【世界の動き】

トランプの米大統領選勝利に対するオランダの反応
―ポスト冷戦体制(米国主導の世界秩序)の終焉―

リヒテルズ直子


◆◆ はじめに

 去る11月8日に行われた米国大統領選は、おそらく日本と同様、あるいはそれ以上に、オランダはじめ欧州諸国でも注目の的だった。時差のため真夜中に始まった開票速報を、最終結果が出た明け方まで見守っていた市民は多かったはずだ。
 米国のマスメディアの大半の予想を裏切って、政治家としての経験のない、しかも選挙戦では根拠のない罵詈雑言と失言取り消しを繰り返したドナルド・トランプ氏が当選したというニュースは、大半のオランダ市民の予測をも裏切るもので、オランダでも来る4年間の政治に対する、衝撃とも言える不安をもたらすこととなった。それは、おそらく、欧州連合を指導する政治家にとって最もよく当てはまるものであっただろう。とりわけ、自由主義、社会主義、社会民主主義、環境保護といった、どちらかというと、どの国にも少なからず固定した支持者を持ってきた伝統的な政治イデオロギーを基盤として、価値観が多様化する今日の社会で合議的に他政党と共に中道政治を選んできた政党の政治家にとってだ。極右・極左の、低下層の大衆を支持者層に持つ政党は、逆にこの結果を歓迎した。
 その背景となる欧州の社会事情とはなんなのか。欧州政治家らは、世界秩序の転換を引き起こしかねないこの結果が生む新しいリアリティにどう適応しようとしているのか。

 オランダの主要紙NRCは、大統領選の翌日の新聞で、17ページに及ぶ紙面の全面を割き、26の問いを上げて、論説員や特派員らが、米国における大統領選の背景、米国政治の今後の予測や世界への影響、欧州における今後の政治課題等を解説した。続く週末のテレビの政治番組もこの話題に多くの時間を割いた。これらの解説を基盤に、オランダにおけるトランプ・ショックの模様を報告してみたい。

◆◆ 反エスタブリッシュメント(エリート)の大衆政治の時代

●政治家というエリートへの不信
 今から2年ほど前、こちらの教育文化科学省(文科省)が主催した移民子弟の教育をめぐるフォーラムに出席した時、講演したオランダ人の社会学者が述べた印象的な言葉がある。
 「移民問題は民族集団間の対立、異文化対立の問題として捉えがちだが、今オランダで起きているのは、むしろ階層間の対立であり、高学歴者と低学歴者との文化がかけ離れていることだ。両者は、見ているテレビ番組の種類が異なり、笑うジョークの種類が異なる」
 このように言われてみて、確かに、人々のネットワーキングが、民族集団ごとというよりも、学歴で分かれているという実感を持ったのを鮮明に思い出す。
 今回の米国の大統領選も、学歴が高く、人生で「成功」している「勝ち組エスタブリッシュメント(エリート層)」と、低学歴または中途退学などの「負け組」層の分極化が生んだ結果だったという分析が大半だ。加えて、以前は、先進諸国の社会の中心部にいた中流階級の人々が、今日、失業や老後の生活保障への不安を感じながら、いつ下流に転落するかわからない将来への保障のない生活を強いられ、従来型の政治家に失望し、エスタブリッシュメントに復讐している、という解説も散見される。

●大衆政治の温床:分極化する社会(Brexit に続くオランダ、フランス、ドイツの選挙)
 ヨーロッパの大半の人々は、今回の米国大統領戦の様子を、Brexit(英国の欧州連合離脱)と重ね合わせて見ていたはずだ。6月に行われた英国の欧州連合からの離脱の是非を問うリファレンダムは、離脱支持が過半数を占め、欧州連合の政治家らを震撼させた。しかも、その直後、離脱を主張する政治家らが、キャンペーンで、ことごとく誇張や虚言が吐いていたことがメディアでも散々議論されていた。
 それだけに、ドナルド・トランプの発言は、Brexit を主張した英国の大衆政治家らと同系の、嘘で既存政治家のイメージを傷つけ、大衆を扇動する典型的な大衆政治と捉えられていた。、、、が、そう捉えるマスメディアのジャーナリストさえもが、大衆から見ると、自らの利益だけを追い、社会の中下層の人々を顧みないエスタブリッシュメントの一部とみなされるのである。
 この事態を、オランダの新聞(NRC)は、「レーガン以来の政策は、エリート自身のためのものに過ぎず、大衆のためのものではなかった。血と汗と涙の大衆は、カプチーノと白ワインを楽しむエリートに復讐したかったのだ」と解説している。レーガン以来の政策とは、「新自由主義」のことだ。これは、米国に限らず、欧州においても日本においても、この30年間支配的だった政治姿勢だ。それは、政治家とそこにつながる企業エリートのエゴイズムをベースにしたものであり、犠牲になった大衆が、今、各地で復讐を起こしているということらしい。それが、事実無根のスキャンダルや虚言を持ってすら、また、女性差別や民族差別という、民主主義の根本原理である人権擁護を無視してすら、大衆の支持を集めることとなった理由であると解説されれば、確かに頷かざるを得ない。

