ー労働組合研究と無教会キリスト教

■藤田若雄の足跡をたどって

--労働組合研究と無教会キリスト教--   木村 寛

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◇1.はじめに

 知る人ぞ知る藤田若雄(1912~1977)について簡単な素描を描いてみ
たい。藤田は矢内原忠雄門下の三世代目(内村鑑三から数えて)無教会キリスト
者であった。彼には二つの著作集、労働組合研究の『藤田若雄著作集』1983
(三一書房)全四巻と、『藤田若雄キリスト教社会思想著作集』1983(木鐸
社)全四巻とがある。藤田に関する研究書には大河原礼三『藤田若雄研究ノート』
-キリスト教社会思想の探求-2000(木鐸社)がある。
 
心情的傾向の強い無教会キリスト教の中にあって、藤田の特徴は労働組合の調
査研究を自身の職業課題(東京大学社会科学研究所)としたことであり、これは
敗戦直後の住友鉱業における職員組合の委員長(1946.1.10から退職
(1947.5)まで)としての原体験に始まる。この原点は矢内原門下の誰も
持っていないだけでなく、無教会の中で探したとしても皆無であろう。藤田の親
友渡部美代治は「貧者弱者に対する本能的同情を藤田が持っていた」と記してい
る(『藤田』192頁)。
 
藤田は「無教会信徒の世代的差異」(『信仰と生活の中から』1958、東京大
学出版会、東京大学聖書研究会による矢内原への献呈文集、『キリスト教著作集』
第一巻80頁、藤田『矢内原忠雄』1967、教文館193頁にも所収)の中で、
「無教会の人々が労働組合運動に反感を持ちつつ資本家の政策に順応してきた」
と批判する(原島圭二『三一著作集』第三巻月報)。
 
藤田は信仰は信仰、職場は職場と分けて器用に生きるキリスト者(藤田はこれ
を「人格分裂」と言う)を嫌った。藤田は信仰によって生涯を貫く人生を求め続
けた(矢内原五周年記念キリスト教講演会、1966「礎をすえるもの」、同名の
本所収72頁、1970、福村出版、『革新の原点とはなにか』1970、三一書
房付録2、172頁、『三一著作集』第一巻81頁にも所収)。それだけが日本に
礎をすえることができると確信していたからにほかならない。藤田は自分の集ま
りの中に農民や現場労働者が参加していることを誇りにしていた。
 
藤田の主張は「職場で重荷を負え」であった(『三一著作集』第四巻の月報、拙
稿「支配の構造が見えてきたか」)。こういう明確な主張(ある意味で宣教)を打
ち出した教会人あるいは無教会人がかつて居ただろうか?このメッセージは職場
(労働組合問題)と重荷(キリスト教的理解)とが緊密に結合したものであり、
三世代目無教会キリスト者として課題を限定した藤田の真骨頂を示している。藤
田は誰よりも実践的であった。
 
「生きた宗教性(私見、ポテンシャル)は生きたエートスを作り出そうとする」
(マルチン・ブーバー『隠れた神』著作集第五巻、三谷、山本、水垣訳、196
8、みすず書房132頁、なおこの箇所の教示は稲村秀一『マルチン・ブーバー
の研究』2004、渓水社228頁による)ことから言えば、藤田の信仰には生
きたエートスを生み出すものが濃厚にあった。
労働者にとって職場はある意味で「戦場」ではないのだろうか。「職場に労働組
合を」というのが戦後労働運動のスローガンだった。
 
松沢弘陽(丸山真男門下)によれば、「藤田の職場という言葉には「イエス・キ
リストに従って十字架を負う生き方と、この世の秩序や利害関係とが、最も深く
抜き差しならぬ形でぶつかりあう場」という意味が終始はっきりしていた。別な
面からいえばそれは、日本の知的風土に根強い抽象的一般論崇拝、自分が立って
いる足元の具体的問題における鈍感・無責任・逃避という傾向に対する鋭い批判
を含んでいた」(『職業』199頁)。
藤田は労働組合の実態調査を行ってその中から現実把握と進路をつかみ取る方
法論を駆使してきたから(ある意味で実験屋)、「大塚史学は後ろ向きじゃ」と
罵るように甥の若い伊藤邦幸に言い聞かせた(伊藤『藤田』302頁)のもうな
ずける。
 
