性は男性と狩猟や漁撈の行をともにし、重い荷物は女性が運搬することになっていたというではないか。たとえそれが、猛獣など外敵の襲撃から守るために、男性の手をあけておくためだったとしても。
 全ての女性が何時も妊娠や出産や子育てをしているわけではないし、それがジェンダーを分断する役割として定着するまでには、もっとほかの事情があったのではないだろうか。

 この興味ある問題に、膨大な論陣を張った碩学のボーヴォワールは、サルトルと並ぶ、実存主義者である。最近までの人類の歴史を通じて、男性が人間の「主体」であり、女性は彼等からみれば「他者」であったという観点が、ボーヴォワールの実存主義人間観の根底にある。つまり、男性が「人間」であることは説明不要の事実なのであり、男は男であることによって、ちゃんと正しい位置にいる。間違っているのは女である。男は『主体』、『絶対』であり、女は他者なのだ。男はそういい、男の作った歴史はそれを肯定する。

 女性の男性への歴史的な劣位を理解するためにこの稿で私は、その学識と洞察によって、この問題に大きな手がかりを与えてくれたボーヴォワールの見解を彼女の『第二の性』にもとづいて、できるだけ正しく紹介するよう試みたい。

 まず、主体に対して他者であるということは何を意味しているのだろう? ボーヴォワールの説明に従おう。他者という範疇は意識というのと同じくらいに根本的なものである。もっとも原始的な社会、もっとも古い神話のうちにも『同一者』と『他者』の二重性が何時も見出される......それは最初は性の区別のしるしとして創られたものではなく、何ら体験的な材料に起因しているのではない......太陽と月、昼と夜、こういった一対の中に最初は決して女性的な要素は含まれていなかった。ちょうど善と悪、右と左、神と悪魔の対立のようなものと同じである。

 どのような集団でも、自己を一体として認識するときは、必ず他者を自己と対立させるものだ。ある村人にとっては、彼の村に属さぬ全ての人間は(すくなくとも漠然たる敵意をもつと疑われる)『他者』なのだ。黒人はアメリカの民族至上主義者に、原住民は植民地経営者に、プロレタリアは有産階級にそれぞれ他者である。

 それは、社会的現実の基本的な事実そのものであり、もし人間社会の現実が全く相互扶助と友情の上にたつ共存のみであったら理解しがたいことではある。しかし、その反対に、ヘーゲルのいうように、『意識そのものの中に、他の意識に対する根本的な敵意を発見しうる』とするなら、それは明瞭に理解できる。主体は対立することによって自己を立てる。自己を本質とし、他者を非本質的なものと見なして己を確立していこうとするものだから。

 ただ、他者の意識もまた、彼に対して、おなじように相互的に対立しようとする。だが、村と村、氏族と氏族、国と国、階級と階級の間に戦争や取引や契約の有ることが、男女の対立は決して絶対的でないことをわからせてくれる。なぜなら昨日の敵でさえ今日の友でもありうるのだから、男女間での他者という考えは絶対的なものではない。人は自然にこの相互関係の相対性を認めざるを得なくなるのである。

 ではなぜ、男女の間には、このような相互性が認められず、一方のみが唯一の本質的なものとして確立し、其の相互関係の相手には一切の相対性を否定し、相手を純粋な他性と決めつけてしまったのだろう。

 ここで忘れてならないのは、どんな主体であろうと、一気に、自発的に、非本質的なものとして位置づけられるわけではない。主体として自己を立てるものによって、他者は他者と位置づけられるのだ。では他者の身分から反転して主体に立ち戻ることができないというのは、その他者はそのような相手の観点におとなしく従っているということでなければならない。そのような女の従属はどこからきたのかとボーヴォワールは問いかける。

 数量の不平等が、相手のグループを一方的に服従させるケースは、たとえば奴隷制の移入という歴史的な事件の結果として起ったアメリカ黒人の奴隷化のような多数者の少数者支配にみられる。

 しかし、地球上には男とほぼ同数の女がいるのだ。しかも、女はいつも男に従属していた。そしてそれは、たとえばプロレタリアに属する個人をその階級に集める原因となった一つの歴史的な発展の結果ではない。そしてまた幾分は、女が歴史的事実という偶然性から免れているからこそ、この場合の他者性が絶対的なもののように考えられるという。

