ジェンダーの平等を目指して(5)

ジェンダーの平等を目指して(5)

【アメリカの話題】

ジェンダーの平等を目指して(5)

                       武田 尚子

■機械主義の出現と女性解放

 機械主義の出現は、土地不動産を廃らせ、労働階級とそれにしたがう女性の解放をもたらした。全て社会主義は、女を家庭から奪い去る事によってその解放を容易にする。例えば共有財産制を夢見たプラトンは、スパルタと同じ自由を女性に約束している。万人の協力というサン・シモン流の思想は労働者も女性も含める全ての奴隷制度の廃止を要求した。フーリエは情熱の欲求にしたがう自由を万人のために要求し、結婚を廃して、かわりに恋愛をもってこようとした。

 『新女性』という新聞が短期間刊行され、その後小雑誌が多数続いたが、その主張は皆内気なもので、女性の解放よりも女性の教育を要求した。しかし女性を男性に対立させ、直感や感性を認めて理性を認めない教義は女性を不利にする結果をも生んだ。1848年には女たちが集会や新聞を創立し、女性代表団はパリ市庁へ押し掛け、<女性の権利>を要求したがなにも得られなかった。1849年にはジャンヌ・ドワコンが代議士に立候補しキャンペーンを展開したが、笑いぐさにされた。異様な服装をして練り歩いたブルーメリストの運動も一笑に付された。

 この時代のもっとも知的な女たちはこうした運動の圏外にとどまっていた。例えばスタール夫人は仲間の女よりも、自分自身の立場のために戦ったのだった。ジョルジュ・サンドは自由恋愛のために権利を要求したが、<女性の声>への寄稿は拒絶した。フロラ・トリスタンは女性による民衆の解放、さらに労働者階級の解放に、より強い関心もっていた。だがダヴィド・スターンやジラルダン夫人は実際に女権運動に協力した。

 全体として、19世紀に展開された改革運動は平等のうちに正義を求めようとしたもので、女権運動にとっても有利だった。しかし社会主義者プルードンは顕著な例外だった。それまでは女権運動に対する攻撃は保守主義者によってなされてきた。保守主義者は社会主義をも向こうに回して戦ってきたのだが、プルードンは女性解放運動と社会主義の連携を断ち切ってしまった。『正義』と題した著作の中で彼は、女は男に頼らねばならいと決めつけた。社会的個人としては男しか認めない。

 彼は夫婦の間には平等を前提とする協力はなく、単なる結合が有るだけだとする。女は男よりも劣っている。先ず第一の理由としては、女の肉体力は男の2/3である。女性は次に知能と情操の両面で同じ比率で男に劣っている。従って、合計すれば、女の価値は男の3×3×3に対する2×2×2という割合になり、すなわち8/27だという。

 二人の女性が応答したのに対して、プールドンは『娼婦政治、別題、近頃の女性』という一文で反駁した。男性の奴隷であり鏡であるような<まことの女性>に対しては熱烈な賛美を捧げたにもかかわらず、彼は自分の妻が彼の理想とするような女の生活によって少しも幸福になれなかった事を認めざるを得なかった。プルードン夫人の残した手紙はただただ悲嘆の連続であったという。

■労働者の解放と女性解放

 これらの理論上の争いは、実は現実の事態の消極的な反映であった。女性は家庭を出て、工場で生産に参加し始めたために、前史時代以来失っていた経済上の力を取り戻すことになった。男女間の肉体力の差は、機械による一大変革のおかげで、絶対的な問題にならなくなった。工業の急速な進歩は、男の労働によって供給されるより遥かに大きな労力を要求するため、女の協力が必要になったのだ。これこそ、19世紀において女の境遇を変え、女のために新たな前途を開いた一大革命であった。

 マルクスとエンゲルスはその重大な意義を認めて、プロレタリアの解放によって必然的に導かれる解放を女性のために約束した。エンゲルスは女性の身分が私有財産の歴史と密接に結びついている事を示した。母権制度を父長制度に変え、女性を世襲財産に隷属させるような不幸が過去にあったが、産業革命はこの失墜の回復でありやがては女性の解放にまで到達するであろうと。