藤田は『労働組合運動の転換』(1968、日本評論社)から『革新の原点とは
何か』(1970、三一書房)で、「誓約集団論」を主張する。一方で「内村鑑三
を継承した無教会二代目の人たち」の戦争中の言動に対してキリスト教社会思想
的研究を有志たちと行ない、藤田編著『内村鑑三を継承した人々』上『敗戦の神
義論』、下『十五年戦争と無教会二代目』1977(木鐸社)が没後出版された。
この本は無教会の中で好評をもって迎えられなかったらしい。 無教会は師弟関
係を中心とするから、自分の師を批判しないという暗黙の了解が日本的雰囲気と
してある(自分に合わないと思えば離れる自由はある)。しかし藤田は無教会のタ
ブーめいたこの一点を突破しないと無教会に前進はないと見ていた。
 
信仰者の言動がいくら心情的純粋性に基づくものであるとしても、それが持つ
社会思想的側面を覆い隠すことはできない。二代目無教会キリスト者の人たちも
また、この思想史からの問いかけに対して自由ではありえない。信仰の世界は現
実世界から遊離したものではなくて、少なくともその世界の一部は現実世界の中
に貫入しているからである。
「心情倫理(私註:信仰の世界の主観的意図)と責任倫理(私註:現実世界に
おける客観的成果への責任)のかい離という二律背反に耐えて、矛盾なく生きよ
うとすると非常に難しいのです」と中村勝己は言う(『現代とはどういう時代か』
2005、江ノ電沿線新聞社、68頁)。

◇2.労働組合研究
戦後、雨後の竹の子のように発生した「労働組合」の実態を明らかにする研究
が東京大学社会科学研究所を中心に行われた。1950年代の労働組合論につい
ては、氏原正治郎が『藤田』(40~125頁)にまとめている。
その調査に参加していた藤田には労働組合での「原体験」があった。「住友鉱業
で敗戦を迎えた藤田は、戦後の動乱期に職員組合委員長として大活躍をし・・・
そうこうしているうちに藤田の動きはけしからんという動きが係長の中から出た。
会社の考えは藤田は係長だから、会社を助けて鉱員組合を負けさせるべきだ。し
かるに中立面して鉱員組合を勝たした。会社側は勝てるのに藤田が居たばかりに
勝てなかったということから、私の悪口を言うのがたくさん出てきたのです。課
長や係長が本社の石炭系最高重役(専務)に訴えて藤田追放が始まるのです。・・・

突然、第二組合が旗上げした。調べさせたら、職員組合員のほとんどが向こうに
行っている。大変びっくりした。それから戦いが始まるが、結局私は勝ったので
す。十月闘争と二・一ストへ世の中が昂揚していく波に乗っていたからね。その
時に、以前に見ていた忠誠と反逆が、組合運動の中ではどういうふうに出てくる
かがはっきり見えたのです。(藤田『第二組合』1955、日本評論社参照)・・・
しかしその時ひそかに辞職を決意した。私を傷つけまいとして安井富士三さんは
ずいぶん苦労したようでした。私はこの人に対してはっきり責任を取ろうと考え
た。1947年5月住友鉱業退職」。(『回想』154~157頁) 
1949年3月東京大学社会科学研究所に就職する(36歳)。
1959年、大河内一男、氏原正治郎、藤田の共著『労働組合の構造と機能』
東京大学出版会が出版されるが、この本の序章「理論仮説と調査方法」は藤田が
執筆したものである。「年功制度」は藤田の造語であった。
 1961年5月に同出版会から出版された藤田の『日本労働協約論』は信仰の
師矢内原忠雄に献呈された。
 
松沢によれば、「東京大学社会科学研究所の同僚の間でも学界でも、藤田はしば
しば軽んじられていた。学界のタブー-例えば労働運動や学界への日本共産党の
介入とその責任のごまかし-にも遠慮なく踏み込むために、忌避されることも稀
ではなかった。そのような評価を受けながらまた万年講師という不利な条件に置
かれながら、一貫した関心で多くの仕事が産み出されている事実に私は驚き、学
界で羽振りがよく藤田を軽んじる人々と、どちらが真の意味で学問的に生産的か、
いずれ事実が証明するだろうと思った」(『職業』196頁)。
 
鼓肇雄によれば、「藤田さんは自分の方法論を確立するに当たって、マックス・
ヴェーバーの方法論を大いに参考にされたようである。しかし、藤田さんはこの
ことをひた隠しに隠していた。マルクスの理論が自明の前提となっている労働問
題研究者の間でヴェーバーなど持ち出したら、村八分の目にあうだろうという、
藤田さん独特の被害者意識が強く働いていたのではないかと思う。私が「先生の
方法論はヴェーバーでしょう」と言った時、藤田さんはいささかショックのよう
であったが、それからは観念してか、ヴェーバーに依拠していることを積極的に
表明されるようになった。誓約集団、キルヘとゼクテについて、晩年の藤田さん
は情熱を込めて語った」(『藤田』149頁)。
高橋克嘉によれば(『イギリス労働組合主義の研究』1984,日本評論社、序
章)、
 
