【コラム】宗教・民族から見た同時代世界

ロヒンギャを追い出したあとに仏教徒どうしが新たな対立はなぜ

荒木 重雄


 イスラム系少数民族ロヒンギャの迫害問題で揺れるミャンマー西部ラカイン州で、今度はなんと、仏教徒ラカイン族と治安部隊が衝突する事件が起こった。 報道を総合すると、1月16日、ラカイン族の住民約5千人が、ビルマ族王朝の侵攻で18世紀に滅亡したラカイン族の王国「アラカン王国」を追悼する行事を開いていたが、開催許可がないとの理由で警察が解散を求めたところ、反発した住民が暴徒化して、政府施設を取り囲み、投石のはて、乱入して州旗を掲げるなどの行為に及んだため、治安部隊が発砲して、住民9人が死亡し12人が重軽傷を負う事態になったという。

 群衆は「州の主権」を要求していたといわれる。また、この日、ミャンマーとバングラデシュ両政府は、バングラ側に逃れたロヒンギャ難民を23日から帰還させることで合意し(のちに延期)、地元住民は「土地を奪われる」との危機感を深めていたといわれる。

◆◆ 仏教徒にも少数派と多数派

 昨年8月以来の、一説では死者6千700人超、バングラデシュ他の国外に逃れた難民は65万人に及ぶとされるロヒンギャ迫害は、国際社会から「民族浄化」と非難されたように、地元の仏教徒ラカイン族と、同じく仏教徒であるビルマ族主体のミャンマー国軍が連携しての「ロヒンギャ追い出し作戦」のように傍目には見えていた。ところがじつは、仏教徒どうしとはいえ、ラカイン族とビルマ族の間にも微妙なしかし根深い対立・葛藤があったのだ。

 その事情は、上記の事件報道の中にも、「アラカン王国の追悼」や「州旗」「州の主権」の語句に見え隠れしている。ラカイン族(旧称アラカン族)とそのアラカン王国の歴史からそれが意味するところを探ってみよう。

◆◆ アラカン王国は栄え滅んだ

 ミャンマーは、その地形からみると、イラワジ河流域の平野部を多数派のビルマ族が占め、平野を囲む山岳・高原地帯に、西から時計回りでラカイン、チン、カチン、シャン、カヤー、カレン、モンなど、名目上の自治権と州名をもつ少数民族が住む。ラカイン族が住むラカイン州は、平野部からはアラカン山脈で隔てられてベンガル湾に面し、バングラデシュのチッタゴン地方と接する地域で、ここには独自の王国がつくられてきた。

 そのアラカン王国の創設は、ラカイン族の民族史によれば紀元前3325年に遡り、インドのある国の王と牝鹿の間に生まれた男児の築城にはじまるとの伝説もある。遺跡出土の碑文によると、5~6世紀にはヒンドゥー教のシヴァ神が、7~8世紀には大乗仏教が盛んに信仰されていた。

 この王国の黄金期は大航海時代と重なる15世紀半ばから17世紀半ばまでで、アラビア、ヨーロッパから東南アジア海域をつなぐ中継貿易で大いに栄えた。この時期、広域海上貿易を担ったのはポルトガルやオランダと併せイスラム勢力であったことから、イスラム文化の影響を強く受けて、仏教とイスラムに基づく独自の文化を育てた。

 ところが、1785年、勢力拡大をはかるビルマ族のコンバウン朝がアラカン地方を征服して領土に収める。しかし、このビルマ族の拡張主義は、すでにチッタゴンを支配していたイギリス東インド会社の領域と接することになり、1824年、第一次英緬戦争が勃発する。敗れたビルマ側はアラカン地方を他の地域と併せて英国側に割譲。やがてビルマを丸ごと手に入れた英国植民地政策のもと、アラカンの民は、ビルマの一部に包摂されて生きることになった。

 第二次大戦後、独立したビルマでは、ビルマ族中心の中央政府に対して、大幅な自治権や分離独立を要求する各少数民族が武装組織をつくって対抗。1960年代にはラカイン族も、カレン、シャン、カチン、チンなどの少数民族と並んで熾烈な分離独立戦争を戦った経験をもつ。

◆◆ 重層するアイデンティティ

 ラカイン族やラカイン地方の歴史に紙幅を割いたのは他でもない、同じ仏教徒とはいえ、少数民族のラカイン族と多数派ビルマ族との間には、歴史的ルサンチマン(怨念)やプライドを含め、ぬきがたい感情の壁があるのだ。目の前の憎悪や利害衝突の対象であるイスラム教徒ロヒンギャを放逐するまでの間は、両者は、仏教徒どうしとして協調できた。しかし、共通の敵が無力化すると、今度は仏教徒どうしでありながら、歴史的経緯や民族意識が対立感情をうむ。アイデンティティとは蓋し幾重もの次元があって状況により変化するものである。

 とはいえ、このたびのラカイン族による暴動の背景には、ロヒンギャの帰還によって再び彼らと共存しなければならなくなる嫌悪感や、とりわけ土地争いの再燃、すなわち、せっかくロヒンギャを放逐して取り上げた土地を再び返還しなければならなくなるおそれという、きわめて現実的な損得勘定も働いていよう。

 事実、治安部隊による組織的な掃討作戦が終了したとされる昨年9月以降も、住民が逃げ去ってすでに無人となった100に近いロヒンギャの村が仏教徒住民の手によって焼き払われたことが報じられている。仏教徒ラカイン族のロヒンギャに対する思惑の如実な表れといえる。
 土地については、19世紀、英国の植民地政策によって、伝統的に仏教徒の地主が継承してきた農地がイスラム教徒の労働移民にあてがわれたことが、仏教徒とイスラム教徒の対立関係の契機になったとの指摘もある。

 「仏教徒がイスラム教徒に手を上げるところを見たならば、仏陀はイスラム教徒の側に立つだろう」とは、ロヒンギャ迫害の報に接したダライ・ラマの言だが、宗教がどうとあれ一筋縄ではいかない現実がある。

 (元桜美林大学教授・オルタ編集委員)

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