 しかし19世紀初期には、女は男性労働者よりよほど惨めに搾取されていた。ジュール・シモンは<女工>の中で、さらに保守派のルロワ・ポーリュまでが<19世紀における婦人労働>の中で忌まわしい酷使の例を訴えている。おまけに間もなく、彼女たちには、工場以外では針仕事か洗濯か掃除か、いずれも飢え死にするような奴隷仕事しか残らなくなった。レースや用品雑貨まで工場にさらわれてしまったのだ。女は特に、製糸と紡績の仕事に使われた。『女工の方が仕事はよいし、賃金は安い』と工場主はしばしば女工を好んだ。『この悪辣な文句は女性労働の悲劇を明らかにしている』とボーボワールはいう。なぜなら、女は労働によって人間としての尊厳を明らかにしたが、その獲得は途方もなく苦しく暇がかかったからだ。

 女工は夏は早朝の3時から夜遅くまで、冬は朝5時から夜の11時まで、つまり17時間は『日の光も差し込まない、時には不潔な工場の中で働いている。』こういう若い娘は見習い期間も終わらぬうちに胸を患う。その上、監督が若い女工に身勝手な事をする。『目的を達するためには困窮や飢餓をも利用した』と<リヨン事件の真相>の著者は記している。

 女工の状況は惨めを極めたため、ブランキ他は女性が工場へ近づくのを禁止している。女性は最初、組合を作ることを知らなかった為に搾取されるままになっていたのだ。女の組合が初めて作られたのは1848年だった。その後この運動はのろのろと発展してゆく。

・1905年:組合員総数(A)781,392人に対して、女子の数は (B)69,405人
・1908年:     (A)957,120人           (B)88,906人
・1912年:     (A)1,064,413人

 1914年から18年にかけては、人的資源の危機と世界大戦の危機が労働可能年齢(18歳-60歳)の女性を農業、工業、商業、銀行、保険事務所、自由業に雇わせた。小ブルジョワジーのみならず、中ブルジョワ女性も、思い切って後につづいた。
 1920年には、工業と農業で働いている組合員労働者の総数3,076,585人のうち、女子組合員は20,2000人しかいない。

 新たに開かれた可能性を前にしながら、彼女たちがかくも不活発で動こうとしないのは、あきらめや服従の伝統と、連帯責任と集団意識の欠如によるのだと、ボーボワールは評している。

■女子労働法の出現

 当然、女子労働はなかなか法規化されず、法律が干渉するためには1874年まで待たねばならなかった。そのときでもなお、女子に関する規定といっては二つだけしかなかった。

 その一つは、未成年の女子の夜業を禁じ、毎日曜日および一般休祭日に休暇を取らす事を要求している。一日の労働時間の制限は12時間である。21歳以上の女子については鉱山や石切り場での坑内作業を禁じているだけだ。
 最初の女子労働法が制定されたのは1892年11月20日で、夜間作業を禁止し、工場での一日の労働時間を制限している。
 1900年に、一日の労働時間は10時間に制限された。
 1905年に、一週目ごとの休暇は強制的になる。
 1907年に、女子労働者は自分の収入を自由に処置できるようになる。
 1909年に、妊婦に有給休暇が保障される。
 1911年に、1892年の規定が、強制的な効力を発する。
 1913年に、分娩前後の女子の休暇に関する細目が決められ、危険な、あるいは過重な仕事が禁じられる。
 こうして徐々に社会法規が作られて行って、国際労働局は、出産時の休暇を始め、女子労働の衛生上の諸条件に関する取り決めを作る事に成功した。

■女子労働の低賃金

 女子労働者のあきらめと無力の二つ目の結果は、低賃金に甘んじた事である。女子の要求は男子のそれより小さいためばかりでなく、むしろ、女は搾取者に対して抵抗するすべを知らなかった。

 さらに女は、夫婦共同体の存続している社会の中で労働による自己解放につとめている事があげられる。父親や夫の家庭に結びついている女性は、たいてい小額のポケットマネーをもたらす程度で満足するので、女の収入は、雇い主にとって好都合な水準に落ち着く。1889年から93年にかけて行われた調査によると、男子と等しい一日の就業時間に対して、女子労働者は男子の半分の俸給しか得ていない。アメリカでも、1918年には、女は男の俸給の半分しかとっていない。同じ頃ドイツでは、炭坑から掘り出す同一量の石炭にたいして、女は男の24%弱しかとっていない。

