七十年前の本と朝鮮人

【横丁茶話】

七十年前の本と朝鮮人             西村 徹

●本をくれた男

 忘れていた段ボールの中から七十年前の本が出てきた。格別に珍しいことではない。FRIEDRICH NIETZCHE:ALSO SPRACH ZARATHUSTRA だったことも珍しいということにはならない。しかしその本の裏表紙見返し中央に「T大兄へ」、左下に「Kより」と記されている。Tというのは今年の四月、「今生の別れの集い」をしたいと言って、会う場所は高野山がいいとか東寺がいいとか、いろんなことを言った挙句に、結局は金沢から大阪駅にやって来て、四人集まっただけだが、いっしょに飯を食ったばかりの男。

 私としては廿数年ぶりの再会。Tは文甲だったが大学は仏文を出て郷里の美大で教えた。今も名誉教授であるわけだが、およそドイツ語とは縁のない男。たぶんKという人物から貰いはしたものの無用の長物ということで、一応名目は文乙だった私に渡してケリをつけたのだったろう。

 これを貰った記憶はないが、当時Tは萩原朔太郎に凝っていて、読み込んで相等にくたびれた小学館版全集の一冊か二冊を貰った記憶がある。「日本海」という詩の同人誌を見せられたことも覚えている。私の詩の教養は貧しく、新体詩とまでもいかない古風な文語定型詩をなぞる域を出ないものだった。たぶん中学生の低学年で夢中になった鶴見祐輔の著書の、そのうちの『バイロン』の中の訳詩を真似て、何を恋うるともなく蒼い憧憬を綴る手すさびとして馴染んでいただけで、朔太郎を知ったのはこのときが初めてだった。

 いかにも朔太郎を真似た自作を見せてくれたりした中で「しんしんと 二人の肩に雪ふりつむ」とかいう断片だけが、私の知らなかった新鮮な修辞として強い印象を私の記憶に刻んだ。「二人の肩に」があったか、「両の肩に」だったか、「その肩に」だったか、なにもなかったかもしれず、その種の身体表現を私が勝手に欲して記憶に紛れ込んでいるだけかもしれない。

 そんな風に自分の感動を他にも頒かちたいという心の傾斜は誰にもある。感動のもとになった本を他に譲ってまで、あえて自分の想いを届けようとする一種の教化癖が彼にもあって、そのくせ一方では隠者風に独善自足するところもあって、そういうものが複合して唐突にニーチェが私に渡ることになったのではないかという気がする。

●笹津の短歌会

 昭和19年秋から翌年にかけて、冬には何もかもが雪の下に沈んでしまう富山県笹津のマグネシウム工場にいた。昭和19年秋というと国家総動員法という集団発狂・集団自殺の最終段階に入った時期であった。日本国民の徴用のみならず、朝鮮人の大規模徴用も、朝鮮人の徴兵検査も、はたまた学童疎開も、日帝最後の足掻きがいっせいに始まった時である。沈没する日本丸の、その甲板が大きく傾き、乗員いっせいに傾いた甲板を奈落に向って滑り落ちていった断末魔のときであった。

 私たちは、金沢の校舎と寮をナチスの優正政策に倣って編成された東京高師付属中学英才組(なかに民主党初代財務相の藤井裕久がいた。俵孝太郎も予定に入っていた。)に明け渡して、第四高等学校理科の生徒は愛知県鳴海の三菱に、文科は笹津の日本マグネシウムに流刑の身となった。

 しかし流刑の地にも徒然のときあり、決して日の光のとどかぬ、地下牢のような宿舎ではTが仕切って短歌の会が行われたりした。Tが選者になるのは最初から自明で、誰も疑わずせっせと作歌を投じた。そして彼の評点に、みな素直に一喜一憂した。加能作次郎という小説家の息子がいて、小説家の息子だから歌がうまいと言うわけでもなかろうに、自作にペケがついて本気でうろたえていた。

 私が付き合った「三日前に食い残したる黒づくり 乾き果ててタールのごとく」というまるきりの戯れ歌を、駄作として葬り去るべきか否かにTは迷って、ついに判断を放棄した。(注:黒作りとは、富山県の郷土料理。イカの塩辛にイカ墨を混ぜた珍味ではあるが、連日こればかり食わされるとやりきれない。)

