■【エッセイ】

ヴァージニア、ウルフ「3ギニー」をめぐって(2)   高沢 英子

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 1920年から30年にかけて、西欧世界は、いずれ再び直面するのではない
か、という戦の予感の渦の中にあった。第1次大戦終結からすでに十数年経ち、
ドイツとイタリアでは、ファシズムが台頭し、周辺の国々を脅かし始めていた。
当時、危機を避けようとする意志はどの大国にもあった。1922年ワシントン
で開かれた海軍軍縮会議には米英仏伊4カ国に日本も参加しており、1930年
(昭和五年)ロンドンでも同じメンバーで海軍軍縮会議が開かれ、条約締結が成
されているのは周知の事実だ。

 しかし、今ここで歴史に深入りするのは、本筋ではないので、ひとまずさしお
いて、そんなさなか、「戦争を未然に防ぐ手伝いをしてほしい」という知人の男
性への返信、といった形で書かれたこの長文の論説で、ウルフは、多年胸に溜め
ていた男性優位の父権制社会への鬱憤を、繰り返しきわめて理路整然と吐き出す
のである。

 とはいえ文体は慎重に練り上げられ、ウルフ文学の特徴とも言える螺旋を描き
ながら、ゆっくりと進行する。言わんとするところは一貫して女性の、特に有能
であったかもしれない女性に対する不当な権利剥奪という屈辱に満ちた歴史の告
発と、そうした事態の改善要求、いいかえれば、社会における女性の人間性立場
の擁護。それなくして女性が「戦争を未然に防ぐ手伝い」などはできない、とい
うのがその論旨の建前だった。

 しかし、こうしたウルフの要望は、実は簡潔で明快なものであるにもかかわら
ず、これまでの経緯を分析し、歴史的な道筋を男性社会にはっきり示し、且つ今
後の変革について真の理解をうるための手順となると、手短に簡単にというわけ
にはゆかない。

 ウルフは今度こそ男性を口先ばかりでなく、ぎゅうと言わせて世の中をそっく
り変えるところまで話を詰めなくてはならない、と真剣である。彼女は戦争回避
のために女性の働きを期待するならば、まず女性が男性と平等に大学で学ぶ機会
が与えられる事を求める。

 「私だけの部屋」で始めてこの切実な要求を述べて以来の一貫した主張であ
る。そうすれば、女性も戦争の原因を理解できるようになるのだから、戦争の防
止に協力もできるようになるだろうと、女子コレッジでの教育を改善する委員会
に1ギニーを寄付した理由を説明するのである。

 さらに職業の機会均等と待遇の平等の要求、それらが有史以来女性に閉ざされ
てきた不当を訴え、自立なくして自己の意見を持ち得ないから、まずそれを獲得
するための活動組織に1ギニー。さらに、世界の平和と人権擁護の活動に1ギニ
ー、の献金、という現実的で一見つつましやかな枠組みを作って論旨を進めてゆ
くのである。

 100年後の今日、ウルフの出した女性の権利要求は、世界の文明国におい
て、おおむね実現しているといってよい。教育の分野や、職業の分野での男女の
機会均等、権利の平等はいまや法制度のうえでは、文明社会の常識といっていい。
 
では現実状況はどうなのか。たとえば、果たして女性が戦争を防止し、女子供
の生きる権利を守りうるほどの力をもちえているであろうか?少々飛躍するかも
知れないが、主要各国を暗黙のうちに縛っている核の存在を思い浮かべるだけ
で、絶望的な気持ちにならずにいられない。

 さらに、より切実な具体例として、今年日本を突如おそった不幸な天災で、結
果的に惹き起こされた放射能の脅威に対して、ひとが今しなければならないこと
は、そして今できることは、と考えると、確かにいまや人類の運命は、男性の力
や知性だけを頼ってのんびりしていられる事態でないことは明らかである。

 ウルフがすでに指摘しているように、ここでも大きく立ちはだかるのは男性が
生来的に持っていると考えられる好戦的な本能ではないだろうか。表面的には平
和な現代、男の子たちの頭と魂を鷲攫みにしているおもちゃや映像は、あいも代
わらず戦いのスリル満載だ。正義によって悪を挫く、という美名のもとで繰りひ
ろげられる暴力礼賛。地球は美しく平和であるにもかかわらず、宇宙には危険で
邪悪な悪の魔力が充満しており、いつなんどきでも「美しい地球」を攻め取ろう
と虎視眈々と隙をうかがい、襲い掛かってくる。

 架空の宇宙のどこかの星から、奇奇怪怪の得体の知れない宇宙人の魔の力が攻
め寄せてくるという図式の下で、多くの物語が進行し、ブームとなる。映像の進
化のおかげで、破壊力はめざましい力を発揮し、なにもかもが巨大化し、知能化
し、大人(男性)も子供も手に汗を握って、これでもか、これでもか、と繰り広
げられる壮大で残虐きわまりない破壊シーンに没入し、映画は評判を呼び、空前
の大ヒット。

