━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■【エッセー】
   スコッツボローボーイズ(1)(米国から)       武田 尚子
───────────────────────────────────
 2010年も年の瀬、12月23日はクリスマス前夜である。任期終了を目前
にひかえたニューヨーク州知事デヴィド.パターソンが、2006年8月、無武
装のテイーンエイジャーを射殺して服役中の57歳の黒人、ジョンホワイトの刑
期を軽減したことが報じられた。それはホワイトの罪科と人種偏見が絡み合った
問題であり、パターソン知事の処置はそれを考慮に入れての決断だった。

 被告側の弁護士が言ったように、市民権運動時代の緊迫の空気は、エリート
校、高い資産価値、めぐまれた子供たちの存在するニューヨーク郊外、ロングア
イランドの白人地域でさえも2006年現在、厳然と生きていたのである。

 減刑を受けたジョン.ホワイトは17歳のダニエル.チチアロの顔面を銃撃し
て彼を死なせていた。ダニエロが数人の白人仲間とともに深夜パーテイの帰途、
サフォーク郡の主として白人地域にあるホワイトの家までやってきて、ホワイト
の息子、19歳のアアロンにけんかを売り込もうとした結果だった。

 彼ら白人テイーンエイジャーはホワイト家の外側で、人種偏見にみちた罵声を
浴びせ、脅しをかけ、不敬な言葉を使ってアアロンを挑発した。ホワイトは上告
のあいだは保釈されていたが、上告がしりぞけられてからは、第二級の故殺罪
と、銃器の不法所持のため20ヶ月から4年の懲役の判決を受けすでに5ヶ月を
勤め上げていた。

 裁判でホワイトは、事件当夜、息子が睡眠中の父親を揺り起こし、'「連中が
俺を殺しにやってくる!」と叫んだのでとびおき、怒れる十代の若者が息子をリ
ンチに来たのだと思い込む。父親はガレージにあったピストルをわしつかみにし
て、若者たちのところに出て行った。

 少年らの黒人罵倒の言葉はホワイト自身の少年時代に深南部で目撃した黒人憎
悪、さらに1920年代、クー.クラックス.クランのためにアラバマから追い
出された彼の父親の話をまざまざと思い出させる。父親は息子のホワイトに射撃
を教え、彼が事件の夜使ったピストルを遺言で残してくれた。しかし、その夜の
射撃は実は偶発的なもので、ホワイトに射撃の意図はなかったという。なぜなら
ホワイトが背を向けて立ち去ろうとした所に、ダニエルがピストルにむかってつ
っこんできて、銃が暴発したのだと。

 減刑を知らされたホワイト家のクリスマスは神の祝福への感謝にみちたものに
なった。ホワイト氏の弁護士ブレウイングストン氏は言う。「この裁判において
人種が大きな役割をになったのは確かです。しかし、これで人種問題に火がつく
ようなことのないよう、われわれみなよほど注意しなくてはなりません。もしも
黒人であるパターソン知事が白人で、白人被告を減刑したとしたら、この処置が
問題などになったでしょうか」と。

 この報道を読んで私は、まず今昔の感にうたれた。アメリカはいま黒人の大統
領をいただき、ニューヨーク州知事のパターソンは盲目の黒人なのである。ひと
昔前なら夢としか思えない話ではないだろうか。
 
  しかし一方では、オバマが大統領に選ばれるわずか2年前に、東部、しかも人
種偏見の少ないといわれるニューヨーク州でこの事件が起っていることに、私は
驚きと、焦燥感のようなものを感じないではいられなかった。

 私が興味をひかれた理由はほかにもあった。たまたまその3週間ほど前、小劇
場からブロードウエイにのし上がってきた[スコッツボロー ボーイズ]のミュ
ージカルを見て、強い印象を受け、考えさせられていたのである。ミュージカル
[スコッツボローボーイズ]は、1931年のアラバマで起こった現実の事件を
素材にしている。事実をたどってみよう。

 13-19歳のテイーンエイジャー9人が、テネシー州のチャタヌガーメンフ
ィス間を走る無害貨車に乗ってどこか大きな町に行ってみようと想いを膨らませ
ていた。必ずしも彼らはまとまった仲間ではなく、無蓋貨車のあちこちに散らば
っていたらしい。ある時点で,数名の白人少年が貨車から飛び降り、シェリフ
に、黒人少年グループに乱暴をされたと主張する。