 戯れ歌のことゆえどうでもよいが、去る7月15日の朝日俳壇で「サルトルのゆかりのカフエやパリー祭」が入選しているに鑑みれば、愚作は十分に佳作とするに足ると思う。ただし短歌にも俳句にも通じぬ私には、陳腐で俗なイメージの三点セットとしか思えぬ絵葉書「パリー」句も、俳句を嗜む友人は佳句なりとする。ついでながらその友人に我が出来合いの「夏の空 もの思うべきことやある」を示したところ言下に「虚子以来俳句は主観の押しつけを嫌う」とボロクソに言われてグーの音も出なかった。

 かと思うと、歌人と称し短歌雑誌も出しているという友人に、「ベトナムの女子高生の制服の そのアオザイの白のまぶしさ」なる愚作を示したるところ、「子規のいう写生の精神と技法がみごとに表現されている秀歌」という。目いっぱい官能を表現したつもりが写生にとどまったか。詩歌俳諧は、なかなかに門外にはわからぬ玄妙な世界のようだ。

 かように彼は牢名主のごとく人の上に立って自然であった。常に自若として誰もこれをあやしまなかった。笹津に落ち行く前の、まだ昭和18年だったか19年になってからか、彼は真剣に、東亜連盟に入って一人一殺、東条を殺すと呟いていた。共産党の友人から聞いたところでは、戦後のある時期、野坂参三を殺すと言っていたそうである。そのときどきに真剣であるが、いずれもことなくして安全に推移している。今はカトリックの熱心な信者で、教会の交わりのなかで俳句の宗匠格として振る舞い、マリア観音の慈悲に包まれて平安である。

 もうひとつ、この人物について語っておきたいことがある。大男というほどではないが大柄ではあって体力は平均を抜きん出ていた。兵隊でも相撲大会で準優勝したので、その後は古参兵に殴られなかったと、先日会ったときも話していた。笹津の宿舎では短歌会よりも盛んに夜な夜な虱をとるのが慣わしであった。虱は人間一体に寄生しうる頭数に上限があって一定数に達するとそれ以上は増えない。

 虱は集合知として宿主の体力を正確に知っているらしい。人の側からすると虱は基礎体力を数値化する物差しになる。私は60匹が上限だったが、彼はさらに多くを養う余力があった。彼の記述するところによると、虱つきシャツを一晩雪中に埋めたがシャツは板状に凍ったものの虱はまったく死ななかったという。Tの生命力は私をしのいだが虱はTをしのいだ。

●本のたたずまいについての話

 この本の出現にまつわる因縁ばなしとして以上のことを先ず思い出したわけであるが、さて本そのもののはなしに移る。ただし内容についてではなく、いわば本のたたずまいについてである。珍しいことに、この本はドイツ語原本でありながらドイツ製ではなく日本国産品である。

 教科書版は、昭和十五年の日独伊三国協定以後の昭和十八、九年、ちょうどその前年の昭和十七年さっさとイタリアは降伏し、ドイツも日本も、前者はスターリングラード、後者はミッドウェーで、すでに敗戦局面に入っていて、理性的にはいつ降参するかの秒読みに入ってよい頃になっていながら、英語専門の研究社さえもがドイツ語ものに手を出していた。原発にしがみついている日本の現状に少し似ている。大本営発表に騙されてまだ気分はドイツブームだったからだ。

 高校入試の受験生も、来邦したヒットラーユーゲントの西洋人形的アイドル性に幻惑されて文乙志望者の率が高止まりしていた。先の読める人なら情勢はもはや明らかに文甲選択が正解だった。すでに英語の古参教授は「負ける」と公言していた。それなのに、まるで原書そっくり海賊版のようなものまで、どういうわけかドイツものが正規に日本で出版されていたのである。奥付はこんな風だ。

 FRIEDRICH NIETZCHE:ALSO SPRACH ZARATHUSTRA (出文協承認 ア 90296 號)———昭和十七年九月十日 初版印刷 ; 昭和十七年九月十五日 初版発行(発行部数2000部)[定價金四圓貮拾錢]———編纂兼発行者 福本初太郎(東京市本郷區本郷四丁目廿一番地) ; 印刷者 黒宮愼造(東京市麹町區内幸町二丁目廿二番地) ; 印刷所 ジャパン・タイムス社印刷局(東京市麹町區内幸町二丁目廿二番地)———発行所 福本書院 (出文協會員番號 128039) ; 東京市本郷區本郷四丁目廿一番地 (電話 小石川(85)四二九二番) ; (振替 東京七四八四七番) : 東京市神田區淡路町二丁目九番地 配給元 日本出版配給株式會社

