ミャンマー通信(12)

                     中嶋 滋


■仏教国のクリスマス
 国民の90%が仏教徒というミャンマーでも12月に入るとクリスマスの飾り付けが見られるようになります。とは言ってもヤンゴンなど大都市のホテルやショッピングモールや一部のレストランなどに限られています。ミャンマーには5%程のキリスト教徒がいるとされ、ヤンゴン市内の中心部に大きな教会がいくつもありますから、クリスマスの飾り付けの全てが外国人向けと言うのではないのでしょうが、社会に馴染んでとけ込んでいるとは全く思えません。1週間程前にマンダレー郊外の小さな村に行きましたが、そこにはクリスマスのクの字もありませんでした。ただヤンゴンとマンダレーを結ぶ飛行機には多くの欧米人観光客が乗っていて、機内ではクリスマスソングがずっと流されていましたから、外国人目当ての取り組みなのかも知れません。

 ミャンマーのお正月は4月中旬ですから、12月の中旬になっても、欧米や日本などのような年が変わる「区切り」感は全くありません。1月1日は休日ではありますが、12月から1月へ暦が進むことへの感覚は、他の月と変わりなく、2日からは平常の仕事に戻ります。

■盛り上がらない SEA GAME
 12月11日から2週間の日程で、東南アジアのオリンピックと呼ばれる SEA GAME がはじまりました。27回目となる東南アジア諸国にとって重要なイベントで、ミャンマー開催は初めてのことです。ミャンマー政府にとっては、来年1月からのASEAN議長国とともに、国際社会の一員として認知をうる特別な意味を持つイベントとして意識されていました。国民的な盛り上がりを期待しているのでしょうが、国民の反応ははかばかしくありません。ヤンゴンの街のあちこちに SEA GAME を宣伝する幟旗が立てられています。その中には協賛企業として SAMSON や Panasonic などのものもみられます。政府発行の日刊紙も連日関係記事を掲載しメダル獲得競争も伝え、テレビでも実況中継番組を多く組んで盛り上がりを図っているようです。しかし、その効果は現れていないようです。

 ミャンマーでも若者を中心にサッカー人気は相当のものがあります。ほとんどの競技は主都ネピドーで開催されていますが、一部の競技は施設不足の関係でしょうか、ヤンゴンでも行なわれています。私の住むアパートの近くにあるスタジアムで、先日ミャンマー対タイのサッカーの試合が行なわれました。頬に国旗をペイントした若者たちがスタジアムの周りにたむろしている場面もありましたが、熱狂とはほど遠いものでした。しかし、チームの力量差が大きかったにもかかわらず1:1で引き分けた結果には、SEA GAME を冷ややかに見ている我が事務所のZ君も満足していていましたから、ヤンゴン市民の間にもそこそこの関心が広がっているようです。

■軍政の遺物
 地方への外国人の訪問は、観光地を除いてはかなりの制約が依然としてあります。特にホテル以外に宿泊することが伴う場合は、当局(入管、警察、行政庁)の許可が必要となります。宿泊しない場合でも、パスポートの提出を求められコピーを取られます。場合によっては退去を命令されます。

 マンダレー管区内のT村を農業労働組合の組織化に向けた活動で訪れた時、軍政時代の遺物としか言いようのない対応に遭いました。2泊3日の日程で、農業技術支援のための集会や農業実態調査をかねて、現地の農業労組との交流や新規に農業労組を組織化する取り組みでした。
 農業・農村支援のNPOメンバーと連合の関連組織代表らで構成された一行で総勢13名の団でしたが、1日目の集会の際にパスポートの提出・コピー取りが求められました。その時は、FTUMオルグと地元の農業労組役員の説得によって、集会の中止には至りませんでしたが、その夜に予想していなかった事態に立ち至りました。