「大河内一男らによる一連の調査から「企業別組合」が発見され、西欧の労働
組合を念頭においていた労働組合法制定に関係した人たちにとって思いがけない
驚きであったろうが、・・・ここで注目すべきことは、すでにこの日本的労働組合
の発見の当初から、大河内氏がこの「企業別組合」につきまとう旧い身分的観念
や経営に対する物的依存を組合の未成熟とみて、当面の組合に(政治活動への進
出や「街頭化」への傾向の前に)「何よりもまず労働組合活動における近代的精神
を打ち樹てる」ことを求めていたことである。
 
日本の「企業別組合」に対して、組合思想から迫って、これを克服しようとす
るこの視点(*)は、1960年代末の藤田若雄氏による「誓約集団」論にその
系譜をたどることができる。(*:清水慎三編著『戦後労働組合運動史論-企業社
会超克の視座』1982、日本評論社)」。
藤田の言葉で言えば(『時論』133頁)、「私は『革新の原点とはなにか』とい
う書物で、革新の原点は誓約集団であることを言い、日本の革新運動が戦後華々
しく見えたが、今日腐敗しているのは組織の基本原理が丸がかえ組織原理である
からだとした。・・・日本の革新運動は、日本の前近代的なものに深くおかされて
いることを知った。そこで、私は戦後における前近代的なるものの再生を追及し
た。それは日本における前近代的なるものを崩す条件を明らかにするためでもあ
った。」。
 
「誓約集団という語は、私の用語のように言われている。しかし、これほど理
解されずに使用されたり、反対されている用語はないであろう。・・・私が誓約集
団という語にもたせようとする意味内容は我々の日常の生活関係には極めて異質
なためであろうと思う。英米はピュリタン革命でゼクテの社会的基礎が置かれた」。
(『時論』173頁、1971)
中村勝己の『前掲書』28頁によれば、「クエーカー(私註:17世紀の中頃イ
ギリスに起こったキリスト教のゼクテの一つで、良心的兵役拒否を主張した、牧
師のいない集会を持つ)の影響が今でも強い(イギリスの)湖水地方の小さな村
を訪ねますと、何でもない普通の住宅のような建物の入口の上に「クエーカーズ・
ミーティングハウス」と書いてある」と出てくる。この存在の歴史的重みは何と
言えばよいのだろうか。
 
1973年にあいついで出版された藤田の『日本労働法論』木鐸社と『日本労
働争議法論』東京大学出版会に対する若手研究者らによる研究討論の記録は渡辺
章により、『東京学芸大学紀要』第三部門社会科学第31集、1980、1~31
頁にまとめられている。
 藤田の労働組合研究は晩年にはその法的整合性構造を明らかにすることに注が
れたとはいえ、一方で現実の職場に存在する労働組合の可能性の探求にも向けら
れていた。三菱長崎造船の「社研」(1960年に発足)の活動記録『新左翼労
働運動の10年』I、II、『左翼少数派労働運動』(1970、三一書房)として
藤田も編者として加わった形で出版された。社研の活動はその後「第三組合」と
して登場するが、従来の第一組合、第二組合(御用組合)という理解の枠からは
み出した新しい「思想別組合」の可能性を示したと言える。
 
藤田が清水一と編集していた『労働問題研究』(亜紀書房1970~1974)
は「既成革新からの離脱」、「総評のゆくえ」、「新左翼の労働組合論」、「続
新左翼の労働組合論」、「労働運動の合法的領域」、「春闘方式の止揚をめざし
て」と今後の実践的活動の方向を目指したものであった。

◇3.補論、私の労働組合体験
1960年、工業高校卒業後に就職した堺化学には「臨時工」が居た。同じ村
の一年上の人が臨時工のつらさを私に少し話したので、入社感想文に臨時工政策
はけしからんというふうなことを書いたら、一月で解雇されることになった。
同年12月に就職した三菱電機の中央研究所にも臨時工は居た。当時の労働組
合は臨時工の本工化を運動目標にしており、三年間の低賃金に堪えた人たちは本
工になった。臨時工期間は勤続年数に加えられた。こういう運動目標がうまく達
成できた事情には企業が右肩上がりの成長を続けていたことも大きかったと思わ
れる。
 
