ジャングルの中の秩序-経済と法による統治

■海外論潮短評(10)                   

ジャングルの中の秩序 - 経済と法による統治    初岡 昌一郎

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◇ジャングルの中の秩序 - 経済と法による統治


  1980年代後半からの20年間は、先進国における構造改革と開発途上国における
構造調整が経済政策の中で主流化していた。その大合唱は、世界銀行や国際通貨
基金(IMF)など国際金融機関によって先導されたものであった。いずれも、世
界的な単一市場を創出することを意図するもので、グローバル化への障壁を除去
することを目指していた。関税などの障壁撤廃や金融の自由化が政策上の大きな
柱であった。しかし、それだけにとどまらず、国家の資産を民間資本に安売りし
、公共部門を民間資本、特に多国籍企業に開放させることが意図されていた。
  こうしたグローバリゼーションを促進する方向は政策的ガイドラインを設定す
るにとどまらず、国際金融機関や先進国はその融資や援助を行うための条件とし
て押し付けてきた。
  今日、国際的な格差拡大がますます拡大すると共に、多くの開発途上国におい
て公共部門とパブリック・サービスの解体が進行している。これまですでに多額
の援助が数十年間にわたり注ぎこまれてきたのにもかかわらず「国家の解体状況
」(フェイルド・ステーツ)はますます増加している。途上国援助はその額の多
寡だけではなく、その質と援助のあり方自体が鋭く問われるようになっている。
  OECD(経済協力開発機構)などは、援助の効果を失わせる人為的障害の主要な
ものとして「政治腐敗」をとりあげるようになってきた。これには、受け手であ
る開発途上国だけでなく、供与する側の先進国にも問題があるとされている。
  こうした状況のなかで、近年大きな国際的スローガンとして登場してきたのが
「法による統治(ルール・オブ・ロー)」である。法にもとづく統治なしには、
経済的発展と社会的開発が定着しないとする考え方にもとづいている。
  ロンドンの『エコノミスト』誌(2008年3月15日号)は、その解説欄に表記の
論文を掲載している。“エコノミクス”は経済学と通常は訳されるが、アカデミ
ックな学説というよりも広義の経済論を指していると思われるので、ここでは単
に「経済」と紹介しておく。以下は要約というよりも、同誌のいくつかの要点で
、評者の興味をひいた部分である。


◇「法による統治」の経済効果


 法による統治は、これまで法学や政治学の分野に属するとみられていたが、今
日では経済学でも主要なテーマとなった。法による統治は公正な社会を育成する
ので、それ自体が目的であり、価値のあるものだ。しかし、その経済的効果がこ
こ10年来、経済学の対象となってきた。「法による統治」が突如として経済学的
関心を集めるようになったのは、1990年代初め頃からである。
  それには、二つの大きな経済的崩壊が契機となっている。その一つは、旧ソ連
圏諸国の経済的崩壊、二つ目はアジアの経済金融危機である。
  1980年代の経済思想を牽引したのは、いわゆる「ワシントン・コンセンサス」
であった。これは「政策を正す」ことによって経済成長を達成するという、構造
改革や構造調整策であった。しかし、97-98年のアジア経済危機はエコノミスト
達の信念を揺るがした。その中から得た教訓は、正しい政策も制度的な裏付けが
なければ成果を生まないということであった。
  そこから「法による統治」論がにわかに経済政策担当者達の注目を集めること
になった。この結論は、旧ソビエト圏の出来事によっても裏付けられた。たとえ
ば、世銀研究所のグローバル・ガバナンス研究チーム主査、ダニエル・カウフマ
ンは「ウクライナに行ってみてショックを受けた。法による統治の不在がすべて
ものをダメにしていた」と述べている。経済活動のレベルが同一であれば、法に
よる統治がその国富効果に3倍の差を生むという理論が、インドとチリ、ポルト
ガルとモロッコ、南アフリカとスペインなどの比較研究から生み出された。


◇開発の法による統治


 「法による統治」を実行するためには、多くの国で改革が必要とされる。法規
の整備だけではなく、司法の独立性を確保することも重要なカギである。警察や
裁判所の改革やその要員の訓練、司法機関の説明責任、刑務所の近代化などが必
要とされる。
  EUが全加盟国に法による統治の基準を満たすように求めているように、国際
的な最低法律基準の設定とその順守が求められる。
  西欧諸国は、法による統治プロジェクトに巨額の資金を注いでいるし、世銀も
同様なプロジェクトに4億5000万ドルを投入している。法による統治のための支
援はいまや国際援助の主流となってきた。
  開発経済専門家は、法による統治に“広義”と“狭義”の定義を与えている。
広義の定義では、公正な社会の核として“法による統治”を扱っている。法によ
って統治されている国家とは、権力が法によって制御されており、言論や結社の
自由という基本的人権が保障されているところである。この広義派の理論には、
法による統治の要因として政治の道義性を加えているハイエークも入るとされて
いる。
  狭義の定義はより形式的な論理である。重要なのは民主主義や政治倫理ではな
く、財産権の確立や司法の効率的運用が重要な課題とされている。
  法による統治について定義が食い違うことが、その理論の有効性に疑問を生む
。法による統治についての概念が違うと、その成長にとっての有効性の説明も異
なるものになる。エコノミストは常に競争を重視するが、定義までもが競争的概
念になっている。
  ハイデルベルグ大学比較公法国際法研究所のライナー・ゴルテが言うように「
法による統治」という概念はオープンエンドのものであり、たえず論議の対象と
なりうる。