 集会も無事終わり翌日の農地の実態調査と経験交流の実施を確認して、宿泊所に予定されていた寺に移動しました。若い修行僧が多くいる大きな規模の寺でしたが、責任者の僧へのあいさつと宿泊準備を整えてから夕食招待に応じ農業労組委員長宅に移動しました。歓待を受け交流を深めて寺に戻り就寝に入ったところで、事態は急転換しました。寺の講堂で雑魚寝していたのですが、22時ごろ揺り起こされ退去通告を受けていることを知らされました。私たちの就寝場所から少し離れた場所で、責任者の僧を含めた10人程の人たちが、厳しい表情で激しいやり取りをしているのです。
 どうなっているのかとの説明を求めたところ、現地の入管の責任者がきて、ここに泊めることはできないので直ちに退去するよう求めてきました。私は、何という法律の何条に違反するのか、退去命令は誰の責任で出されたのか、文書で通告するよう求めました。それが出されれば命令に従うことも伝えましたが、そうしたものは出せない、従わなければ私だけでなく全員を逮捕するという強硬な態度を変えませんでした。

 地元の農業労組代表、FTUMオルグとも意見交換し、23時近くになっていましたので他の宿泊場所の確保を条件に、撤退することにしました。判断の根拠は2つありました。1つは地元の農業労組の役員らに迷惑がかからず今後の活動展開が困難にならないようにすること、2つには団の構成員の多くが観光ビザで入国していて入管法違反での逮捕は十分あり得ること、の2つです。寺を宿泊場所として提供した僧もギリギリまで頑張ってくれたそうですが、当局側の強硬姿勢を崩すことはできませんでした。村から1時間半程の町のホテルに投宿したのは翌日午前1時過ぎで、2日目に予定していた活動は中止されました。

 翌日の昼に町のホテルで落ち合った現地農業労組書記長から、その後の事態の推移について報告を受けましたが、それはありがたいものでした。2日目の早朝から調査・交流活動に参加しようと多くの農民が集まり、中止を残念がり事態を作った当局を非難したというのです。そればかりか活動の継続を求め、未組織の村からの参加者がこれを契機に組合を結成すると宣言したのが2例あったのです。この報告を受け、意気消沈気味であった団のメンバーが元気づけられたことはいうまでもありません。
 農民たちの期待に応えて活動の継続を図るため、当局側からの干渉を避けるための事前準備に万全を図りながら、当初の2日目に予定していた取り組みを実施する計画が進められています。これを是非とも成功させて、組織化の促進と農業・農村支援活動の伸展を図りたいと思っています。

■容易ではない遺物撤去
 つい先日、再びT村を訪れる機会を得ました。農業・農村支援の一環として村の学校(小・中学校、高校の分校)への教育支援活動推進のためです。この時は、村に泊まらずに済む日程を組みましたし、状況が好転しているとの情報も得ていましたので、たいして緊張もせずに臨みました。事前に農業労組書記長から、行政長から電話があり、農業支援は村の発展にとってありがたいことなので続けられるよう努力して欲しいこと、前回の対応はやむを得ずしたことなので理解して欲しいこと、今後は村の発展のため力を合わせていきたいこと、が伝えられたというのです。

 ところが、現地の学校に赴くと、学校関係者は大歓迎してくれましたが、入管、警察、副行政長が同席を求め、パスポート提示・コピー取りがなされました。私たちと学校側との打合せの様子も逐一録音、写真、メモ取りで記録され、校内視察の際は、まるで私を主人公に記録映画でも作るかのように、私の一挙手一投足を小型ビデオカメラで追い続けられました。農業労組書記長宅で昼食招待を受けたのですが、その間も監視下に置かれていました。少し離れた辻には5、6人の警官が、私たちの安全を守るためと称して待機していました。この状況は、民主化の推進といってもその分野はまだ限られた範囲に止まっていること、治安当局の末端の担当者の意識はほとんど変わっていないことを示し、目下のところ地域で活動を続けている人々は、それらと折り合いを付けながら実態上の変化を積み重ねていると、思われます。私たちは、そうした努力に最大限に配慮しながら彼らとともに歩まねばならないと、思うのです。
(2013.12.16記)


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