1969年4月28日、社外の政治活動によって逮捕された従業員(反戦青年
委員会のメンバー)に対して、企業が企業内の就業規則を持ち出して懲戒解雇を
打ち出した(同年5月26日、「前原事件」、『季刊労働法』1976年夏季号76
頁、横井芳弘ほか「企業外政治活動と懲戒解雇」参照)。支部段階では支部執行部
が懲戒解雇に対して異議申立をする予定であったが、支部委員会(職場委員によ
る決議機関)にはかると執行部に対処を一任する案が15対14で否決され、そ
の後の票決(無記名投票)では19対10で異議申立が否決され、結果的に労働
組合は懲戒解雇を追認することになった。他支部(同じ敷地内)のこととはいえ、
ユニオンショップの労働組合で、組合員が労働組合によって切られることに私は
納得できなかった。門前では新左翼の人たちがビラマキをしていた。
 
藤田先生に手紙を出したら、『労働通信』(藤田により1966年発刊されたガ
リ版同人誌)と東芝茨木工場に勤める浅田隆正さん(「キリスト同信会」の教役者
二代を続けた人の息子で無教会キリスト者)を紹介された。浅田さんの紹介で、
甲南大学経済学部の熊沢誠教授が主催されていた「労働分析研究会」に数年間参
加し、熊沢誠編著『働く日常の自治』1982、田畑書店に浅田さんと私が自分
たちの職場体験を踏まえた補論、「ベルトコンベアの職場と労働」(202頁)と
「日本の労働者の自立」(184頁)を書くことになった。浅田さん自身、『喜望
峰』というミニコミ新聞を自分で編集し、会社前で配っていた。熊沢教授は藤田
の問題意識を継承したような側面を持つ研究者である。 前原事件以後、私は7
年間大会代議員に匿名に近い立候補をしたり(立ち会い演説会以外の選挙運動は
しない)、一票差で当選した支部委員(職場委員)を一年間勤めた。
 
電機労連ではその後、沖電気で18年ぶりの「指名解雇」が打ち出されたが(1
978年、78名)、沖電気労組の「ことは済んだ」という声明と沖電気労組の独
立性を尊重するという電気労連の美しい大義名分の下に指名解雇者が切り捨てら
れた。労働者にとっての悪夢の復活。 50歳近くなって受験した係長待遇試験
には合格したが(それ以前、三歳年下の養成工の人の給料の方が自分よりも高か
ったらしい)、課長待遇試験を三人が受け、私だけが落とされた。社外発表論文の
数も登録特許の数も合格した二人(一人は私より10歳年下の工業高校卒)より
は、私の方が三倍以上は多いと思うが、企業の持つ「底無しの不合理性」を見た
思いがした。博士号を持つのは私だけだったから、アメリカ人が聞いたら飛び上
がるほどびっくりするだろう。雑誌『世界』に「歯止めなき企業内差別」を投稿
したら採用された(1994年5月号20頁)。当時の部長は今、社長になってい
る。
藤田が「先任権の確立」(昇格はトコロテン式に勤続年数順とする)を主張した
ことはわかる。結局労働組合がそれを確立できなかった。査定が企業側にしっか
りと握られている以上、労働組合員は大きな不利益を覚悟せずに自分の考える方
向の労働運動を展開することができない。御用組合を内側から批判しようとする
だけでどれだけのものを失うか、私の体験は小さな一例に過ぎないのだが、よほ
どの決心がないと普通の労働者にこんなことはできないだろう。職場でただ黙っ
ていさえすれば失わずに済むのだから。前原事件が起きた時、誰だったか「会社
の聖書研究会は何も言わないのか?」と私に尋ねた人が居た。もの言えば唇寒し
秋の風。
 
たまたま私は中立と言われる電機労連の一労働組合組織の中で、その堕落ぶり
を目撃してきたわけであるが、時代の変化はいつも「中立と思われている存在」
の中で初めに生じるのではなかろうか。ドイツのナチを分析した住谷一彦は親ナ
チ、反ナチのほかに、非ナチという「耐え抜く思想を持った中間層」を想定して
いるが(住谷一彦『思想史としての現代』1974、筑摩書房中の「バビロン捕
囚」)、この層は歯止めとしてのなんらかの思想を持たない限り浮草的存在である
気がする。普通の日本人はいったい「何を媒介として」、また「どこで」労働組合
の魂(精神)を学ぶことができるのだろうか。
 研究所支部には田中豊という教会員の活動家(大正初め頃の生まれ)が居た。
日本キリスト教団の職域伝道の一つの試みとして新聞『働く人』が1958年に
発刊されたが、彼は数十部購入して若手に配っていた。
 