 問題は、虚言政治は、Brexit を決めた英国のリファレンダムと、その後のマスメディア上での議論でコントロール下にあったと考えていたにもかかわらず、今回の米国大統領選が、むしろ、虚言政治の強みを改めてヨーロッパ市民に提示したことにある。言い換えれば、「政治のプロ」であったはずの、従来型の政治家が大衆の人心をつかめていないことが、ヒラリー・クリントン候補の敗北で目の当たりになったということだ。クリントンの敗北は、英国を始め、欧州諸国での社会主義や社会民主主義政党の支持基盤の弱体化とも重なって見える。

 これは、移民・難民問題やイスラム国のテロリズムに悩むヨーロッパ諸国にとって、極めて深刻な問題である。しかも、12月にはイタリアで憲法改正をめぐるリファレンダム、3月にはオランダで第2院(衆議院)選挙、5月にはフランスの大統領選挙、秋にはドイツで選挙がある。いずれも、欧州連合の古株メンバー、影響力の大きい欧州連合の中心的な国々だ。
 イタリアは経済不況が続いており失業率も高い。オランダは移民の人口比率が極めて高く、ヘールト・ウィルダーズという極右政治家が率いる自由党(PVV)が、相変わらず安定して高い支持基盤を維持している。なんどもテロリズムの被害を受けたフランスでは、移民排斥の国民戦線の党首マリーヌ・ルペンが Brexit とトランプ当選にいち早く「歓迎」の声明を出し、選挙戦での勝利に向けて気炎を上げている。ドイツのメルケル首相は、米国のみならず、ロシア、トルコ、イギリスとの交渉でも、融和を求めて奔走し、事実上、欧州連合のリーダーとも言える立場にあるが、メルケルが来年以降も続投する保障はない。
 国粋主義や移民排斥をはばからない大衆政治家の言質を糾弾しても、ほとんどその効果がないほどに大衆が扇動されていることは、例えば、「もっとたくさんのモロッコ人がいた方がいいか、それとも、モロッコ人を追い出したいか」と公の場で発言したウィルダーズが、人種差別発言で裁判に起訴されようが、国会討論で糾弾されようが、容易に支持率を下げないことにも表れている。「差別禁止」を憲法第1条に掲げているにもかかわらず、だ。民主制の基盤となる憲法そのものが空洞化し、法治国家の原則それ自体が問われつつある。同時に、社会的低下層の中で、国粋主義に走るオランダ人と、そこから排除される移民との間の亀裂を深めるばかりだ。

◆◆ 米国第一主義(孤立主義と保護主義)トランプ政治がもたらす新世界秩序への予測

●減税と移民排斥は国債を拡大する?
 しかし、トランプ当選のショックは、大衆政治の恐怖に止まらない。政治家の経験がないトランプがキャンペーンで挙げた政策案には辻褄の合わないものが多かった。特に経済政策には矛盾が多い。これが、欧州でも、急遽、来たる年間の世界経済への不透明感をもたらしている。トランプ当選後、急激に下がった株価は、民主党支持者との和解を匂わせた当選スピーチの後で回復の兆しを見せたが、その基調が今後も続くという保証はない。
 NRC紙が解説するトランプの経済政策の矛盾をまとめると、以下のようになる。

