レイテ、セブ、25回目の鎮魂、慰霊の旅

【北から南から】フィリピンから(6)

レイテ、セブ、25回目の鎮魂、慰霊の旅
〜旧陸軍第一師団副官の松本實さん(94)

麻生 雍一郎


 太平洋戦争の終戦の日が近づいてきた。日本の新聞にはこの時期、戦争関連の記事が多く登場する。今年は戦争終結から70年という節目の年だから、新聞社によっては大型の特集を組むところもあるかもしれない。

 戦争の帰趨がほぼ決まりかけた1944年11月から約2か月間、日米の主力部隊がフィリピンのレイテ島で死闘を繰り広げた。時の内閣総理大臣が太平洋戦争の天王山と呼んだレイテ決戦である。このあと、1945年に入って沖縄戦があるものの、沖縄ではもはや日本軍に海と空の支配権はない。陸、海、空軍(日本の場合は陸軍、海軍航空部隊)を動員した最後の総力戦はレイテ戦であり、この戦いで太平洋戦争の勝負はついたといっていい。日本軍は8万の戦死者を出してレイテから撤収した。

 将校、兵の多くが亡くなったレイテ戦で九死に一生を得た旧陸軍第一師団副官の松本實さんは1967年以来、遺骨収集と鎮魂、慰霊の旅を続け、今年6月の訪比で25回目を数えた。筆者も先月、3日間にわたって松本さんに同行し、レイテ島とセブ島の戦場の跡を歩いた。オルモック、カンギポット、リモン山、タクロバン・・・。事前連絡をいっさいしなかったにもかかわらず、松本さんは行く先々で地元のフィリピン人の家庭に迎えられ、お年寄りから幼子まで3世代、時には4世代が集う家族から握手と抱擁と食事の、肉親を迎えるような歓迎を受けた。そこには半世紀にわたって1人の個人が培った友情と信頼の絆があった。

 一昨年、背中を手術したという94歳の松本さんは普段、杖を使っている。ところがレイテやセブの山の中の戦場跡に入ると、その杖を車の中に置き忘れて、上り始める。戦友の霊が呼んでいるのか、松本さんの気持を何かが突き動かしているのだ。砲弾が炸裂し、それまでずっと一緒だった参謀が5メートルも離れていない壕で即死したリモン山麓、足にけがをしたため、代わって斥候(せっこう)に出た兵隊が米兵に狙撃され、死亡した尾根—。「軍隊とは運隊(うんたい)だと痛感しましたよ。松葉杖をついていなければ、間違いなく私が斥候に出ていたでしょうから」

 約8万の兵が戦死、部隊の存続がほぼ不可能になった1945年1月、レイテからの撤収が決まった。迂回する残存部隊とともに、松本さんは杖をつき、足を引きずりながら山を下りた。夜陰にまぎれてセブからの上陸用舟艇、大発が接岸したが、乗りたがらない兵も多かった。ピサヤ海、カモテス海も敵艦船、潜水艦の支配下にあり、40キロ余り西のセブ島に無事に着けるとは思えなかったからだ。「軍旗を小さく切って、お守り袋に入れて、船に乗り込みました」。
 ところが皆が緊張している中で、1人、泳げない松本さんが船の中で居眠りをしてしまう。セブに着いてから「よく、あんな危ない中で眠れたものだ」とからかわれたというが、「疲労困憊して山を下りたので、まぶたがふさがってしまったんですよ」と語る。身体の摂理に逆らわない、この自然体が松本さんを生き残りの1人にさせたのかもしれない。

 生死を分けたものの一つは塩だったという。戦闘による死亡だけでなく、険しい山稜を上り下りする中で脱落する兵も多かった。「私は油紙に塩を包んで携帯していました。上り坂で足が動かなくなっても、油紙を開いて塩をなめると、また足が動いて、前へ進めました」。
 日米の主戦場となったリモン峠には第一師団の木の慰霊碑が立っているが、慰霊碑には蔓草がまきつき、周りは夏草がむなしく繁っていた。取り払って整地した後、靖国神社からのお神酒を供えてかしわ手を打ち、続いて浅草の観音様の写真を添え、線香をあげて拝んだ。

 1万2000を数えた第一師団のうち、セブに脱出できたのは700人。セブで抵抗した生き残り兵が降伏したのは、終戦後の8月28日だった。今でこそレイテ島やセブ島の小さな町にも宿泊施設ができたが、半世紀前にそんなものはなかった。戦争に巻き込まれて犠牲者を出した家庭も多かったのに、遺骨収集や慰霊に訪れた松本さんを地元の家庭が泊めてくれ、食事を作ってくれた。世話になった家庭の子供が大きくなり、結婚し、子供ができた。3世代、4世代の家族が集まった部屋で、目を細めて幼子を抱擁する松本さん、その様子を目頭を押さえながら見守る老女。「来年、95歳になっても来て下さいよ」。言葉にならない、心と心の交流の光景があった。

        ◇    ◇    ◇

 大岡昇平著『レイテ戦記』などを読むと、マニラ方面軍報道部は米軍のレイテ上陸当初、報道班員がレイテに行くのを禁じた。ところが10月28日になって不意に渡航を許可した。朝日、毎日、読売、共同など10人が到着した。陸揚げした無線機は爆弾ですぐやられ、上陸の第1信も発しないうちにつまずいた。それでも記者たちは原稿を書いた。1人、朝日の記者だけが送稿できた。不時着した陸軍の飛行機に託し、マニラへ届いたのだ。レイテ島発として掲載された。「爆弾も砲弾も戦車も敵が遥かに優勢である」とある(戦果を誇大に発表する内容が多い中で、まだこんな記事を掲載できたのだ)。10人のうち、生きて帰れたのは4人だったという。
 松本實さんに同行して、いま、このルポを書いている。おそらく掲載されるだろう。取材し、書き、新聞に載る。その当たり前のことが70年前は当たり前でなかった。原稿を送る手段はなく、生命まで奪われた。新聞記者もまた多くの兵士と運命を共にしたのだ。戦場となった山野を歩きながら先輩記者たちの無念を思った。

 (筆者は日刊マニラ新聞セブ支局長)


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