ヴァージニア・ウルフ「私だけの部屋」をめぐって(1)

■【エッセイ】

  ヴァージニア・ウルフ「私だけの部屋」をめぐって(1)  高沢 英子
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  「ほんとうに意味のあることが起こるためには、女性は周辺的存在ではなく中
心的な存在であることを理解しなくてはならない。女性は自立しなければならな
いが、それは養育と自己保存の本能をも含むものでなくてはならない。これは男
性に対抗することでは成し遂げられず、真の問題はそこにある。現代のフェミニ
スト文学の多くに私があまり夢中になれないのもそのためだ。あれかこれかでは
ない。女性対男性ではありえない。

 それは女性が男性とともに、あるいは単独で、真実の自己を発見するのでなく
てはならない」 アメリカの女流詩人メイ・サートンは、1974年,63歳に
なった時、ヨーク州の海辺の家で、日記にこう書きしるした。

 フェミニスム、またはジェンダー問題、この人類永遠のテーマについて、果た
して納得できる新しい展望の可能性はあるのだろうか?サートンのいう「真実の
自己の発見」は、女性にとって決して生易しい道ではないのはなぜか。生涯独身
を貫き、際立って自立の生涯を送ったメイ・サートンが「現代のフェミニスト文
学に夢中になれない」、という述懐は、この問題の一筋縄ではいかない難しさを
示唆している。そして、これは、日本でもさほど新しいテーマではないし、歴史
の中で、常に避けては通れない社会問題として、多くの勇気ある女性達が、ある
程度成果を収め、あるいは傷ついて倒れ、などして歩んできたのも事実である。

 しかし、近代になって、それまでは、どちらかといえば、個人的な狭い範囲の
世界での出来事にとどまっていたものが、急速に社会問題として浮上し、政治を
動かし、現実社会の枠組みを大きく変えた。けれども、男女を問わず、人々の意
識の底には、いまだにその真の意味を明確に把握できない何かがくすぶり続けて
いるのも事実である。前掲のサートンの記述に、どこか歯切れの悪さを感じさせ
られるのも、そのせいではないだろうか。

 二十世紀に入り、二つの世界大戦を経て、世の中はすっかり変わったように見
える。日本も、女性の地位は法的には言うに及ばず、社会構造上でも劇的な変化
を遂げた。お金も友人も不自由しない単身女性たちがどんどん増え、自分の老後
も自分で賄おうとがんばっている。しかし、これが本来女性のあるべき理想の姿
だろうか。最近社会学者の上野千鶴子さんが書いた「おひとりさまの老後」がベ
ストセラーになった。著者は頭のいい人だから、これが理想、などと決して口走
ったりはしない。

 只、こうすれば楽しいよ、という数々の提言をし、細部にわたってぬかりはな
い。しかし、この本に登場する多くの女性たちは、一見、目覚しく解放されてい
るように見えるが、ほんとうに精神的に成熟し自立しているのだろうか、という
疑問は残る。実際、彼女達が真実に、自分らしく生きている、とは簡単に認める
ことはできないし、著者自身もそうは考えていないという気がする。社会学者
で、心理学者でもない女史にそこまで掘り下げてもらうのは見当違いとしても、
やはりこの問題の根は深く厄介なのだ。

 さておよそ1世紀ほど前の1928年、イギリス二十世紀最大の作家といわれ
るヴァージニア・ウルフが、ケンブリッジにあった二つの女子大、ニューナム・
カレッジとガートン・カレッジの同好会で、一つの講演をしている。あらかじめ
書かれた原稿を読み上げるという形で行われた講演録は、一年後さらに書き加え
られて「自分だけの部屋」(原題はA room of one‘s own)という題名で出版さ
れた。ウルフ47歳の時のことである。副題は「女性と小説」となっているが、
この副題はもともと講演依頼側が求めた題名で、「自分だけの部屋」と言うの
は、ウルフが付けた演題であるという。

 論文というより、エッセーに近く、エッセー小説風の描写スタイルで、それま
で暖めてきたテーマが一気に噴出した、といった強い情熱がひしひしと伝わって
くる作品ではあるけれども、そこは熟達した小説家らしく、具象的で、実際的で
あり、ふんだんに散りばめられた辛辣なジョークに思わず笑いも誘われる。従来
の男性優位思考に対する、手厳しい皮肉と嘲笑と諷刺をからめた論詰が、とぼけ
た表現の随所に潜んでいるので、聞き手の若い女性たちはさぞ胸のすく思いを
し、会場に笑いの渦を巻き起こしたに違いない。

 巻末の解説によれば、彼女を招聘した女子学生同好会のひとつは「アーツ・ソ
サイェティ」というグループであり、あとのひとつは「「オドゥター・ソサイエ
ティ」という名称を持つグループだった。このオドゥターという言葉は、この当
時(1920年代)学生の間に流行した言葉で
“one damn thing after another"(「次から次へとむかつくことばかり」)の
頭文字をとったもの、ということであるから尚のことである。

 紳士の国イギリスの結構過激な女性蔑視の伝統、また人類全般の女性劣位の歴
史的実例、さらにイギリス文学や芸術全般の該博な知識から導き出された男女格
差の諸相などなどを適当にピックアップしながら、そもそもそれらの論理の根拠
はどこにあるのか?格差を是認してきた男性社会、言い換えれば家父長制度を支
えてきたこれら数々の理由付けの根拠に果たして真実性があるのかどうか?と問
いかける。  

