【コメント】

ヘイトスピーチについての考察
〜学校は「表現の自由」を保障し、そのために意図的な教育を行っているか〜

                     リヒテルズ直子


 今年4月に訪れたオランダの小学校の様子だ。そこで4−6年生の子どもたちは、極右政党「自由党」の党首へールト・ウィルダーズが、その前月に行われた地方議会選挙での勝利に乗じて、会場で「もっと多くのモロッコ人にオランダに来て欲しいか、それとも、もっと少なくしたいか」と呼びかけ、党員らから「少なく、少なく」という歓呼を引き出した事件を取り上げ、輪になって議論していた。
 
残念なことに、オランダでもヘイトスピーチは存在する。この傾向は、2000年代に、イスラム教徒過激派のテロが西洋各地で散発し、急激に強まった。デンマークではかつてモハメッド風刺画事件がおき、フランスでは今年の欧州議会選での極右派が圧倒的に勝利するなど、反イスラムの立場を顕示する政治家が大衆の支持を集めている。
 
話し合いをリードしていた二人の小学生は、まず、公営放送局制作の小学生向けニュースで放映されたウィルダーズの問題発言とそれに対するモロッコ人少女の意見をビデオで見せ、ウィルダーズの発言に対して全国ですでに5000件近く違憲の訴えが出ていることを伝えた。その後、二人は、「モロッコ人は国外に追放されるべきか」「ウィルダーズの発言は差別禁止の法を侵すものとして処罰されるか」と提議し、級友の意見交換をリードした。担任教師は、ほとんど口を挟まず、生徒たち自身が進行する話し合いを見守っている。
 
教室には、肌が褐色の子やモロッコ人もいる。そういう子ども達が自分たちの置かれている立場を述べ、白人系の子どもたちがそれに応じる。「外国籍の人を国外追放するというけど、逆にオランダ人の私たちが逆に追放されることになったらどうなのかしら」と一人がいうと「でもウィルダーズの発言を安易に処罰の対象にすると僕らが意見を率直に言えなくなるんじゃないか」と他の子が『差別禁止』と『表現の自由』がもつジレンマという問題に触れてくる。
 
反移民感情が高まった2000年代半ば、オランダでは、小中学校でのシチズンシップ教育が義務化された。上の例のように、それは、一元的な価値観を教条的に押し付ける道徳教育とは異なる。伝統的に宗教や倫理観が異なる文化的に多様な複数の社会集団を内包し、多くの移民を労働力として受け入れてきたオランダでは、なんらかの特定の文化や宗教によって規定される価値観を、国家的道徳理念として教えることは不可能だ。そんな中で、市民らが、みな同等の価値を認められ、自由に、かつ、他者の自由を侵害せずに生きられるために、民主主義の絶対的基盤である『法の下での平等』(=法治国家)原理がことさら強調される社会だ。シチズンシップ教育は、この法治原理を、子どもたちが教室で経験的に学ぶことに主眼がある。
 
近代の公教育は、大量生産と高度技術発展を原理とする産業型社会における人材の育成の場と化した。競争原理に基づく学校教育は、人と人の間に溝を作り、差別・軽蔑・妬み・反抗の温床とさえなった。日本だけの問題ではない。シチズンシップ教育は、そうした学校のあり方を根底から変え、共生的な社会を生むための取り組みでもある。
 
外国に出自を持つ同胞住民に向かって「死ね」「消え失せろ」とまでの人権を冒涜した暴言がまかり通る日本社会。産業型社会のための人材育成を旨とし、おざなりの道徳教育で建前を教える学校教育が続く限り、<法の下の平等>と<社会・経済的格差の容認>の間の矛盾は捨て置かれ、差別禁止は絵に描いた餅であり続けるだろう。ヘイトスピーチと表現の自由の間に明確な境界を設ける法の制定は、それを守るための市民育成が、それを遵守する公的な場を保障することで実効的なものとなるのではないか。
 
グローバル化は、主に多国籍企業の放逸と、その結果としての極端な貧富の差を国内外に生んできた。世界各地での差別・ヘイトスピーチ・紛争の拡大の背景には、尊厳を奪われ不条理に生きる人口の拡大がある。他方、グローバル化は、一般民衆が、文化や宗教を差異を超えて連帯的に生きる可能性を与えるものだとも希求する。そのために公教育が果たす役割は大きい。ヘイトスピーチに分断される社会は、巡り巡って、その発言者自身にとって生きづらい社会を生むということを、子どもたちにどう経験的に学ばせられるのか。法の制定とともに、それを遵守して生きることを子どもたちに教えるという重篤な課題が、学校や家庭の教育に残されている。
          (オランダ在住・教育社会研究者)


最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