 時の経過によって創られた有る状況は別の時のうちに解消することもありうる。これに反して、自然な条件は変わるものとは思われない。実際には歴史的事実も自然も、決して動かせない事実ではないのだが、自分の力で本質への復帰という逆転を行わないために、女は自らを本質に復帰できない非本質であるとみなすのだとボーヴォワールは説明する。

 排他的、狂信的な宗派の信者や黒人が、原子爆弾を手に入れて、人類全体を黒人化するとか自宗に組み入れるといった夢を抱くこともあり得よう。女は夢でさえ、男性を絶滅させることを望んだりはできない。彼女を圧迫者に結びつけている絆は他のものとは比較できない。性の区別は生物学的条件であり、男女の対立は根源的な共存のただ中において生まれたもので、それは破れなかった。だから、男女という一対は二つの半分が互いに釘付けになっている根本的な結合である。女は大半は男の生産活動によって命を養ったし、男は女なしには実現し得ない種の存続に共同参加する。性によって社会を分割することは、どんなやりかたにせよ不可能なのだ。

 このことが女というものを基本的に性格づける。つまり女は二つの要素がたがいに必要である全体の中において『他者』なのだ。であれば、女は男と対立はしても、その結果、男が敵対する氏族や猛獣を相手に戦うような解決は求めない。女のおとなしさ、服従性は彼女ら本来のもの、彼女らの性質にふさわしい、生まれながらの自然なのだ、男と女は敵—味方ではなく、女たちはいわば男の共謀者なのだと、男は長い歴史の間、信じてきたようだ。果たしてそうだろうか。

 『雌は性質のある欠如によって雌である』『我々は女の性格を自然的な欠陥に悩んでいるものとして考えるべきである』とアリストテレスはいった。また聖トマスはそれに追随して、『女は出来損なった男』『偶発的なる』存在と定義した。つまり、人間は男なので、男は女をそれ自体としてでなく、自分との関係で定義しようとする。アダムの骨から創られたイブという話が象徴しているように。

 こうした大哲人や聖人を含む古今の賢者による女性観が、男だけでなく、女の精神や心情をも歴史的に支配したであろうことは容易に想像される。

 女は男の奴隷ではなかったとはいえ、男というお殿様の家来並みであった。世界を男女が平等に分け合ったことは一度もなく、女の身分が変化しつつ有る現在でも、法律の上でも、経済の上でも、政治、産業においても女は大きくハンデイキャップをつけられている。(ちなみにこの‘第二の性’は1949年に書かれた—武田)女たちが世界の造形に参加しようとし始めている現在、この世界は未だ男の手にしっかりと握られている。

 『他者』であることを拒否し、男との共謀を拒否することは、女にとってはお殿様階級が与えてくれるかもしれぬ利益をことごとく放棄することになる。お殿様は、自分に献身的な女を保護してやり、世間にむかって引き立ててやったりもしてくれる。それによって女は、経済的な危険を回避するのと同時に、男のように、独力で目的を創って行かねばならぬ自由という危険をも回避するのである。

 実際、個々の人間にはそれぞれ主体として確立しようという倫理的な要求があるとともに、自由を逃げて、自己を物にしてしまおうとする誘惑もあるという。この後者を選ぶなら、その人間は受動的になり、自己の本性を失い、自己でない他の者の意志の生け贄になってしまう。
 しかしまた、これは安易な道でもある。自由を逃げて、独立した、倫理的な人間が引き受けるべき生存の苦悩と緊張を避けてしまえるからだ。

 こうして女は、具体的な手段をもたないまま、主体となることを強く要求しない。自分を男に縛り付けている必然的な絆を感じているからであり、しばしば女はその『他者』の役割を甘んじてつとめてもいるからである。女を他者にしてしまう男が、女のうちに根の深い共謀性を見出すのはこうした理由による。

 ボーヴォワールは、男の直面した自己の超越(註1)という実存の中心問題を女が回避すること、それに関わらぬことによって、女を他者と決めつけた男の尊大を長期間是認したこと、それがそのまま男に、彼等の世界観、女性観は、とりもなおさず女自身との共謀によって築き上げたという正当感を与えたにちがいないいきさつを追求してゆく。