1964年から全国のキリスト者組合活動家が年に一回集まるようになり、キリ
スト者の組合活動家延べ400名に知り合ったと戸村政博が書いている(『藤田』
235頁)。彼らはその後どうなったのだろうか?
藤田に指導を受けた『労働通信』では、会員の大河原礼三が進学高校内でおき
た学園闘争で生徒たちの問題提起を受け止めようとして、教員集団から村八分に
され、「自宅待機」扱いを受け、半ば強制的に同じ学校の定時制に移された(大河
原『われらの課題』-矢内原十周年記念文集-1971、41頁)。彼の編著とし
てその後『日比谷高校闘争と一教員・生徒の歩み』1973、現代書館が出る。
労働組合の役員になるのと、会社側推薦の市議会議員になるのは二つの出世コ
ースだと思う。尼崎市議会の「カラ出張」に連座して辞職した旧社会党員の人間
が営業所の片隅で所在気なく机に座っている姿を目撃した時には地に堕ちた革新
のエートスを見た思いがした。
 
私の体験の結論として、労働組合運動が明確な「二つの歯止め」(役員層人間の
思想的歯止めと組合組織の構造的歯止め(熊沢編著『前掲書』拙稿190頁「労
働組合組織の構造」))を持っていない以上、時代の変化にずるずると流されてい
くのは当然であり、その歯止めを堅持するのが「誓約集団」としての活動家集団
(前衛)だと思うし、それは労働組合の中にいくつ併存してもいいと思う(藤田
『革新の原点とはなにか』115頁には、三菱長崎造船の第一組合(~800人)
の中に社研セクト、共産セクト、社会セクトの三つがあり、それぞれがメンバー
とシンパ層をかかえ、その上それ以外の反刷同闘争支持者層を含んだ図があげら
れている)。
 
現代ほどまともな労働組合を必要とする時代はない。藤田は「・・・高度経済
成長の下では生活自体が豊かになるから、労働組合運動の解決が不毛であっても
大して問題にはならない。しかし高度経済成長が終えんし、労働者の生活が雇用
不安におびやかされるようになってくるとすれば、「イギリスへの関心を呼びお
こす」ことで足りるであろうか。・・・我が国の労働問題研究者(法と経済を含
めて)や労働運動家が断固として固執している考え方は、「階級的観点」である。
階級的観点が直ちに悪いことにはならないが、階級的観点に立つ人が事実を十分
につかみ出さないことが問題なのである。

かくて筆者(藤田)は、西欧における誓約集団的労働組合を一の典型と考えると
共に、これに対しソ連・日本・東南アジアの諸国のいわゆる労働組合を非決断丸
抱え組織として典型化しこの二つの組織の運動法則を探求することが不可欠と考
える。これらがいかなる外的条件の下でそれに固有な爆発的な力を噴出するもの
であるかは二つの集団の過去における活動の歴史を知る以外にない。・・・
学際的な手法を採用するのでなければならない。

古い時代の素材を今日の問題の解決に役立てることを可能にするのは、その人の
構想力による以外にない。・・・この種の学問ということになれば、今日生まれつ
つある平和学のごときものであろう。これからの労働組合活動は従来のような経
済学や法律学のみでなしに、平和学を運動の基礎に持つことによってのみ起死回
生の道を開拓することができる」(『時論』284頁「労働組合運動は平和学の上
に立て」、『総評新聞』1975)。

◇4.キリスト教への取り組み
1912年北海道の小作農家に生まれた藤田は滝川中学を卒業後、1930年
大阪高等学校に入学(竹内好は二年上)、四国の平尾権之助宅で結核の療養中に矢
内原に出会い、復学後大阪の無教会キリスト者黒崎幸吉の集会に通う。1933
年、矢内原の内村鑑三記念キリスト教講演「悲哀の人」を大阪で聞き、また彼の
個人伝道冊子『通信』(創刊は1932年11月)の読者となった。1934年東
京帝国大学法学部に進学、矢内原の集会に通う。
1933年3月には無教会の政池仁が平和論のため静岡高校教授を辞職し、1
936年9月に『キリスト教平和論』を出版。

§戦前(1)、日中戦争勃発(1937年7月~)
1937年4月藤田は大学を卒業し、産業組合中央金庫に就職。1940年に
は産青連支部委員長となり、矢内原の指導で集会の伊藤時子(伊藤祐之の妹)と
結婚。矢内原のキリスト教講演会の設営をしたり、自分たちの集会を作ったりし
ていた。
1937年は国内の締め付けが厳しくなった年であった。矢内原の論文「国家
の理想」(『中央公論』9月号)が全文削除。また矢内原の鳥取大山聖書講習会の
参加者たちが調べられ、鳥取の藤沢武義は3ケ月留置(藤沢の『求道』廃刊)。東
京での藤井武7周年記念講演会の講演をのせた金沢常雄の『信望愛』、伊藤祐之の
『新シオン』、矢内原の『通信』が発売禁止、金沢と伊藤が検事局の取り調べを受
けた。同年12月、矢内原は先の論文「国家の理想」を追及され東京帝国大学教
授を辞職(大河原礼三『矢内原事件50年』1987、木鐸社参照)。矢内原は『
通信』を『嘉信』に変更(1938年1月)。
 