 男の子は戦いと破壊を取り入れたおもちゃと遊びにまるで夢中である。母親た
ちには、それを防ぐ力はない。戦い礼賛は、人間性の自然の発露であるから、と
どめるのはかえって不自然、という事情があるのでやむをえない。運動会で1等
賞を決めて褒美を出したりするのを禁止したりしてみても、スポーツの世界で当
然の如く優劣が争われ、勝利をかちえた英雄たちを、マスコミが真っ先に音頭を
とって手放しで礼賛し、ひとびとを熱狂させている。

 ウルフの言い草ではないが、みんな日常はきちんとしていい人たちばかりだ。
この矛盾はどう考えたらいいのか、などと戸惑っているのは馬鹿か、変わり者
で、一般には通用しない。最近では、女子サッカーの勝ち負けに、国を挙げて狂
喜し、歴史上初めての地震と津波による大災害と、じわじわと国土が放射能汚染
にさらされている現実からあえて目をそらして、成せばなる、「日本はひとつ」
「頑張れ日本」と力む。

 しかし、私たちの世代は、いまだ記憶に生々しい六十五年前の大戦中の「一億
一心」という標語がそぞろ思い出されて、これらの言葉は余り居心地よく心に納
まらない。

 脱線ついでに言うと、当時も今も信じがたい銃後の防災訓練の数々。竹槍作
戦、バケツリレーなどが次々想起され、この国の男たちはいつになったら現実的
になれるのか、と絶望的にもなる。欲しがりません勝つまでは、と胸を張るのが
よい子とされたあの頃、10代の少女だった私は、浮き足立ったこうした動きを
つぶさに見、聞き、終戦を迎え、戦後を生きてきた。

 感情的でヒステリカルというレッテルで押し込められてきた女性のほうが、現
実的で自分の感情や、感覚により正直でいられるというのが事実ではないか。そ
れは多分に女性が産む性であり、育てる性であるから、ということと関係がある
に違いない。

 再びウルフに戻ろう。女性には祖国などはない、と言い切り、いわゆる愛国心
に疑問をさしはさむウルフは、女性が長年イングランドの財産獲得に何の関与も
させてもらえず、私有財産の所有すら許されていなかった、という現実的な状況
に立脚し、また、たとえば、女性がもし外国人と結婚したならば、彼女の祖国
は、法的にその男の国ということになるではないか。

 これでは愛国心の所在も変わらざるをえない、と、長年法の名において女性を
従属的な立場に縛り付けてきた男性社会の身勝手さをやんわりと揶揄してみせ
る。明快で、直接的でわかりやすく、精神などを持ち出して話をややこしくしな
いすべを心得た老練な小説家の手口である。今更ウルフなんて、といわないで読
み直してみるのは、特に女性にとって、心を鍛える意味で役に立つだろう。
 
  また、この論説に先立つ1925年、ウルフが発表した小説「ダロウウエイ夫
人」は、舞台は1923年のロンドンの一日だが、このなかに彼女が生々しく描
き出す第一次大戦前後の不気味な記憶は注目に価する。女主人公ダロウウエイ夫
人クラリッサの分身のように描き出される、セプティマス・ウオレン・スミスと
いう戦場帰りの青年の絶えず死と向き合う心理描写は、この世紀の不安と恐怖を
ことさら不気味に生々しく再現する。

 親友の死を身近に体験し、戦場から帰って以来、心を病み、周囲の手厚いケア
の手をすり抜け、心を捉えて放さない幻影から逃れて苦しみを解決するために、
自殺という手段を取った青年。彼の死のニュースはその夜、ダロウウエイ夫人ク
ラリッサが開いたパーティに出席した医師の口から語られる。

 「ああ、私のパーティのまっただなかに死が入り込んできた、と彼女は思っ
た」。それに続くクラリッサの死に対する独白は、独特の感覚描写で読者の心を
かき乱す。彼女は、青年の死にたいして危険な共感さえ抱いているのである。意
識的には、反戦の意図などおそらくなしに書かれたこの挿話の不気味さが、か
えってあの大きな戦いの後で、時代の人々の心を蝕む傷の深さと、社会全体に漂
う不安を浮き彫りにする。

 「女性には祖国などは無いのです。あえていうならば、女性としては全世界が
祖国です。人間のすむ平和で平等な世界なら、どこでも生きられます。この際愛
国心など持つことに何の意味がありましょうか」。という大胆な発言を、わたし
たちは、再考してみる必要があるかもしれない。

 そして「日本は一つ」「頑張れ日本!」等々の勇ましい掛け声で、心を昂揚さ
せようとする動きに、安易に同調するまえに、現実を直視し、さしずめ必要な知
識を集め、自分たちにできること、しなければならないことを調べてみる冷静さ
が、ほんとうに必要なのではないか、と思わずにいられない。

       (筆者はエッセースト・東京・大田区在住)

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