 一世紀前とはいえ、この講演は、今読んでも決して古びてはいず、事の核心を
見事に穿ってみせ、長い歴史の中で女性が置かれてきた立場を、鮮やかに白日の
下にさらけ出してみせる。そして最終的に彼女が勧める現実的で実際的な提案
は、ウルフ自身も予見しているように、百年後の今日、ほぼ実現されたかに見える。
 
  つまり、女性の地位は、殆ど男性と肩を並べるほど向上し、すぐれた資質を
もった女性の社会進出は目覚しいものがあり、彼女たちは多くの権限と自由と経
済的実力を手にしている。にもかかわらず、これもウルフがすでに危惧している
ように、こうした男女の格差是正によって、問題がすっきり解決されたわけでは
ない。

 この本は わが国では比較的早い時期、昭和15年に邦訳され「私だけの部
屋」という題名で、昭和二十七年に新たに新潮文庫に納められた。その後何冊か
訳書が出ているが、今回は、1984年に刊行された「私ひとりの部屋」村松佳
代子訳(松香堂)を参照した。

 天成の小説家だったウルフは、問題の取り組みにあたって、敢えて理論的決め
付けはせず、むしろ巧みな虚構描写の手法で、ゆるゆると説きすすめる。決して
女は第二の性である。既存社会で、女になるべく作り上げられるのだ!などと喚
いたりはしないけれども、暗示を駆使しての手厳しく大胆な男女差別への告発に
は、目を啓かされるものがある。

 慎重に、章の終わりでは自説を幻想的妄想などと表現してみせているのは、当
時の男性批評家陣の風当たりを考慮したものであろうが、あくまでも女性の側に
立っての論説は、決して妄想の類いと思えないし、非常に切実で説得力があり、
また-ひとの心というのは何という走馬灯、千差万別のものごとの合流点なのだ
ろうー(ヴァージニア・ウルフ「オーランドー」)と書いた作家ならではの真実
味と詩情に溢れている。

 全体は六章に分かれ、かなり長いものである。非力な為、このユニークな作家
の持ち味を、どれほど生かして御紹介できるか心もとないが、いささかでもこの
問題に関心をお持ちの方の参考になれば幸いと思う。内容の具体性もさることな
がら、そのひとつひとつが奥深い考察を含んでいるため、味も素っ気もない要約
にして作品の持つ絶妙な滋味をお伝えできないのは、返す返すも残念であるが、
やむをえない。まずは今回この論稿の序章ともいうべき、第一章の紹介からさせ
ていただくことにしよう。  

 舞台は、どこか都市近郊の架空の大学構内である。著者の分身である女性リ
ポーターが、川のほとりで出された講演課題について沈思黙考しているうちに、
じっとしていられない心の高ぶりを覚え、大学構内の広々した芝生を突っ切ろう
とする。しかし、女性の身で、研究員でもないという理由で、大学のマナー係り
に、犬のように追い払われる。

 続いて図書館に入ろうとした彼女は、黒いガウンをはためかせて入り口に控え
ている係員に、丁重に、研究員の同伴者であるか、紹介状を持たないと入室は無
理だと拒否されてしまい、チャペルから流れる荘重なオルガンの調べと(女の目
から見れば奇怪至極な扮装をした)老教授たちの行列を尻目に、すごすごと引き
揚げる。

 実は、彼女はその日この大学の午餐会に招かれていた。文中で、申し分のない
豪華な料理の幾皿かが披露され、乾されては充たされるワイングラスと従者た
ち、エリート紳士を自認する男性群の寛ぎの有様が、こと細かに描かれる。「次
第に魂のありかである背骨の中ほどが明るくなったが、それは才気走った言葉が
口をついて出るときに放つような、どぎつくてけちくさい裸電球の光とは違っ
て、もののわかった精神同士がまじわるときに生れる豊かな黄色の光―はるかに
深遠で、微妙で、底に潜む煌めきであった。急ぐ必要はない。異彩を放つ必要は
ない。

 自分以外の人間を装う必要はない。・・人生はなんと素晴らしいものか、その
報いはなんと甘美なことか、この恨み、あの不満はなんと取るに足りぬことか、
友情や自分に似た境遇の人々との交際はなんと称讃すべきものか・・・ひとはタ
バコに火をつけ、窓下の腰掛でクッションに身を沈めているときそう感ずるので
ある」このさりげない描写のうちに、実はどれほどの恨みつらみが潜んでいるか
は、女性ならでは判らないかもしれない。

 さて、この女性リポーターは、その夜は女子大寮の晩餐会に出席する。建物は
打って変わって簡素で、つつましい料理の中身がくわしく描かれるが、両者の差
は歴然としている。なぜ女性は歴史的にかくも差別され、物質的貧困と精神的貧
困に置かれてきたか?この格差は何なのか?貧困は精神にどう影響するか?反対
に、富は精神にどう影響するだろうか?彼女は、現実に、思いつくかぎりの事象
を手がかりに、調査と考察に乗り出そうと決意しつつ、夜更けのホテルに引き揚
げるのである。(つづく)

           (東京都大田区在住・エッセースト)

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