政池の『キリスト教平和論』第二版は1937年10月直ちに発売禁止、更に
1938年6月に罰金(120円)。
藤田の1938年『葡萄』(矢内原集会の文集)の「平信徒の信仰」(『キリス
ト教著作集』第一巻17頁)は彼の信仰の特質と立脚点のすべてが明瞭に述べら
れている気がする。
 
「我々は今どのような時代に住んでいるのでしようか。大きな過渡期に住んで
いると言えましょう。国の内にはくびき負うもののしん吟と、国の外には流され
た血の叫びを聞きます。自由平等の旗の下に建設せられた社会も今は隷属と貧富
の懸隔を見るばかりです。再び自由と平等とが主張されねばなりません。世の中
のことは世の中のこととしてどうして棄てておくことができましょう。信仰はこ
ういう世の中の状態を見て、被抑圧者・隷属者に自由と平等を与えようとする熱
心と勇気を興すものであると思います。かかる精神に把握せられた社会科学の知
識は有力な武器であります。もし信仰にこういう方面が無いとしたら、信仰は確
かに支配階級に奉仕するものです。国民の罪の赦を神様にお祈りすることも同様
な信仰の作用だと思います。信仰にはこういう方面がある。
これも戦闘的信仰です。こういう信仰を持って社会の一局部を担当しているのが
凡人の社会生活です」。
 
ここには現実を突き放してしっかりと見据える精神(『時論』55頁「対象化す
ること」)と、社会科学の知識が有力であることが明記されている。人が現実にか
かわろうとした場合、イデオロギーでない最低の社会科学的知識が必要なことは
言うまでもない。 この短文の前半には既に「継承」が構想されている。継承は
続く世代の実践的課題にほかならない。「我々が信仰を護って次の時代に渡すと
いう公の義務を負っています。信仰の本質を次の時代に渡すということです。キ
リスト者であるということだけで世間の人に容れられない。だけれども我々は信
仰を護らねばならぬ。キリスト者たることは一面戦であります」。
 
1939年の『葡萄』に「戦闘的平和論」を投稿する(『同上著作集』19頁、
藤田『矢内原忠雄』181頁所収)。これは非戦論、階級関係、神に対する平和、
結論と分けられ、非戦論の中にははっきりと「戦争は直接的暴力による生命の殺
りくである」、・・・「我らは更に暴力を否定する」、・・・「我らは生命の殺
りくと暴力との故に戦争一般を否定する」、・・・「従軍は思想として戦争を是
認したということには絶対なり得ない」と書かれている。
内村鑑三の非戦論は「非戦主義者の戦死」という形をとる。本人の兵役拒否は
代人を生み出すだけだというのである。内村の『聖書之研究』読者、花巻の斎藤
宗次郎への非戦論をめぐる常識的忠告(斎藤による言葉として、1)自身の不運、
2)家族同志らへの迷惑、3)聖書の曲解)は有名である(1903.12.1
9)。しかしその日の午後、斎藤との散歩中に内村は「もし、良心の命令であるな
らばやりたまえ」と言ったという(『時論』406頁)。
 
矢内原も「国法に従って国民の罪を負って戦死する」という。矢内原には若い
集会会員の入隊が切迫した問題としてあった。その一人秋山宗三はガダルカナル
島で1942年10月に戦死する。海軍航空隊で約一年間軍務に服した矢内原集
会の中村勝己は、友人に「君は日本軍の手でよく殺されなかったな」と言われた
(中村『前掲書』222頁)。藤田には1939年9月に招集がきたが、肺結核の
病歴のため即日帰郷となった。しかし当時、藤田は矢内原に「戦場で死ねと言わ
れた時、戦場で自分一人の責任で反戦行動をとって死ぬことだと理解した」とあ
る(『時論』404頁)。後年になって藤田は、「この内村・矢内原の戦争に関する
考え方は極めて日本教的であろうかと思う」と述べている(藤田『時論』178
頁、「戦場で死ぬということ」1971)。
 
