三四郎と私

【横丁茶話】

三四郎と私

西村 徹


 漱石との縁は、私は早くからあった。仏教書と漢籍主体という偏頗な蔵書癖を有する私の父には父の物語があるが、それでも手軽な春陽堂袖珍版は揃えていたし、鴎外のファウストや即興詩人などもついでに具えるていどには月並み文学趣味はあったから。家庭環境がそんなで、またいかに野蛮な中学でも一学年夏休み前になると、夏休み課題図書というかたちで文系教師に潜在する反軍の鬱屈が火を噴くようなところがあった。

 私が三四郎を知ったのは1935年、中学2年生、14歳。テキストを通じてではない。ラジオ第2放送、朗読の時間。昼間の放送時間中だったと思う。清澄な標準語を聴く新鮮さがまずあったと思う。外国語への憧れとそれは一抹通じていたかも。歯切れの良い、わけても与次郎のちょっとコクニー口調にいかれていたと思う。

 当時14歳の私は、今と違って性の目覚めは生理では観念にとどまっていた。女性はあくまでも崇高でなければならなかった。男性を容易に近づける存在であってはならなかった。つまり恋愛至上主義的に女性は女神として位置づけられねばならなかった。まさに三四郎の女性がそれであった。

 しかし同時に私は私をなんらかの範疇における、たぶん知的エリートの一員でもあることを自明とも考えていた。虫がいいといえばその通りである。酢にも蒟蒻にもならぬ計算機のような官僚エリートではなく一種落伍組食客エリートを最初から選択するような韜晦趣味をも選び取っていたのであったから。文学趣味として括られていた。科挙の失敗者が、強逆に強固な詩人集団を形成したように。

 だから私は、以来高校は熊本以外を考えなくなった。漠然と西のようだが実は西も東もわかっていたわけでもない。とにかく高校は五高でなければならなかった。そして昼放送から流れ来る Pity is akin to love とか stray sheep など日本語小説の文脈のなかで英語の醸し出す exoticism に陶然。それはそれで一つのエロス体験ではあった。与次郎の「カワイソーダタホレタテコトヨ」を口真似するときはなおさら。夢はただ一筋、偉大なる暗闇になること。大学教授などという薄汚れた職業には金輪際就かぬと決めて。 

 14歳の驕慢がいつまでも維持できる筈もなく15歳、16歳と、いわゆる成績は燻し銀がかかって、五高の野趣、向日性の田臭に拘る余裕を失っていった。次なる世界は打って変わって狗僂病と結核の多い日照量最小の、ずばり言えば急転直下、裏日本だった。五高でなくて四高になった。夢にも志望することを考えたことのない高校だったから、これはカルチャーショックだった。雪などまず無縁、色黒女の世界から雪女の世界とは。

●詩人の勝利——草枕の居直り

 「野分」からの引用をまず。
 「痰に血の交らぬのを慰安とする者は、血の交る時には只生きて居るのを慰安とせねばならぬ。いきて居る丈を慰安とする運命に近づくかも知れぬ高柳君は、生きて居る丈を厭ふ人である。人は多くの場合に於いて此矛盾を冒す。彼等は幸福に生きるのを目的とする。幸福に生きんが為めには、幸福を享受すべき生そのものゝ必要を認めぬ譯には行かぬ。単なる生命は彼等の目的にあらずとするも、幸福を享け得る必須条件として、あらゆる苦痛のもとに維持せねばならぬ彼等が此の矛盾を冒して塵界に流転するとき死なんとして死ぬ能わず、しかも日毎に死に引き入れらるゝことを自覚する。負債を償うの目的を以て月々に負債を新たにしつつあると変りはない。之を悲惨なる煩悶と云ふ。」

 これは先日、夏川草介氏が「朝日新聞」紙上15/1/15で「出口のない状態」と言ったか「蟻地獄」と言ったか、とにかく似たようなものとして書き留めたところに一致する。「負債を償うの目的を以て月々に負債を新たにしつつあると変りはない。」不毛の繰り返しである。

 「往生際がわるい」とはそのことである。半世紀前にこの地に40戸の団地ができた。昨年末80歳の老人が死んだ。残るは私のみである。順序として次は私が自然である。受け入れるになんの躊躇うことがあろうか。
 読み始めて、あまりに久しいので、記憶がはっきりしなくなったが、どうも「草枕」の非人情は「馬の耳に念仏」として集約できることに思う。また迷うこともあろうが、いまはそんなところで一区切りつけておく。(15/1/15 17時5分)

 (筆者は堺市在住・大阪女子大学名誉教授)


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