・トランプは「孤立主義」と「保護主義」によって、アメリカ経済を回復させ強いアメリカを取り戻すと主張しているが、不況はすでに世界的な趨勢であり、生産環境は国境を超えている。ロボット化により人材雇用の仕組みそのものが変化している。米国国内だけで解決できるものではない。これまでの大統領が一貫して取ってきた自由貿易推進策の転換は、逆に、世界経済の不況を加速する可能性も含んでいる
・トランプは不法移民の国外追放を主張しているが、現実には、アメリカ人の人件費が上がっているため、米国国内企業はこうした不法移民の低賃金労働に依存している部分が多く、追放によって経済的に打撃が広がる可能性がある
・トランプは、所得税の累進課税最大率を35%、法人税を15%に引き下げ、現在米国外に籍を移して、オフショアで脱税を図っている企業を米国に誘導する方針を示しているが、減税策は、短期的には経済活性化に繋がっても、長期的には貧富の格差を拡大することになる。つまり、これこそまさに、トランプを支持した層をさらに苦境に陥れ不満を拡大する可能性がある
・また、減税は、予算緊縮しない限りは予算に穴を開けるものだが、トランプは他方で公共インフラ投資に意欲的である。公共インフラ投資そのものは重要とみなされるが、減税と組み合わせると、現在でも4%ある予算赤字はさらに拡大する見通しとなる
・その結果、国家債券の発行が避けられなくなるだろうが、すでに米国の国債は108%で、それがさらに拡大すれば、米国経済はますます不振となる
・トランプは、「ヘア・カット」と称して、債券債権者への返済額カットを匂わせ批判を受けた。実際、そうした策は企業ではありえても国家債券にはありえない。債券発行の増加は何れにしても国債の拡大につながり、それが、移民排斥プランや保護貿易による課税などと組み合わされれば、米国の信頼そのものを喪失させることとなる

●NATO:パックスアメリカーナから自立(防衛費の拡大>公共投資の緊縮)
 安倍政権が前のめりに参加表明を急いだTPPとの双子とも言える対欧州連合版にTTIPというものがあり、欧州でも参加を巡り議論が重ねられていた。しかし、これも、トランプ当選のニュースとともに暗礁に乗り上げ、事実上、交渉継続の見込みはなくなった。
 しかし、このことが必ずしもグッド・ニュースとは言い切れないことは、上記のトランプ政権の経済政策の不透明さが示している通りだ。欧州連合の最も大きな経済パートナーである米国の先行きは、欧州企業に不安を与える。米国が、中国やメキシコ産の製品に高い輸入税をかけて保護貿易に転じることとなれば、欧州の通商パートナーにも大きな変更が起きることは避けられない。それは、1989年のベルリンの壁の崩壊以後、現在まで続いた体制、すなわち、<ポスト冷戦体制>の世界秩序を大きく変えるだろうとの予測につながる。
 トランプ当選に祝辞を送ったプーチンが、米国の衰退と、米国の勢力下で安定を享受してきた欧州連合の基盤が崩れることによって、ロシアの勢力が拡大することを狙っていることは言うまでもない。
 このことは、実は、今回の大統領選が欧州連合にもたらした最も大きな挑戦課題であるとも言える。ウクライナのクリミア侵攻以来続いている欧州連合とロシアの緊張があるからだ。その意味で、トランプ当選以後、欧州連合で問題にされている最大の挑戦は、防衛政策であると言っても過言ではない。

 欧州連合諸国は、第2次世界大戦後、北大西洋安全保障条約(NATO)に加盟している。これは、「三銃士」で有名な「一人はみんなのために、みんなは一人のために」の原則に基づいており、加盟国のいずれかが外部からの侵攻を受けた場合には、他の加盟国が一致団結して防衛する、というものだ。もともとソ連の一部だった国が、共産体制崩壊以後バルカン諸国として独立して以来、こうした国々の内部で離脱を求める親露派の存在がNATOにとっては悩みの種だった。ロシア文化圏だった国が、独立によって欧州連合に近づくことを、プーチンが苦々しく思っていたことは言うまでもなく、ロシアは、こうした離脱派を支援することで、欧州連合の勢力拡大を阻止したい。
 トランプは、キャンペーンにおいても、NATOの負担軽減を主張してきた。この方針は、実は、オバマ政権でもすでに見られていたことで、ウクライナ問題でも、オバマの交戦姿勢は極めて消極的だった。ヨーロッパの問題は欧州自身で処理すべき、という姿勢だ。
 現実に、NATOでは、加盟国は国民所得総額の2%を防衛費に当てることが原則であるが、実際には、欧州加盟国の中で、2%を達成しているのは、ギリシャ、ポーランド、イギリス、エストニアのみで、それ以外は、全てが2%以下、ドイツもオランダも1.2%、ベルギー、ハンガリー、スペイン、ルクセンブルグに至っては1%未満である。
 つまり、NATOに参加してきた欧州諸国は、米国の防衛力の傘の下で、安定と高い生活水準を維持してきたという事実は否めないのである。