 「(註1)自由の行使を主にして、与えられた現実を超えて積極的能動的に働くことが大切であるとするのが人間の『超越』的なあり方である。ある領域の内部にとどまっていることを意味する『内在』(現在の社会において、女の生活は大体内在的である)にたいして、男のみが超越のあり方、生き方をしているとボーヴォワールはいうのである。」(生島遼一訳‘第二の性’訳註)

 男が女を他者と定義し、そのように扱った理由の一端は、確かに以上の叙述で明らかになったと思う。しかしそれは、未だ全ての事情を明らかにはしない。女を他者にした服従性は、生物学上の雌雄の肉体構造の差異—優劣によるものなのか、あるいは精神分析学の光を当ててみないとわからないのか、さらにいえば、唯物史観に解答を求めるべきなのかと、ボーヴォワールはこれらの数点を概観して検証し、そのいずれも、けっしてこの問題にしかるべき回答を与えないという結論にたどり着く。

 そして、先史学と民俗学の成果を実存主義哲学の光のもとに再検討してみることによってはじめて、男女間に階級が出来上がった事情が理解できるだろうとボーヴォワールはいうのである。

 人間社会の原始状態、ことに農耕期以前の女の状態を想像するのは非常に困難のようだ。今日とはすっかり異なった生活状態の中で、女の筋肉構造や呼吸器が男と同程度に発達していたかどうかさえわかっていない。
 血なまぐさい戦争や復讐に参加して、敵の肝臓にかぶりついたアマゾン女の例もあるほど、頑健な女たちは存在したが、全体として、男の方が、肉体的に優位だったのは事実らしい。棍棒と猛獣の時期には、つまり自然の抵抗が大きく、器具がひどく幼稚だった時期には、男の肉体の優越は最高度の価値を持っていたに違いない。

 一方敵意に満ちた世界での戦いの際に、出産の屈辱は女戦士たちには大きな障害となり、アマゾン女たちは乳房を切り取ったといわれている。つまり彼女らは少なくとも戦士としての生活の期間中は女になることを拒否したことを意味する。

 一般の女についていえば、妊娠、出産、月ごとの生理は労働力を減らす、長い無能期間を強いた。自分や子孫の生活を確保するためには、彼女たちには兵士の保護と、男が従事する狩猟や漁撈の獲物が必要だった、、、、、産児制限もなければ、他の哺乳類のように不妊の期間を自然が保障しているわけでもないので、ひっきりなしの出産に彼女たちの体力と時間の大部分がくわれてしまったはずだ。自分の生んだ子供たちの生命を保障する能力も女にはなかった。そしてこれは非常に重要な第一歩であり、ここからいろんな結果が生まれてくるとボーヴォワールは続ける。

 先ず女は不合理な多産で、男の厳しい労働で得られるわずかな漁撈や狩猟の産物の消費に参加しても、生産と出産の均衡を維持する男の力はない。だから、女は創造者たる男性に対抗するのに、生命を維持する特権すら認められていなかった。

 原始社会では絶え間なかった嬰児殺しや生け贄、さらには戦争で、生産と出産の均衡は保たれるのだから、集団の存続という観点から、男と女は同じ程度に必要である。食料が豊富だった有る時代には、保護者—養育者としての女の役割が男を母なる女性に隷属させたことがあったとも考えられる。動物の雌のうちには、母になることによって完全な自主性を手に入れるものもいる。

 では人間の女はどういうわけで自主性を勝ち得なかったのだろう....人類が、資源を開発すべき人手を求めて、猛烈に出産を求めていたときですら、また母性がもっともあがめられていたときですら、女は母になることによって第一位を獲得することはなかった。

 その理由は人類は単なる自然的な種ではないということである。それは種として自己を維持しようとしているのではないからだ。
 人類の目的は停滞ではなく、それが目指しているのは自己を超越することなのである。