 七十年前であっても額面どおり2000部も出たとすると稀少というほどでないかもしれないが、この奥付は時代が見えて面白い。こんな奥付の洋書はそもそも今日お目にはかかれまい。統制経済というのか物資不足というのか配給制だったり、あるいは旧漢字だったり東京都でなく東京市だったり。それはともかく、こんなものが出てきて、しかも元の持ち主に久しぶりに会ったばかりなので、ふと義理のような感じもあって目を離せなくなった。

●一丁あがりだったニーチェ

 ニーチェは昔々、三高に入った男が、初めての夏休みに、ドイトラ(土井虎賀壽)の授業かなにかで聞いた受け売りらしき、まだ湯気の立っているほやほやを、節々でウンウンと唸りながら、ひとくさりもふたくさりも聞かせてくれたことがあって、超人、高人、末人、権力意志、没落、永劫回帰、amor fati 、noch einmal など、ひととおりのキーワードはすべてそのとき聞き覚えた言葉である。アポロ的とかディオニソス的とかもあったと思う。

 本質とか実在とか物自体とか、無味乾燥なドイツ観念哲学とは趣の違うある種の詩と、物語としてのおもしろさとを感じはしたが、それで満腹してニーチェは一丁上がりで今日まで来てしまった。しかし、原書が現れた以上、ここで一番、義理にもじっさいに読まねばならぬ気がしてきた。

 さりとてドイツ語を読むのは重くてシンドイ。「世界の名著」の手塚富雄の翻訳で読んだ。そしてしばしばさわりの部分で福本書院版を参照した。「世界の名著」は活字が小さくて印字が薄く、本当に老人には酷な本だが福本書院版は黄ばんでときに茶色くても印字は今もなお黒々と実に読みやすいのである。

 サマセット・モームは「英語はビジネスを語るによく、フランス語は恋を語るによく、スペイン語は神と語るによい。そしてドイツ語は馬に号令するによい」というようなことを、たぶん“Of Human Bondage”のなかで言った。私もドイツ語をそのように思ってきた。大体ドイツ語には、例えば人の名前からしてヒンデンブルクとかブルンヒルデなど、馬の嘶くような破裂音が多い。

 ところが、このたびニーチェのドイツ語を見て、まったく印象が変わった。なんとそのドイツ語の美しいことか。ドイツ語はニュルンベルクに咆哮する総統の言語になって、それをチヤプリンがみごとに戯画化したためにずいぶんイメージが害われた。しかしどの言語でも使い手しだいで美しくも醜くもなる。

 ニーチェのドイツ語は音楽。詩である以上に音楽だ。ドイツ語文章はワンセンテンスがやたら長いのが多い。ときに1ページで足らないような長いのを見たことがある。単語も長い合成語が多い。ニーチェはまったくそういうことがない。以上内容には触れない。初めは、ニーチェを書くつもりが、書くうちに笹津の朝鮮人を思い出してニーチェどころでない気がしてきたからである。

●朝鮮人徴用工

 書物ともニーチェともTとも大きく離れるが笹津について、今この時点で欠かせない大事がある。慰安婦問題に続いて朝鮮人徴用工の賠償問題が浮上している。その朝鮮人徴用工は、じつに私の身近な存在だったのである。塩素ガスの充満する、そして寒冷と高熱の同居する泥と塩と蒸気の工場で働くのは、当時凖国賊扱いの高校文科生と北朝鮮から徴用されてきた凖臣民・朝鮮人とであった。

 彼等は凖・臣民にふさわしく日本語をほとんど解さなかった。軟弱な日本人学生の胃袋では食えば下痢をする雑炊の券を彼らに進呈することが縁で、また凖国賊と凖臣民と、疎外されたもの同士の共通感覚のようなものがあって、われらと朝鮮人はきわめて親和的であった。

 徴用は兵員の召集令状が「赤紙」(アカガミ)と呼ばれたのに対して「白紙」(シロガミ)と呼ばれた。新兵の入営通知もシロガミだった。新米労動者の徴発である。国民徴用令は日本人には昭和14年年から適用されていたが、昭和19年8月、朝鮮人にも適用するとした閣議決定がなされ、日本本土への朝鮮人徴用労務者の連行は同年9月に始まり、昭和20年3月いよいよ関釜連絡船が運行できなくなるまで続いた。