 米国の大統領選から5日も経ないうちに、欧州では、外務相会議、防衛相会議が開かれ、今後の方針が論じられている。
 当面、欧州が確実に見ている見通しは、米国の経済の不透明感と、確実な防衛費カットである。今後、通商パートナーは確実に多極化し、防衛費への国庫投資は、他の公共投資、すなわち、公共インフラ、福祉、教育といった部門での緊縮財政を不可避のものにするだろう。

●地球温暖化対策への暗雲
 米国のみならず、欧州も含み、全世界的に経済先進諸国が緊縮を余儀なくされるのだとしたら、政治家の企業との融和は避けられなくなる。
 大統領選は7日にモロッコ、マラケシュで開幕した第22回国連気候変動枠組条約(COP22)会議の開幕直後のことだった。トランプは、地球温暖化に対してはまったく関心がない。関心がないばかりか、温暖化そのものを否定する発言すらしている。
 だから、メディアの上では、温暖化政策の遅れは、米国の気候対策からの撤退によって大幅に遅れることを恐れる議論が広がっているが、現実には、単に、米国の不参加だけではなく、トランプが大統領になることによって引き起こされる世界秩序の転換がもたらす世界の政治・財政状況が、それを後押しする兆しさえ見えてきている。今後、世界秩序において相対的に勢力を増し発言権を強めると思われる中国やロシアなどの大国が、地球温暖化問題とどう取り組むつもりであるのか、その意思が問われるし、欧州が、欧州連合として一致団結して地球温暖化対策を維持し強化することも、これまで以上に肝要となってくる。
 地球環境の健全化には、それによって誰よりも早く健康な生活環境を奪われる、 アジア、アフリカ、ラテンアメリカの後発近代化諸国、及び、先進国を含む地球上のすべての一般市民が、一層声を大にして対策を求めていく必要が、これまで以上に、しかも緊急に高まってきている。

◆◆ 日本は、、、

●すでに慢性化している日本の大衆政治
 トランプ当選のニュースを見ながら、日本人はこれをどう受け止めるのだろうか、と考えざるを得なかった。なぜなら、トランプ型の大衆政治は、安倍政権でも見られる通り、日本においては、決して新しいものではなく、すでに何年も続いてきた常態でさえあるからだ。トランプ当選のプロセスを、ヨーロッパ市民やアメリカの知識人階層が見ているように、「民主主義への脅威」という実感として受け止めることができる日本人がどれほどいるのだろうか。日本の一般有権者は、民主制の根本原理を実践の中で経験したことがあるのだろうか。そういう日本は、今起きている米国政治の体質変化、それに伴って起きる世界秩序の転換を、どこまで深刻に受け止めることができるのだろうか。

●アメリカの顔色ではなく世界情勢を読む時代:対米依存から多方向外交が求められる時代
 そうした、有権者の市民性の問題は一旦置くとしても、トランプ政権の誕生は、日本の経済・外交・防衛政策に、大きな転換を迫ることは明らかだ。少なくとも、戦後、ただ盲目的に対米依存だけで進めてきた政治は、すでに日本社会を救う上でほとんど意味を失っていることだけは確かだ。
 米国の経済が低迷し、防衛力を失い、世界秩序における覇権をロシアや中国に奪われる可能性が極めて高まってきている近未来に対して、日本は、真剣に方向転換を考えていく必要に迫られている。それは、国家の自立に基づく、対米依存から、多方向外交への変化である。米国の覇権崩壊の可能性は、1日でも早く予測して、対策のシナリオを持っていた方がいい。
 そうした事態にあって、高齢化社会と貧相な福祉、思考力や想像力を育てない公教育の実態、政治権力から独立していないジャーナリズムなどといった現状を見るとき、日本の行く末に希望を見いだすのは、率直に言って極めて困難だ。
 市民が、一人でも多く、世界事情に通じていること。また、地球規模での政治参加意識を持つこと。それが、限りなく厳しい世界状況の中にあって、国境を超えた市民の連帯的な運動という、唯一の希望につながるのではないか。

 (オランダ在住・教育社会研究家)


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