 捜索の結果、9人の黒人少年が逮捕され、彼らにレイプされたという白人女性
2人が発見される。この事件はアラバマのスコッツボローで、超特急で審査さ
れ、12歳の少年を除いて8人がみな死刑の宣告を受ける。当時レイプに対して
死刑の判決は常道ではあったが、裁判所に集まって判決をきいた群衆は大歓声を
上げて悦んだ。
 
  被告側の弁護士といえば、この10年間弁護などしたこともなく、確かに事件
を調査する時間は与えられなかったとはいえ、この裁判に熱意はほとんど見せ
ず、最終弁論さえ行なわなかった。しかしNAACP(NATIONAL 
ASSOCIATION FOR THE ADVANCEMENT OF 
COLORED PEOPLE)およびアメリカ共産党の助力で上告がなされ
る。アラバマ最高裁は8人のうち7人の死刑判決に同意し、13才のユージン.
ウィリアムズには再審を許可した。

 しかし主席判事のアンダーソンは,被告が公平な陪審にも,公平な裁判にも、公
平な判決にもめぐまれず、弁護士による効果的な相談も受けていないと判決に異
議を唱える。アンダーソン判事は「いかに被告が激しく非難されようと、証拠が
いかに明白であろうと、あるいは犯行がたとえ残酷なものであってさえ、犯罪者
も、憲法も、法律も、アメリカの自由の原則にもとづき、公平にして偏りのない
裁判を要求している」と論じた。

 この訴訟は米国最高裁判所に持ち込まれる。弁護側は公平な裁判に必要な手続
きがとられていないこと、裁判所の内外を埋める大群衆が、陪審に圧力をかけて
公正な判断を狂わせたこと、刑事事件だというのに、被告は効果的な弁護士の助
言を得られなかったこと、また黒人がひとりも陪審にいれられていないのは憲法
第14の修正条項に違反していることをあげた。
 
  米国最高裁判所の首席判事エヴァンズ.ヒューズもまた、米国憲法の刑事事件
における裁判の手続きが守られず、効果的な弁護士の助言がなかった点を突き、
アンダーソン判事の異議申し立てを何度も反復して読みながら、アラバマ最高裁
での判決を覆した。しかしこの革命的な判決は、裁判上の手続きの不備、ことに
効果的な弁護士との相談がなされなかったことを明らかにはしても、犯行そのも
のには触れていないため被告は無罪とはならず、裁判はアラバマに戻されること
になった。

 このたびはアラバマのデイケイターで裁判が行なわれたが、それは極右テロリ
スト集団クー.クラックス.クランの生まれたところから50マイルの土地であ
る。弁護側はこの裁判地の選択に反対したが無視される。弁護側は、共産党の後
押しで選ばれた、殺人訴訟で負けたことのないニューヨークの刑事専門のリーボ
ウイッツ弁護士が担当する。彼自身は共産党員ではなかった。

 検察側は、モーガン地方裁判所の判事ジェイムズ.エドウイン.ホートンであ
る。彼はこの裁判の間中、ピストルを車に常置していた。最初の裁判から2年が
経過していたが、群集の多くの、スコッツボローボーイズへの敵意は消えてなか
った。とはいえ、彼らの中には、被告たちが南北戦争後の再建期に生まれた反動
的な黒人抑制法ジム.クローの犠牲者だと考えるものも存在した。

 リーボウイッツは黒人が組織的に大陪審からはずされてきたことを理由に、起
訴を無効にするべきだと裁判前の動議を出し、否決されたが、残された記録は後
日の上告への手がかりとなった。リーボウイッツに対して法務長官のトマス.ナ
イトは[われわれは何一つ譲歩はしない。貴君の言っていることを証明せよ]と
いう。

 そこで弁護士はスコッツボローウイークリー紙の編集者を証人として呼び
いれる。彼は「デイケイターにおける裁判で、黒人が陪審に選ばれたことなど聞
いたこともありません。なぜなら黒人はみな盗みをするから。」と述べる。リー
ボウイッツが陪審員に、黒人の居ないことの不公平を説明しようとすると、彼ら
はそんなことがなぜ問題になるかといった驚きを見せた。

 リーボウイッツは専門職の黒人を呼びいれ、彼には陪審員の立派な資格がある
ことを示そうとした。トマス.ナイトがこの証人を無礼にあしらったとき、弁護
士はとび上がって言った。[お聞きなさい。法務長官よ。私は貴君が私の証人を
ないがしろに扱うことにすでに2度も警告を出しています。