 日本内地に動員された朝鮮人の総数は80万人以上、富山県内への動員だけでも2800人という。笹津に来たのはその一部だろう。山奥から狩りたてられてきたと聞いた。「昼夜を分かたず、畑仕事の最中や、勤務の帰りまでも待ち伏せしてむりやりに連行するなど『奴隷狩り』のような例が多かった」と記す書物(小学館: — 日本大百科全書)もある。ほとんど日本語を話せない日帝統治の浸透希薄な、皇恩に浴する恵み少ない北辺の土地の人たちであったらしい。

 民族の誇りいまだ消えやらぬ、気骨ある中年の男たちで、腹を空かして畑の作物を取ることもあったが、現場を見咎められると「ニッポン 朝鮮とった」と反論したという。彼らが笹津に来たのも我々が笹津に行ったのも昭和19年9月。学徒動員と徴用と、名称がちがうだけで中身は同じ強制労働だったし、「非国民」同士が同期のサクラで互いに共感するところがあったとしても不思議はないわけである。笹津の朝鮮人は昭和20年8月15日の「終戦」の後間もなく、一方的にこんどは日本国籍を剥奪されて送還され、彼らの搭乗船は日本海上で触雷沈没したと聞く(合掌)。

●朝鮮人少年工

 しかし、これら成人朝鮮人とは別に朝鮮人少年工がいた。徴用令の発動対象は年齢、職業、性別を問わなかったからありえたのであろうが、未成年者の徴用は日本人の場合はさほど多くはなかった。もっとも私の中学で同期の友人は予備校には行かず宅浪していたために徴用されたから日本人にも皆無ではなかった。受験のときも志望校を選ぶときには、徴用の恐れがあるから浪人はできぬものとしなければならなかった。しかし少なくとも笹津の少年工のような12歳の徴用工は日本人の場合には存在しなかった。いたのかもしれないが私は知らなかった。

 彼らは毎朝宿舎の玄関に整列して、そして点呼があった。服装検査とかなにかであろう、ときに村役場の書記のような舎監がピシャピシャと少年の頬を撲るのを見て言いようのない不快を感じた。彼らは、しかし従順に、一斉に歌を歌った。当時明治天皇御製と聞いたように思うが、いくら探しても見当たらず、次のような昭和天皇御製が作曲されて富山県の各地で歌われたという記録に出会ったから、たぶんそれであろう。

 「立山の空にそびゆる雄々しさにならえとぞ思ふ御代の姿も」ター:テ・ェ・ヤー:マ・ァ・ノー(数字譜にすると3・5:6:7・6:5:1・)を歌う。自分で自分の時代を「御代」という没主体性に昭和天皇の滑稽よりもいたわしさがあるが、さらにそれを歌わされるのが実は連行されてきた朝鮮人だったとは!

 恥ずかしながら私は彼らが朝鮮人であるとは、先月(2013年7月)末に友人から聞くまで知らなかった。友人は、彼らは朝鮮人だから「たてやま」の「て」を有声音化していたのだという。発音の違いにまったく気がつかなかった。私はよくよく耳が悪い。なにしろ銀行の頭取をトート(to)リ、自転車をジデ(de)ンシャと最近まで間違って発音していた。

 そして私は、てっきり近在の、経済的余裕がなくて小学校(国民学校)高等科に進まず義務教育を終えただけで集団就職した少年たちだと思っていた。だから青年学校と名づけられているのだと思っていた。あどけない色白の少年たちを見て雪国の子達だからと思っていた。ほとんど外国人と呼んでいいほど、遥かなはるかな土地から連れてこられた少年たちだったとは!

●日本人も根こそぎ徴用

 ところが一方で、ぶらぶらと遊んでいる漁師の親子が職場にいた。当時は格別不思議にも思わなかったが、あれはなんだったのだろうか。でっぷり太ったオーバーロールの親父と息子だった。時化の日に漁に出るのは命がけで「ツンポは小指みたいがにツヅンでしもうがやけど魚はえらい値段で売れる」話など面白く聞いたものだ。実はあれも徴用、というより偽装徴用、内実は徴用逃れだったとしか思いようがない。縁故でなんとなく会社に席を得て月給だけ取っていたのだろう。