 原始的遊牧民には永続の考えはなく、後世のように、子供の内に自己を認めなかった。死を恐れず、相続者を求めなかったから、子供は負担にこそなれ財産にはならなかった。遊牧民族では子殺しは常に有り、殺されなかった嬰児も、ケアの冷淡さから多くが死んで行った。だから子供を産む女も創造の誇りを知らず、苦しい出産は祝うどころかよけいな負担を生む出来事であった。

 妊娠したり、授乳したりすることは生活活動といえない自然的な機能であり、どんな企画も入っていない。自分の生理的宿命に受け身に支配されている女は、そこに自己を超えた未来を築きうる、自己の実存を強く主張する動機を見出さない。母親のつとめと両立する唯一の仕事として押し付けられている家庭の仕事は、彼女を反復と内在のうちに閉じ込める。何一つ新しいものを生産しないまま、同じ形のもとに毎日何世紀も反復されてきた仕事に。

 男性の場合は根本的に違っている。彼は単なる生命衝動によって、働き蜂のように集団を養うのではなくて、彼の動物的条件を超越する行為によってそうするのである。

 生産者たる人間 Homo Faber は原初からして一個の発明家であり、果実をはたき落としたり、野獣を撲殺するために腕に帯びている棍棒や丸太棒は、早くも彼が世界に対する支配を拡大する道具である。
 彼は海底の魚を家に持ち帰るだけではない。先ず丸木舟をくりぬいて彼の領域を征服せねばならない。世界の富をわがものにするために彼は世界そのものを併合する。其の行為によって自己の力を証明する。彼は目的を設定し、其の目的に向かって道をひらく。彼は現在からはみ出し、与えられた世界を維持するために働くだけでなく、新しい未来の礎石を投じるのである。

 彼の活動はもう一つの次元をもっており、それが彼に至上の尊厳を与える。つまり、それにはしばしば危険が伴うということだ。
 狩猟者は屠殺者ではなく、野獣との争いに彼は危険を冒す。戦士は集団や自分の氏族の栄光をますために自己の生命をかける。そうすることによって彼は、生命は人間にとって最高の価値でなく、生命はそれ自身よりもさらに重要な目的につかえねばならないことを華々しく証明する。

 女性の上にのしかかっている最悪ののろいは、彼女がこうした華々しい働きからのけ者にされていることである。人間が自分を動物の上に高めるのは、生命を産むことによってではなく、自己の生命を危険にさらすことによってである。人間のなかで産む方の性でなく、殺す方の性に優位が与えられているのはそのためである。

 “われわれはここに一切の秘密を解く鍵を握っている。生物学面では、種が自らを維持するのは新たに自らを創造することによってである。だがそういう創造は同じ生命の繰り返しにすぎない。男性は実存—つまり、生命を超越することによって、生命の繰り返しを手に入れる。この超越によって、彼は繰り返しから一切の価値を奪う新しい価値を創造するのである。
 では動物の場合はどうか? バラバラな雄の行動は何らの計画も目的ももっていないから、種に役立っていないときは彼のなすことは無益である。
 一方人間の雄は世界の外面を形創り、新しい器具を創造し、発明し、未来を築いてゆく。支配者として立ちつつ、彼は女の中に共謀者を見出す。なぜなら女もまた実存者であり、超越を宿しており、其の目標は繰り返しではなくて、別な未来に向かっての超越であるからだ。

 彼女は自分の存在のうちに、男性の主張を肯定することを知るのである。男の成功や勝利を祝う形で彼女は自分を男性に結びつける。しかし彼女はこれで全く満足しているわけではない。なぜなら、女は生物学的に生命を繰り返すように運命づけられていながら、彼女の目には生命はそれ自体では存在意義をもつように見えない、そしてその存在意義の方が生命そのものよりも重要に思えるからである。

 そこで女性の方も、男性が開く未来の方に向かって自己を超越しようとする。実際には女性はこれまで全く雄の価値に対して、雌の価値で競合を図ったことはない。男性の特権をあくまで維持しようと望む男たちが、女性固有の領域—生命と内在の領域—をつくりだして、女をこの中に閉じ込めようとしたのである。

 けれども実存者たる人間は一切の性別をこえて、超越の運動のうちに自己の正当化をもとめる。女性が今日要求していることは、実存を生命に、人間をその動物性に服従させることではない。男性と同時に実存者として認められることなのだ。