 これが最後の警告ですが、立ち上がって証人の目をさす貴君の指をはずし、彼
をミスターと呼びなさい!!]判事はとつぜん弁護士を妨害して黙らせた。動議
は否認されたが弁護士のこの正当な発言への考慮も幸いして再び訴訟は米国最高
裁判所にもちこまれた。

 レイプを受けたと主張する女性の一人ヴィクトリア.プライスへの反対尋問で
リーボイッツは、最初の証言との矛盾を指摘して迫っても埒が明かない。弁護士
が模型の貨物列車を見せて「あなたの載っていたのはこんな貨車でしたか」と聞
くと、彼女は[もっともっと大きかったわ。それは小さな玩具じゃないの]と答
える。

 彼女はレイプされたという一点だけは変えないが、ほかの点では「忘れた、そ
んなことは言わない、答えたくない」とはぐらかし、レイプの状況の矛盾をつか
れると、この日の被告のヘイウッド.パタソンを指差して「一つだけどうしても
忘れられないのは、あの男が私をレイプしたことよ」と断言する。

 リーボウイッツは、彼女と一緒にレイプされたというルービー.ベイツととも
に、プライスが事件の前前夜は2人の男とよそで過ごしたこと、9人の少年が逮
捕された朝、彼女といっしょに貨車に乗っていたオーヴィル.ギレイと言う青年
に[私がレイプされたと証言してくれ]と頼みこみ[地獄に落ちろ!]と一蹴さ
れたことまで調べ上げていた。だが、法務長官ナイトの完全な非協力とプライス
の保身欲と野卑と無知さえも動員しての証言でどうにもならない。さすが強力な
弁護士も、これほどタフな証人にあったのは初めてだという感慨を後にもらして
いる。

 「レイプ犠牲者」2人を検診したブリッジス医師も2人が事件に先立って男と
関係したのは確かでも、多数の少年たちに貨車でレイプされたのではないことを
証言したが取りあげられない。またナイトは[同じことを言うだけだから]と別
の証人リンチ医師の反対尋問をとりやめさせた。

 再審のあいだに、「レイプ犠牲者」の一人ベイツが、レイプの話はまったくの
でたらめで、スコッツボローボーイズの誰ひとり、彼女たち二人のいずれにも触
れなかったと証言する。彼女はそれまでこの裁判に姿を見せず、ゆくえが知れな
かった。ではなぜうそをついたかと問われて[ヴィクトリア.プライスが、レイ
プを捏造しないと、二人とも投獄されるといったから]だという。

 しかし、彼女のしゃれた帽子と流行のドレスに眼をとめたトマス.ナイトが、
その衣裳はどこでどうやって手に入れたのかと詰問すると、彼女が「ニューヨー
クの共産党からもらった」と明かしたので、せっかくの彼女の証言はまったく信
じられないものになってしまった。リーボウイッツは苦戦に陥る。

 「アラバマの正義はニューヨーク.ユダヤの金で買われるのか」と黒人嫌悪に
ユダャ偏見も加えて、今や上げ潮の地方検事の発言に対して、リーボウイッツは
答えた。「自分は報酬の金などもらっていないし、妻の費用さえ自分で負担して
いる。自分は愛国者であり、ルーズベルトの民主党を支持するものだ。アメリカ
国旗のために第一次大戦を戦っても居る。この弁護を引き受けたのはあそこに座
っている貧しく無教育な黒人少年たちが、公正な裁判を受けることを望んでいる
ためだ。それだけが自分の目標だ」と切り返した。
       
  陪審は結局、ホートン判事に全員有罪判決を手渡した。ヘイウッド.パターソ
ンだけは電気椅子による死刑と出た。パターソンは[君はスコッツボローで裁判
を受けたか]と検事に聞かれたとき、「スコッツボローではでっち上げの罪を着
せられました」と答え、「誰にそんなことを言えと教わったか」と追及する検事
に「自分で自分に教えました」と断言した硬骨の青年であり、9人の中ではもっ
とも目立つていた。

 弁護側は新しい裁判を要求し、ホートン判事は有罪判決は無効にすることに同
意し、さらに裁判を無期延期としたのである。彼は自分に不利なことを知りなが
ら、この道を選んだ。しかしトマス.ナイトは烈火のごとく怒り、新しい裁判で
はホートン判事はこの訴訟事件からはずされ、人種差別主義者のウィリアム.カ
ラハンが判事を受け継ぐことになった。