 会社の事務所には皺くちゃの退役らしき陸軍大佐が監督官として席を構えていた。これも一種の徴用であろう。わが校の教授も事務所に席があった。そして日ごとに席の位置の上下を争って会社は卓子の移動に汗をかいた。教授いわく「ワシのほうが宮中席次は上なのに、あの大佐が分をわきまえないので文句言ってやった」。

 そのとおりで、石川県では四高校長、師団長、知事、医大学長の順だそうだ。古参教授は大佐より少将に等しいらしい。宮中席次なんて今でもあるのだろうか。この大佐はなぜか高校に僻みがあるらしく、私らの読んでいる岩波文庫を手にとって「サザナミ文庫など読みおって」と言った。

 いま振り返ると当時は日本人も根こそぎ徴用されていたのだ。徴用のされ方はとりどりで、料理屋のオヤジでもまがりなりにも学歴があったりすると軍需工場の課長とかの椅子に座った。商店主は商品がなくなって商売ができなくなり、皆どこかに徴用の形で経理などの事務員になった。私の知るラジオの修理ができる履きもの屋さんは四日市の海軍工廠に軍属で徴発されて空襲で死んだ。

 日本人の場合は根こそぎ徴用にも悲劇もあれば喜劇もあってはなはだ末期的ではあったが、朝鮮人徴用工はもろに悲劇だった。偽装も何もなかった。まったくの奴隷労働だった。ただひとつ例外は朝鮮人の徴兵だった。私の往年の同僚で旧満州のソ連との国境地帯に徴兵されていいて、8月15日前後のソ連軍との戦闘経験を持つ人がいるが、昭和19年秋やっと2年兵になり、やれやれ初年兵が入ってくると思ったら、部隊長訓示で「今度入る初年兵は朝鮮人である。お客さんのつもりで丁寧に扱え」と腫れ物扱い、おかげで自分らは初年兵のときのまま、すこしもラクにはならなかったそうである。

 「朝鮮人兵」と題して朝日新聞・大阪(2013年8月15日)「声」の欄に「旧満州で2年半の兵隊生活を送り、敗戦で旧ソ連に抑留された。収容所で朝鮮出身の初年兵数人が、日本人の元上官を暴行する事件が2夜連続であった。彼らが叫んだ『日帝支配36年の恨みをはらす』の語は今も残る」と記されている。腫れ物のように扱わなかったためにこうなったのか、あるいはそれに関係なく朝鮮人による報復はあったのか。戦後の闇市で朝鮮人に日本の巡査が袋叩きにされているのを見たことがある。

 1965年の日韓基本条約で国交正常化が実現し、同時に締結した日韓請求権協定(日韓請求権並びに経済協力協定)第2条には、「両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、請求権に関する問題は完全かつ最終的に解決された」と明記されているからといって、36年にわたる日帝支配の傷は、国家はともかく国民にとっては容易に消せるものではなかろう。

●紅葉閣の女たち

 もうひとつ笹津余話がある。最初の宿舎は会社の青年学校宿舎でなく紅葉閣という女郎屋であった。笹津駅よりさらに高山線を南に、ほとんど岐阜県に入るトンネルの入口の当たり、私の記憶では猪谷、神通川の渓流に臨む風光明媚の場に位置していた。女郎屋といっても開業中ではなく元女郎屋で、ヴィデというものを始めて見たが女郎は一人もいなかった。

 それよりも私はその当時は何も思わなかったが、今にして思う。この紅葉閣の女たちはどうなったのだろうか。非常時ゆえ廃業してどこへ行ったか。女子挺身隊で軍需工場に行ったのか。それとも海を渡って大陸に行ったのか。将校用慰安婦として軍に徴発されたのだろうか。

 笹津について今思い返して、70年を経てようやく気づいたことがあまりに多い。事は何度も思い返して見るものだと思う。こんなに多く気づかずにいたことに気づかされる。慰安婦について狭義の強制があったとか、なかったとか。いくらなんでも軍が直接に拉致連行に手を下すなど経済合理性からありえまい、当然アウトソーシングであったろうとわたしは考えてきた。

 しかし笹津の経験を洗い直してみて、根こそぎ徴用の実態を思い返して見て、また柔道連盟を考えてみて、原発に対する政府の対応を見て、特攻機や回天のような非合理なものを考え出す帝国陸海軍なら、ひょっとするとひょっとするかもと、この暑いのに寒くなっているこの頃である。(2013.8.15)

 (筆者は堺市在住・大阪女子大学名誉教授)
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