 “実存主義的観点はこのように原始遊牧民の生物学的、経済的状況が男性の優位をもたらさざるを得なかった事情を明らかにしてくれる。雌は雄以上に、種の犠牲になる。人類は絶えずその種としての運命から逃れようとしてきた。鍬や鋤、あるいは青銅器の導入によって、生命を維持する新しい天地を開いた男たちの行為は、彼等にとって活動と企画になった。一方、女は動物として子供を産む行為のうちに、依然として肉体に釘付けにされたままだった。

 男性が女性に対して支配者として立ったのは、人間は自己の存在に疑問を抱く、つまり生命よりも、生きる理由の方を選ぶことにある。人間の企画(註2 投企)は、時間の中で自己を反復することでなく、その瞬間を支配し、未来を形創ることだ、、、、、、、。実存そのものを価値に作り上げたのは男性的活動だ。それは生命の混沌とした力に打ち勝ち『自然』と『女』を屈服させたのである...

 「(註2)人間は自らに疎遠な世界の中におかれている。つまり、人間自身の目的すなわち善を見出し得ない世界に投げ出される必然のもとにある。こういう世界におかれながら、自由に善を選ぼうとする人間は、いわば誰によってとは知らずに世界の中に投げ出されているのである。それを被投性という。そしてこういう必然性や孤独にも関わらず、やはり人間の持っている『自由』の方を、反対に投げ返すことを『投企』という。投げられながら投げ返すこと、つまり、『被投的投企』が人間のあり方である。(生島遼一訳‘第二の性’訳註)」

 ここからボーヴォワールは、少し前に触れた鋤や鍬や器具の出現が、遊牧民族を定住させて農耕社会を生んだことを述べる。それは大地という自然にたいする人間の力の勝利の一部に違いない。
 それまでの遊牧民社会には、制度など皆無であったし、財産もなければ、相続人もなければ、法律もない。一夫多妻も、一妻多夫も、近親結婚もまかり通っていた。宗教も中性的で、何らの性をもたぬトーテムがあがめられていた。

 しかし人間が一つの土地に定住することによって、人々はその土地の専有化を実現する。集団的形態のもとに財産が出現する。財産はその所有者に子孫を要求する。母性は一つの神聖な機能になる。それは農業共同体の中でしばしば女のもつ異常な権威を説明するという。

 瞬間しか存在しない遊牧民族の概念のかわりに、農耕共同体は過去に根をおろし、未来を併合する生命の概念を持つようになる。
 氏族の全員に名前を与えているトーテム的祖先を崇敬する。そして氏族は、子孫に伝え、子孫が開発する土地を通じて存続すると信じられる。その共同体は、現在をこえた未来に統一を考え、自己の実存を望む。子供たちのうちに自己を認め、子供たちを自己のものと認め、子供たちのうちに自己を完成し、自己を超越するのである。 

 多くの原始民族は、子供の出産に父親の演じる役割を知らなかった。子供というものはどこか神聖な場所にさまよっている先祖の霊が女の体内におりてきて化身した者だと考えていた。その他の民族はそれが鼻の穴からでも口からでも行われると考えていた。

 はっきりしていたのは、子供の出生に母親が必須なことである。彼女は自分の体内に精子を保存して育成する。だから氏族の生命は彼女によって伝搬されるので、母は最重要の役割を演ずることになる。たいてい、子供は母親の氏族に属し、その名前を名乗り、とりわけ、その氏族が所有している土地を自分のものにする。こうして共同体の財産は女性によって伝えることになる。女性の手によって田地や農作物は氏族の各員に配られる、各員はその母親によって、それぞれの土地に結びつけられるのだ。

 そこから、神秘的に大地は女性のものであるという考えも起ってきて、女は畑およびその実りに対して宗教的で同時に法的な権力を持つ。大地と女性を結びつける絆の緊密さは、その両者を全く同化させる母権制度を産んだ。
 遊牧民の間では、出産はほとんど偶然事としかみられず、また土地の資源も知られていなかった。ところが農耕者は、畑の畝や、土地に実を結ぶ農耕の神秘に驚嘆する。