 カラハンはまず陪審の女性たちに[黒人とセックスをするような白人女性は存
在しない]と語りかける。カメラやタイプライターの持込を禁止し、それまで弁
護側にもホートン判事にもつけていた護衛をみな排除してしまった。絶えず脅さ
れているからと反対するリーボウイッツにたいしてカラハンは、検察側は、共産
党から弁護側以上の殺しの脅しをかけられていると動議を否認した。

 ヴィクトリア.プライスがまた証言をしたが、リーボウイッツが明確に証言の
矛盾を指摘しても、すべてカラハンは「証人と議論をするな][時間の無駄だ]
時には[無法だ]とも言って、弁護側の反論や動議は全て否定し、あるいは証言
をとりやめさせた。

 リーボウイッツは黒人の名が陪審員のリストに含まれて居ないことを示すため
に、裁判所の書記たちにそれまでの陪審名簿をすべて読みあげさせた。数時間の
読み上げの後、コミッショナーのムーデイは数名の黒人の名がでてきたと声をあ
げる。リーボウイッツは陪審の全員から筆跡を集めてリストの筆跡と比較し、つ
いにそのひとりに自分の手書きに似ていると認めさせた。リーボウイッツが筆跡
の専門家を呼びいれると、彼はそれが最近加筆された、前の裁判での陪審代表者
のモーガンの書いたものだと明言した。

 カラハンがリーボウイッツにこの問題を記録するのを許したことは注目に値す
る。なぜなら、ふたたび米国最高裁判所に持ち込まれた裁判ではこの筆跡比較の
記録は黒人が大陪審から除外されている事実の証拠として、最高裁はふたたびア
ラバマ法廷の判決を覆したのである。

 この事件は結局全部で3度審査された。3度目の陪審には、南部再建期後はじ
めて黒人が一人入れられたが、判決は3度目の有罪と出る。ヘイウッド.パター
ソンは死刑から懲役75年になったが、1948年に脱獄し、1950年、FB
Iに逮捕される前に[スコッツボローボーイズ]を出版した。かつては無学だっ
たが、獄中で読み書きを覚えて、知力と才気を見せたという。

 ミシガン州知事は彼をアラバマに引き渡すのを拒否したが、パターソンは酒場
でけんかをして相手を刺し、故殺の判決を受けた。しかし1952年、その判決
の1年に服しただけで、ガンで死亡した。 

 12歳の年少のため最初から死刑を免れたロイド.ライト、13歳だったユー
ジン.ウイリアムズ、ほか二人を入れて四人への告訴は取り下げられたが、すで
に彼らが6年を獄房で過ごした後の処置だった。ロイド.ライトの釈放後、スコ
ッツボローボーイズ擁護委員会は彼を全米のツアに出した。

 彼はその後結婚してマーチャント.マリンで(物資を運ぶ民間船だが、乗員に
は軍隊に準ずる資格がる)長い海上生活を送って帰宅した。しかし、妻の不貞を
知り、彼女を射殺して、自分も自殺している。99年の刑期を課されていたロイ
ドの兄は2度執行猶予になった。

 105年の刑を課されチャーリーウィームズは米国最悪の刑務所の一つで12
年過ごしたあと執行猶予になった。オジー.パウエルはバーミンガム刑務所に護
送の途中、護衛の脅しに腹を立てて相手の顔に切り傷を与えた。護衛のひとりが
パウエルを射ち、彼は不治の脳損傷を受けた。アラバマ知事デヴィッド.グレイ
ヴスは彼を射撃した護衛を祝ってやった。

 20年の刑に処せられたが、1946年釈放された。最年長のクラレンス.ノ
リスはただ一人の死刑囚だったが、1976年、アラバマ州知事のジョージ.ウ
オーレスから恩赦を受け、1979年彼の体験を自伝「最後のスコッツボロー
ボーイズ」に著し、1989年に死亡した。

 ルービー.ベイツは短期間ILDのスピーカーとして全国を回る。「私のため
にみなに迷惑をかけてすまなかった」と話して歩き、その後は紡績工場で働く。
ヴィクトリア.プライスは木綿工場で働いた。1975年、ナショナル放送会社
が彼女たちのことを放送で描写したとき、2人は忘却の淵から現れて、この会社
を告訴した。プライスの訴訟は裁判を受けたが、却下された