 雇い主たちは女子を低賃金のために歓迎したが、それが男性の側からの抵抗を呼び起こした。プロレタリアの利害と女性のそれとの間には直接な連帯関係はなかったのだ。ある社会の非圧迫少数者たちはその所属している階級全体に対する武器として圧迫者の手で利用される。そのため、最初は敵同士の様相を帯びる。女性が組合の生活に組み入れられたとき、初めて女性は自分自身の利益を守り、しかも労働階級全体の利益を危険にさらさずにすむようになったのである。

■産児制限

 もうひとつ、女の事で常につきまとう根本問題の一つは、その生殖の役目と生産の仕事をどう調和させるかという事である。歴史の最初に、女が家庭に縛られ、世界の建設に参加を禁止された理由の根本は、女には生殖作用が有るという事だった。動物の雌の場合は、発情期および季節の周期があって、雌の体力が節約される。しかし人間の女では、適齢期から更年期までの間、受胎能能力が制限されない。文明によっては、妊娠と妊娠の間に最小限2年の休息が女に与えられるインドの部族もある。しかし全体としては、何世紀もの間、女の出産は調節されなかった。

 既に古代から、主に婦人の使用に供される錠剤や座薬などの避妊手段が存在していたが、それらは娼婦や医者だけに知られていた。頽廃期のローマの女性もおそらくこの種の秘密を知っていたろうが、中世には全く知られず、18世紀までその痕跡は皆無だという。多くの女性にとって、当時の生活は休みない妊娠の連続であったろう。時期によって人類は人口を減少させる必要を感じたこともあった。しかし国家は衰弱を恐れた。

 フランスで、マルサス主義的な傾向が発達するのは18世紀である。先ず最初は裕福階級、ついで国民全体が、子供の数を制限するのが合理的と考えるようになる。避妊手段が風俗の中に入り込みだす。アングロサクソン諸国では<産児制限>が公に認められ、従来不可分であった二つの機能、性的機能と繁殖機能を分離させうる多くの方法が発見された。

 堕胎は、どこの国でも、公に法律で認められてはいない。ローマ法は胎児の生命は母体の一部とみていたので、胎児に保護は与えていない。衰退期には堕胎は正常の手段と思われ、立法者は出産の奨励を望んだときも、それをあえて禁止しようとしなかった。東欧やギリシャ、ローマ時代の文明全体を通して堕胎は法律で許されている。

■キリスト教と堕胎

 胎児に魂を与える事によって、この問題に関する道徳観を覆したのはキリスト教である。以後、堕胎は胎児そのものに対する犯罪となった。
 『自分に産めるだけの子供を産めぬようにする女性は皆、それとおなじ回数の殺人を犯すことになる。妊娠後に自分の肉体に危害を加えようとする女性も同じ』と聖アウグスチヌスはいった。嬰児殺しを実行していた蛮族(ローマ人以外の民族)の間では、堕胎は母親の意向に反して強行されたときだけ罰せられた。

 だが、初期のキリスト教会はこの<殺人罪>に対してもっともきびしい刑罰を定めた。いったいいかなる時期に魂は肉体に入り込むのか? 聖トマスほか多数の神学者は、入魂期を男児の場合は40日ごろ、女児の場合は80日ごろと定めた。中世期における悔罪書の説明はこうだ。『妊婦がその胎児を45日以前に滅ぼしたときは、その女は一年の悔罪を負わされ、60日経っているときは3年。もしその子供に魂が既に入っているときは、その女は人殺しとして扱われるべきだ。』但し書きが有る。『養育の困難のためにその子を滅ぼす貧乏な女と、姦淫の罪を隠すことのほか堕胎目的のない女の間には甚だしい差が有る』と。

 1556年にアンリ2世は妊娠の隠匿に関する名高い勅令を発した。単なる隠匿でも死罪で罰せられているところから、堕胎には当然死罪が適用されただろう。その通り、この勅令は実は嬰児殺しを対象にしていたのだが、この勅令を盾に取って堕胎の主犯と幇助者には死刑が発せられることになった。魂の入った胎児と入らない胎児の差別は18世紀頃に消滅した。