 そして人間が畑の繁殖力を永続させることによって種族を永続させてゆくことを望む。大地は母親である。そして女性には大地と同じ不可解な力が宿っている。自分の体内に祖先の霊を呼ぶことができるのだから、彼女はまた種をまいた畑から果実や作物を実らせる力を持っているというわけだ。そのいずれも、創造的な行為ではなく、魔法的な力によると信じられる。

 この時期には人間はもはや大地の産物をかき集めるだけにはとどまっていないが、未だ自己の力を認識していない。技術と魔法の中間でためらい、自分が受け身で、存在と死をでたらめに振りまく自然の意のままであるように感じている。

 男が狩猟や漁撈のために外で働く間、女は家にとどまり、菜園程度の畑を耕しもした。そろそろ出現しはじめた家内工業もまた女性の仕事であり、彼女たちは敷物や布団を創り、陶器をこねる。商品の交換も司るので、商業は彼女たちの手中に収められていた。これら女たちの労働と魔術的な力によって氏族の生命が維持され広められるのである。こうして子供も、家畜も、農作物も、道具も、彼女たちを中心にする集団の繁栄の一切は女にかかっている。これほどの威力は男たちに女に対する畏怖と尊敬を抱かせる。

 女性擁護者の耳にはなんという心地よい音楽であろう。さらにみてゆくなら、バビロニア人の間では女性は男性とともに宇宙の混沌を表す二重の化身である。クレート島の発掘品のなかからは天国の女王である女性像がいくつも発見されたが、鳩がその象徴である。彼女はまた地獄の女帝でもあり、その象徴である蛇が、そこからはい上ってくる。至る所で彼女は生命を創造する。たとえ殺すにしても復活させる。自然と同様に気まぐれで淫らで、情深く同時に厳しく、全西アジアに君臨した。ほかにもいくつもの例があるが、ここでは省く。

 天国と地獄の遥かな国々で最高の神である女性は、この地上でもあらゆる神聖な存在同様にタブーによって取り囲まれ、彼女自身タブーになる。彼女らの持つ不可解な力のために、魔法使いや妖術師、祈祷師とみられるし、女僧と見なされることもある。場合によっては部族の政治に参与もする。が、遠い昔のことで何一つ文献が残っていない。しかし、大家長主義時代は神話や遺跡や伝説のうちに、女性が極めて高い地位を占めていた時代の思い出を残している。

 以上のようなことから、原始時代にほんとうに『女』の天下が存在したことが有るという想像が生まれた。ところがこの女性の黄金時代なるものは、実際には一つの神話にすぎないとボーヴォワールはいう。

 大地であろうが、女神であろうが、母親であろうが、女はけして男にとって同類ではなく、「他者」であった。ということは両性の間に対等の関係が存在していなかったことを意味している。女の具体的状況は、彼女の所属する氏族の相続制度の影響を受けない。その制度が父系だろうと母系だろうと、あるいは両系だろうと、女は男と対等ではなく、女の権威が確立されたのは人間の領域の彼方であり、魔術めいた女の権威はこの地上の外にあったわけだ。男はたえて彼自身の権威を放棄したことはなく、人間社会は常に男のもので、政治権力も常に男性の手中にあった。

 その事実をさらに裏つけるのは結婚における不平等である。
 『結婚の基礎となるべき対等関係は男と女のあいだにうち立てられずに、男同士の間に女を手段として打ち立てられ、女は其の関係の主要な機会になるだけだ。(レヴィ=ストロース)』

 彼女の所属している社会の相続制度に関係なく、女は常に男性—父親または長兄の権威—の後見の元に置かれている。結婚後はこの権威が夫に移る場合も父系に残される場合も有る。彼女は権利の媒介者にすぎないので、其の保有者ではない。相続制度によって定められるのは男の二つの集団の間の関係であって、二つの性の間の関係ではない。

 農耕社会は私有財産を生み、遊牧民社会になかった制度や法律も出現させたことは既に述べた。女の優位を約束したかに見えた母権社会は、これ以後地域によって様々な相続制度そのほかによって、完全に男の権威のもとに復してしまう。
 次回ではここから考察をつづけることにして、ひとまず筆を置かせていただく。

 (筆者は米国・ニュージャーシー州在住・翻訳家)

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