 スコッツボローの大半の住民はいま、この裁判が不正であったと信じている。
2004年には町をあげてこの事件を記述した掲示板をつくり一般公開している。
 
  この簡略なドキュメントにも生々しい南部裁判の、黒人にたいする偏見と不正
は、おそらく奴隷解放後にも南部ではことにめずらしくないことだったろう。し
かしこの事件は全米に大きな反響を巻き起こし、アメリカを変えたといわれる。
  最初の判決の後、全米の110の都市で30万以上の黒人と白人が抵抗のデモ
をし、マンハッタンではユニオン広場だけで1万人を越える抵抗者が集まった。

 政治的には米国最高裁による判決却下の後、南部法廷はもはや陪審から黒人を
除外できなくなった。これは大きな進歩だった。 また、バスの後部席に黒人を
押し込めるアラバマの不平等を拒否して始まったローザ.パークスの行動は、マ
ーチン.ルーサー.キングの率いる市民権運動として開花した。ローザはスコッ
ツボローボーイズの判決への反対デモで未来の夫に出会い、歴史に名を残す人権
運動家になった。

 この事件は、文学やテレビ映画や音楽にも足跡を残したが、とりわけ米国文学
の金字塔の一つとなったハーパー.リーの'TO  KILL A MOCKING  BIRD'(ア
ラバマ物語)はこの事件に想を得て書かれた。第一審の陪審判決を覆したアンダ
ーソン主任判事だけでなく、再審を受け持ったホートン判事に、「アラバマ物語
」に出てくる子供たちの父親、アチカス弁護士を想起しない人は少ないだろう。
選挙に破れることを承知の上で陪審の判決を覆したホートン判事は、実際に次期
の選挙で敗北を喫した。

 かつてトマス.ナイトに証言をとりやめさせられたリンチ医師は、何年も後ホ
ートン判事にむかって「あの女たちはレイプなどされてはいませんよ」と笑い、
「もしも弁護側に有利な証言をすれば、私のジャクソン郡での営業はあがったり
ですからね」と告白した。ホートン判事は、あの日の被告ヘイウッド.パターソ
ンは絶対に無罪になると信じていたので、リンチ医師に強いて証言させなかった
のだという。

 このスコッツボローボーイズ裁判と言う悲劇的な事件が、伝統的なミンストレ
ルショーの形で登場してきたのを、私は数週間前に見ることができた。
  ミンストレル.ショーとは、顔を黒くぬった白人俳優が、黒人を揶揄したバラ
エテイショーである。それは1830年代に始まり、1840年代以後数世代に
わたって、アメリカの音楽産業最大の人気ショーになった。

 きわめて激しい人種偏見のレンズを通して、白人が見た黒人の言葉のアクセン
トや発音のおかしさ断片化された彼らの英語、彼らの体の動き、歩き方、黒人独
自のダンスの仕方などを舞台に乗せて観客を集めたのである。最盛期には劇場は
家族連れの観客で埋まった。1900年ごろから人気は衰え、1920年にはほ
とんど影をひそめた。

 初めは白人俳優が黒人を装っての娯楽だったが、南北戦争後には黒人も加わる
ようになり、彼らはいっそう黒さを強調するために黒炭を顔にぬった。おまけに
彼らは、黒人侮蔑のショーの枠組みに加わって、自らを嘲笑したのである。

 これは哀しいことだったが、黒人の芸人が舞台に出演することが許されるよう
になったのはまさにこのミンストレルショーのおかげであり、スピリチュアルを
含む黒人の歌が白人の世界にも入るようになり、黒人文化の理解へのドアが開け
たことは大きな進歩だった。またミンストレル.ショーは、初めてアメリカで生
まれたはっきりとアメリカ独自のショーであり、アメリカのミュージカルの母体
になったのである。

 ミンストレル「スコッツボローボーイズ」は、黒く顔をぬった白人が黒人の無
知やおろかさを観客とともにからかうのではなく、この事件に巻き込まれ黒人少
年の暗鬱な悲劇を伝統的なミンストレルショーのお笑いの形式を借りて提供した
ものである。まことに思い切った試みではあった。

 伝統的なミンストレルショーに登場する黒人たちは、自らは奴隷であっても、
寛大な農園主のもとでいかに平和で幸福にみちた生涯を送ってきたかを常に歌い
上げる。たとえば「アンクルトムの小屋」でももっぱらトムの従順さが見せ場に
なったという。しかしこの新しいミュージカル「スコッツボローボーイズ」の中
には、たとえば電気椅子の恐ろしさを年少の囚人に描写する看守の歌が出てくる。