◇公正の尺度


 法による統治をモニターし、測定する方法には大幅な改善が見られたが、その
点についても合意はまだない。15年前にはそうした議論はまだなかったし、1
0年前にはデータもなかった。最近のデータは世界銀行が極秘扱いにしている。
そのデータは60位の指標(犯罪発生率、警察の質、司法の独立性など)を基に
世界中から集められている。
  法による統治が、長期的にみて国の富に関連していることは立証されている。
それは何十年、あるいは数世紀にわたって形成されてきたからだ。しかし、短期
的にみた場合にはその効果の立証は困難だ。
  中国は、矛盾する例のひとつである。法による統治が弱く、政治腐敗が甚だし
いのに、経済は急成長している。だが、中欧とバルト海諸国で実行された法制改
革は急速な成長を可能にしたし、フランコ独裁後のスペインの民主改革は長期に
わたるブームの門戸を開いた。
  世銀の理論家たちは、法による統治の改善が経済成長に役立つし、法による統
治なしには成長の果実が台無しにされると確信している。しかし、疑問として残
るのは、アジアの急成長経済諸国に腐敗が、そして経済好調のロシアに無法的官
僚主義がはびこっているのをどう説明するか。これにたいする回答は、法による
統治が不在であったり、弱ければ、生まれた成果を少数のエリート集団に奪われ
ることだ。こうした成果の横領収奪は、石油など一次的資源に依拠する国におけ
る独裁的政権とその周囲で顕著にみられる。
  法による統治は、経済学的有効論からだけではなく、それ自体として価値があ
るという主張が当然ある。1690年に、ジョン・ロックは「法が尽きるところに独
裁が始まる」と書いた。
  法による支配について経済学的議論の余地は大いにあるとしても、いくつかの
ことは明白である。ミャンマーやジンバブエなどの無法な独裁国に法による統治
を導入できれば、大きな経済的改善が達成されるであろう。
  法による統治は技術的な問題ではなく、政治問題である。法による統治は、短
期的に立証されなくとも、成長に連関している。
  しかし、多くのエコノミストは、成長の基本的前提として「法による統治」を
みていない。それが望ましいとしても、普遍的経済指針とするのは問題だとみて
いる。


◇コメント


 昨年秋、中国共産党大会中に、第13回ソーシャル・アジア・フォーラムが北京
で開催された。これに参加した評者は、中国労働関係学院所有のホテルに滞在中
に、大会中継をテレビでみたが、そのテロップで頻繁に強調されていたのが「法
による統治」と「民主化」であった。
  『エコノミスト』のこの解説の筆者は、中国の経済成長が法による統治と矛盾
しているとみているが、鄧小平の「改革開放路線」は、中国流の法による統治へ
の転換だったとみることができるのではないか。中国指導部は、成長路線を維持
するためにだけではなく、その成果を国民的に定着させるために「法による統治
」を必要としている。
  中国における法による統治は、政治腐敗の追放や、土地所有権の確立という、
狭義の定義では不十分である。より自由な言論や結社の自由の拡大などの民主主
義拡大の視点から広義に検討されるのが当然であろう。
  開発論の視点からも、法による統治論を評者は積極的に評価する。乱暴な要約
であるが、第一期の開発論は、資本と技術を先進国から移転することによって開
発が達成される(それらが腐食しているので、それを外から補う)というもので
あった。エリートから豊かになるのを当然とみる、トリクルダウン論も横行した
。居酒屋で注がれるコップ酒が溢れると下の受け皿に流れるように、富も上が一
杯になると下へ放流されるというものだ。しかし、この想定は現実とはかけ離れ
ていた。
  次の第二期には、政策が正しければ正しい結果が得られるという、政策中心主
義だった。これも政策が良くとも、それを実行する主体が無能であったり、腐敗
していれば全く成果が上がらないことがわかった。まして、構造調整政策や構造
改革政策などは、政策自体が疑わしいものだったので、開発論としては破産状態
になっている。
  その挙句、先進国の援助意欲低下を合理化するような理論が生まれている。そ
の一例は、今の先進国はその発展にはどこからも援助されず自力で達成したとい
う議論だ。また、これまでの援助について、その中味の徹底的な批判的分析もな
いままに、援助をもらって発展した国と、援助をもらいながら発展しなかった国
の両方があることから、援助の効果はニュートラルとする主張も『フォーリン・
アフェアーズ』などに近年登場している。
  これらに較べれば「法による統治」論はより核心に迫っているようにみえる。
国連が1994年以来提唱してきた「人間安全保障」の理念に基づく国際援助の枠組
みの中で、この法による統治論が位置付けられるべきだ。
                (筆者はソーシアル・アジア研究会代表)

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