 その世紀の末に、フランスで大きな影響のあったベッカリアは子供を拒否する女性のために弁護をした。1791年の法典はそういう女を許しているが、その共犯者は<20年の鉄鎖>で罰している。堕胎が殺人であるという考え方は18世紀になると消滅しそれはむしろ国家に対する犯罪とみなされた。

 1810年に 法律は堕胎者およびその幇助者に対して禁固と懲役の刑を定めて、堕胎を完全に禁止した。だが、その法律がきびしすぎるために、陪審員たちはその世紀の末頃にはこの法律の適用をやめてしまった。逮捕された例はごくわずかであり、かつその8割方は無罪放免された。
 1923年には又新しい法律ができて、手術の幇助者および施行者に対して懲役を定めた。しかし当の女には禁固か罰金刑しか課していない。
 1941年には、堕胎は法律によって、国家治安にたいする犯罪と決められた。イギリスではこれは重犯罪で有り、禁固か懲役が課される。そのほかの諸国では軽犯罪である。法律や法廷は全体として堕胎した女自身に対してはその幇助者たちより遥かに寛大な態度を示している。

 ところが、教会のきびしい態度は少しも緩んでいない。1917年に発布された教会法は次のように宣告している。『堕胎を目指すものは、母親も例外なく、一度その実をあげるときは、無宣告の破門を受ける』理由は一切とりあげられず、母親の身に死の危険の有る事さえ考慮に入れられない。法王は最近(*)さらに、母親の生命と子の生命では前者を犠牲にすべきだと宣言した。いかにも、母親は洗礼の功徳で昇天できるが、胎児の方は永久冥府におちるのだから!
 (*)おそらく1950年頃

 宗教や法律で禁じられているにも関わらず、堕胎は全ての国ぐにで相当なものになっている。フランスでは出産率とほぼ同数の堕胎が行われ、それをする女性は既に子持ちの既婚婦人が多い。偏見や反対や旧式な道徳の存在にも関わらず、無方針な出産から、国家や個人によって統制された出産への移行が実現されてきた事がわかる。

■進化し始めた女の状況

 アメリカでは既に一般化している麻酔による出産の苦痛の軽減は、1949年にイギリスでも法令化され、フランスでも普及してきた。人工授精によって、人類は生殖機能を制御することもできるようになった。いまでは女性は妊娠の回数を減らし、その奴隷になるかわりに、それを自分の生活に調和させることができる。19世紀の間に、今度は女性が自然から解放され自己の肉体の制御を獲得したのである。

 女の状況は生産への参加と繁殖の屈従からの解放のおかげで進化しつつある。女性の社会的また政治的な身分が変化するのは必然であった。フランスではコンドルセー、イギリスではメリイ・ウールストンクラフトによって、その著『女権の擁護』の中で糸口をつけられ、世紀の初めにサン・シモン派に受け継がれた女権運動は、具体的な地盤が欠けていた間は目的は達成できなかったが、今日では女性の権利要求は全体として認められている。

 可動資本によって、その所持者はこれまでのように財産に所有されるかわりに、一方的にそれを所有し処分する事が可能になる。女は世襲財産を通して夫に結びつけられていた。だから、世襲財産が廃されれば、夫婦はもはや一対一であり、集団に対して個が確立される。これはアメリカにおいて特に顕著であり、かの国では離婚がさかんに行われている。

 フランスでは農村人口が重要な部分を占め、ナポレオン法典によって結婚した女が夫の後見下に置かれているので、進歩は遅々たるものだ。それでも1884年には離婚制度が定められ、夫が不貞をおかしたときは妻が離婚を請求できることになった。しかし不貞は妻のおかした場合にしか犯罪にならない。1912年になって、私生児を父親に承認させる権利が認められる。

 結婚した女性の身分が改正されるためには、1938年と42年を待たねばならない。その年になって服従の義務が廃された。だが父親は依然として一家の長である。後見の権利は1917年にようやく廃止された。ただ、妻は適当な理由がある場合には夫の選択に対して反対することができる。妻の権利は拡大したのだ。が、『結婚した女性は全面的な権利能力を所有する。この能力は結婚の契約と法律による以外の制限を受けない』という、筋のとおりかねる文句の中で、条項の後半は前半を裏切っている。夫妻の平等は未だ実現されてはいない。

 (筆者は米国ニュージャーシー州在住・翻訳家)


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