 カと思うと、かつてのミンストレル.ショーの黒人が歌ったでもあろう南部賛
歌が趣を変えてでてくる。たとえば司会者の白人が、「ああ、私の大好きなあの
歌を歌ってくれ。ふるさとをしのぶすてきな歌を」と促して少年たちに歌わせる
歌曲に、「南部の日々」がある。これを紹介しよう。

全員のコーラス


  なつかしかないか
  南部の風さわやかな あのころが?
  柳の葉っぱのしたたるような あの光景が
  くつろいで暮した あの日日に
  舌にのっけた ジューレプジュースのあの味が

 キチンじゃおっかさんが 豚さばき
  骨のバーベキューに コーンの殻むき
  さあさ ほんとのことを言ってくれ
  お前は 生まれたアラバマの
  朝を祝福したいだろ?

 ほんに恋しいと思うだろ?
  バンジョーつまびく あの音色
  輝いていた お月さんを

 静かな夏の夕べには
  くろんぼが ハミングをしてたっけ
  ほんに恋しいと思うだろ?

 願おうじゃないか あの日日に 
  さっと もいちど戻れさえしたらと
  ものうげに 静かにすぎたあのくらし
  なごやかな 南部のあの日日に

司会者


  その歌が私はほんとに好きだった ポーチにゆっくり腰下ろし
  木綿畑から立ちのぼる たそがれに聞くその歌が 
  なんとも私は好きだった
  おまけに君らの歌いっぷり こたえられないみごとさだ
  まさに私のききたいとおりだ 
  だけど君たち ちとばかり 笑ってみせても よかないか。

全員


  キチンじゃおっかさんが 豚さばき*
  グリッツを煮たり* ハムのカビ落とし*
  さあほんとのことを言ってくれ
  恋しくはないか あのころが
  スイカズラみどりにもえた アラバマが?
  ああ あのころの景色も音も
  なんと生きいき よみがえる!
  木の枝にぶらさげられた 
  父さんの姿のように

司会者


  おいおいちょっと待ってくれ

全員


  十字架を焼いた
  火事のように  

司会者


  私はそんなところは覚えてないぞ

全員


  みなの衆
  あのものうくて 気の抜けた
  熱のこもらぬ ぶしょうなくらし
  愛すべきあの南部の日日に
  戻りたいとは思わぬか?

 無実の罪を着せられた少年たちのふるさとは、あの怠惰で変化に乏しい南部
にしかない。誰かの父親がおそらくリンチされてぶら下げられていた南部のプラ
ンテー ションにしかない。司会者一人を除いて全員が黒人による、歌とダンス
と時折の冗談で観客を大笑いさせながら、黒人が白人の残酷さをあばいた、すさ
まじくも 皮肉なプロテスト.ショーではあった。

 このミュージカルの作曲と歌詞は、「キャバレー」や「シカゴ」で有名なジョ
ン.カンダーとフレッド.エブが、振り付けと監督は「プロジューサー」で有名
な スーザン.ストローマンという一流陣が担当した。私がこの舞台を見たショ
ーの最終日、多数の黒人とヒスパニックのまじる観客の反響は驚くばかりだった。

 閉幕後の観客は立ち続け、出演者や創作者への拍手はいつまでもいつまでも
鳴りやまなかった。司会者の白人を除き、無名の黒人ばかりだったが、そのダン
スも演 技も歌唱も第一級だった。この作品もまた長く世に残って、多くの人に
アメリカの歴史を思いださせ、自分の心を深く問わせるにちがいない。
 
  人種偏見はいわば人間性につきもので、教育によってしか破れない。人類の生
きつづける限り、偏見は、たとえ減らせても生き残るのではないかと筆者は考え
る。しかし南北戦争からほぼ150年、市民権運動からほぼ半世紀のいま、ア
メリカはこの面では確かにいくつかの大きな進歩を遂げた。

 思うに歴史は、一歩前進二歩後退をくりかえしながらより明るい社会に向って
ジグザグに進んでいくのかもしれない。そして、人種差別を国の政策にしないこ
と、一人ひとりが、たとえ偏 見を持っていようと、それを心の中にとどめる礼
節をまなぶこと、それが果たせたら、世界はよほど住みやすい場所になるのでは
ないだろうか。 {了} 

             (筆者は米国ニュージャシー州在住・翻訳家)

                                                    目次へ