非戦論は単純に言えば、旧約聖書のモーセの十戒「汝殺すなかれ」からストレ
ートに出てくる。内村や矢内原が、なぜこのような屈折した思案をしてまで、国
法順守を優先させようとしたのか、私には絶対天皇制からの呪縛であるとしか考
えることができない。なお藤田の「内村・矢内原の非戦論」『時論』400頁、1
974では、「内村の神中心の非戦論(しょく罪死)から抵抗権の思想は出てこな
い」と言い切っている。後年、藤田は内村・矢内原の考え方と良心的兵役拒否と
を併置して考えるようになった(『回想』148頁)。
1939年6月、灯台社の人たちの一斉検挙が行われた。
1940年8月、大阪の黒崎幸吉の『永遠の生命』が痛烈なヒットラー批判記
事のため、発行停止(廃刊)。
プロテスタント各派の合同による「日本キリスト教団」創立は1941年6月
である。同年9月にはプリマス・ブレズレンの指導者六名が検挙された。

§戦前(2)、太平洋戦争の開始(1941年12月~)
藤田は1941年12月には活動の困難さ(産青連の活動家はみんな逮捕され、
藤田も裁判所から証人喚問を受けた)などから黒崎の紹介で住友鉱業に入社する。
日中戦争の時点では非戦論の立場に居た黒崎と金沢が、1942年1月と2月
に、それぞれの伝道冊子で、「日本は米英を打つ神の鞭」、「日本は神の杖」と発言
し、非戦論の立場を捨てた。
 
藤田が青年期に直面したキリスト教の集会問題については、拙稿にまとめた(「
藤田若雄、青年期の自画像」、拙書『生きるためのヒント』2002東方出版、付
録一185頁参照)。この体験は後年の無教会二代目の人たちの社会思想的研究の
原点となった。戦時下、非戦主義者でない先生(黒崎)の集会に非戦主義者であ
る自分がなぜ参加せねばならないか?という問題である。「戦争賛成者も戦争反
対者も含みうるような脊椎骨を持たない集会-かくのごとき集会は戦争責任なぞ
問題にしようがない(藤田『時論』234頁、「誓約集団について」1973)。
 
無教会の主だった人たちの伝道冊子は敗戦までにほとんどが廃刊に追い込まれ、
名前を変えたガリ版ずりの「地下出版」という形を取ったものが多かった。例え
ば矢内原の『嘉信』は1944年7月に警視庁から年末廃刊を言い渡され、19
45年3月から同年8月まで『嘉信会報』を発行。1944年7月には政池が憲
兵隊に連行された。
 
内村門下で最大の勢力を形成した塚本虎二の『聖書知識』だけは戦中一切迫害
も受けず発行が公認されていた。塚本だけは1932年7月頃から早々と時局批
判を回避したからである。原島圭二はこう指摘する、「問題は、世俗社会への中途
半端な無関心さを示す傾向(私見:仏教的だと思う)を持った塚本が無教会陣営
内で多数の若い追随者を見いだしたことである」(藤田編著『内村鑑三を継承した
人々』下55頁)。当局は無教会の戦争批判者を訓戒する時、「あなたは同じ無教
会であっても、なぜ塚本さんのように戦争協力しないのか」と責めたほどであっ
た(『内村鑑三を継承した人々』上11頁)。この証言が明らかにするように、戦
時下の無教会陣営は一つではなかった。
 
なお普通の市民である札幌の無教会キリスト者浅見仙作の冊子『喜の音』は非
戦思想のため1937年10月に発売禁止、1941年10月彼の『純福音』廃
刊、1943年7月検挙され7ケ月留置、1945年6月大審院で無罪判決を勝
ち取った。有名人よりも無名人の迫害の方がひどかったと言いうる。

§戦後
矢内原は敗戦直後に六つの講演を日本各地で行なった。政池は「日本友和会」
などの活動に尽力する。無教会の伝道者たちの個人冊子もそれぞれ復活した。黒
崎は政池に「自分が間違っていた」と個人的にあやまったので二人の関係は回復
したが、無教会陣営の中で塚本一人に対する批判の風当たりが強く、なかなかお
さまらなかった。「無教会の人たちの戦争責任問題」はその後どう取り組まれたの
か?原島圭二は「いわゆる無教会陣営の戦争責任の総括が、政池が『聖書の日本
』で問題にした以外には結局あいまいにされた」と述べている(『内村鑑三を継承
した人々』下70頁)。塚本集会につながる手島郁郎は異言・神癒運動を起こし、
一つの勢力を形成した。
1961年12月25日、矢内原の死去とともに藤田の独自活動が開始される。
個人伝道冊子『東京通信』の発刊は1962年10月、藤田聖書研究会の開始は
1962年1月である。その後矢内原集会の若手の一部もその集会のメンバーに
加わる。

◇5.あとがき

藤田の信仰を支えた原動力はいったい何だったのだろう。私には感覚として「心
情的ラジカリズム」ではないかという思いがある。藤井武(藤井の死後(193
0)、矢内原が藤井の全集を編集した。藤田は結核療養中の旧制高校時代にその藤
井武全集を読んだ)や伊藤祐之につながるものを明らかに藤田も持っている気が
する(例えば『時論』301頁、「時のしるし」1976)。二人と違うところは、
藤田には自分を対象化できる「すべ」があって、その上社会科学的分析法を身に
つけていたことであり、心情的原動力はいわば地下水になっていたのではないか。
そうであるが故に『伊藤祐之追憶集』に次のように書くことができたと私は思う。

「私は、人の真情というものは火で焼かれない限り不断に退廃すると考える。に
もかかわらず、人は真実を求める。己が真実を求めるのみならず他の人の真実に
接しなければ死するほど苦しむこと、あたかも鹿が谷川の水を求めるごとくであ
る。河上肇博士や藤井武先生との出会いはそれであったと思う。両先生と出会う
ことにより両先生も伊藤祐之も息がつけたのである。この両先生に共通の特徴と
して、伊藤祐之は真実を指摘していたことを思い出す。伊藤祐之は、河上肇や藤
井武の人生苦難の砂漠の中で、共に真清水を分かち合った人であった。(1971、
待辰堂、155頁)。
 
藤田に教えを受けた20人が没後20年を記念して、阿部健、奥田暁子、中島
正道編著で『職業・思想・運動』を1998年に出版した(三一書房)。副題の「マ
イノリティの挑戦」の意味は三重である。キリスト者としてのマイノリティ、そ
の中の無教会としてのマイノリティ、そして社会問題や労働問題にも取り組む無
教会の中のマイノリティという意味である。
この本の蓮池穣の指摘(213頁)、「藤田の著作の中で私が一番好きだと思っ
たのは、『キリスト著作集』別巻の書簡であった。キリスト教でいう「牧会的」と
も言えるのだろうか、他者への細やかな配慮が行きとどいている。私が藤田の著
作に近付いたのも、そのせいだったのであろう。いささか感性的な理由ではある
が。」には私も同感である。
 
「戦争出前噺」を1125回もされた本多立太郎翁(~92歳)が推薦された
三冊の本の中に、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』1937(岩波文庫19
82)がある。旧制中学生のコペル君は大銀行の重役の父親を失っても悠々と生
活できているのに反して、豆腐屋の同級生浦川君は一家総労働の生活をしている。

私はこの本から彼ら二人のもう少し先の人生を考える。
1)もしこの二人が卒業後企業に就職したとすればどうだろう。コペル君に労働
者の問題は見えないだろうし、浦川君は労働者の問題に取り組まざるをえないだ
ろう。
2)あるいは二人がキリスト者になったとすればどうだろう。浦川君に見える問
題がコペル君には見えないかもしれない。新約聖書の『使徒行伝』にはパウロに
見えなかった問題が出ている(22-28)。千卒長が「私はこの市民権を多額の
金で買い取ったのだ」と言った(「解放奴隷」の問題)のに対して、パウロは「I
was
free born」と(冷やかに!だと私は思う)答えるシーンである。 古賀俊隆(第
一薬科大学教授)が指摘した「基礎体験の相違からくる信仰の質の相異というも
のは、なかなか理解しあえない」(『藤田』256頁)という問題である。両者の
実践的課題に共通部分があれば徐々にその溝は埋まっていくと私は思うのだが、
もしそうでないとすればその溝はそのまま残存せざるを得ない。

引用本リスト
1.『回想』:「藤田先生に聞く」戸塚秀夫、『社会科学研究』24巻4号
  (1973)p137~203.
2.『時論』:藤田『時論』、1977、キリスト教図書出版社
3.『藤田』:『藤田若雄』-信仰と学問-藤田起編1981、教文館
4.『三一著作集』:『藤田若雄著作集』編集委員会編1983、三一書房
5.『キリスト教著作集』:『藤田若雄キリスト教社会思想著作集』著作集刊行会
  1983、木鐸社
6.『職業』:『職業・思想・運動』阿部、奥田、中島編1998、三一書房
 原島圭二氏から引用の承諾、大河原礼三、阿部健、浅田隆正各氏から貴重なコ
メントを戴きました。また京都北白川集会の高井博子京都女子大学名誉教授から
教えてもらった中村勝己慶応義塾大学名誉教授(矢内原忠雄門下)の近刊『現代
とはどういう時代か』にいろいろと教示を受けました。

  (筆者は社会福祉法人中途障害者作業所「麦の会」相談役、理学博士)

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