不倒翁ついに逝く

【西村徹先生を偲ぶ】

不倒翁ついに逝く
西村徹さん88歳の訃報と思い出すことなど

仲井 富


 2月末日、西村徹さん夫人、夫佐子さんからメールが入った。「ご無沙汰しております。早速ですが徹が25日に他界いたしました。肺に致命傷があるとわかって1年と1カ月、最後の5日間以外は激しい苦痛もなく88歳の天寿を全う致しました。57年も一緒に暮らしたと云うのに、居なくなると、もっともっと語り合う時間が欲しかったという気分になっています」。予想はしていたが、あまりにも急なことに愕然とした。思えば長い西村夫妻との40余年だった。夫佐子さんに電話をして経過を聞いた。

 「昨年1月に肺がんが発見された。しかし抗がん剤や手術は断り、耐え難い痛みのときには痛み止めはお願いするという意思を表明した。昨年10月に食道にがんが広がって食べ物を食べられなくなった。入院して放射線の治療を受けた。かなり苦しい治療だったが12月10日退院。それ以降は、ちゃんと三食食べられるようになった。今年2月の20日くらいから容態が悪化し、酸素吸入を行ったが、痛みを訴え病院に緊急入院。2泊3日入院したが、2月25日帰らぬ人となった」。

◆公害研発足の1970年代と連合赤軍関与で家宅捜索

 私たちが公害問題研究会を発足させたのが、1970年の春だった。それ以降『環境破壊』という月刊誌を1987年まで17年間続けた。住民運動の紹介と、学者専門家による論文などを中心にしたもので、大阪にも公害研の関西センターをつくろうという話になった。
 かつての社会党大阪府本部の関係者、牧内正哉、伊藤喜徳氏らによって関西の住民運動との関係が築かれて行った。関西センターの専従をやってくれたのは、後に人物評論家として大成した後藤正治氏だった。そういう縁で初めて西村徹・夫佐子夫妻の「反公害堺和泉北連絡会」を後藤氏とともに堺の自宅にお訪ねしたのが、70年代の初めころだった。西村さんは大阪女子大の教授だったが、東京や熱海、愛知、ときには北海道まで足を伸ばしていただいた。

 以来、40余年のお付き合いだった。なかでも忘れがたいのは「連合赤軍事件」である。1975年3月の「連合赤軍事件に関与の疑いによる西村家の家宅捜索事件」である。当時、西村さんは胃潰瘍で入院中だった。3月30日の読売・サンケイなどがご丁寧に写真入りで、デカデカと報道した。数日して入院中の病院から手紙が来た。「またまた警察と新聞にやられてしまいました。こちらの知らない男がこちらを知っているのは防ぎようがないことですし、住所録にあっただけで家宅捜索されてはたまらない。ほっておくわけにもいかないので力を貸して下さい」とあった。それと前後して夫佐子さんからも電話があった。それによると西村さんの名前をメモしていた連合赤軍の平尾某とは一面識もないこと、数度押収された書類などもまったく無関係のものを持って行かれたことなどを聞いた。「口惜しくて一睡もできなかった」と言われた。当時、西村さんを知る人たちを中心に、全国に呼び掛けて抗議行動のためのアピールを出した。いまからちょうど40年前の話である。

 1992年から、友人の故貴志八郎代議士の要請で住友金属の公害問題にかかわるようになった。大石武一元環境庁長官、阿部康隆神戸大法学部教授、淡路剛久立教大教授、濱秀和弁護士等のご協力で数年間和歌山に通った。その途次、堺市の西村邸にお邪魔してはご馳走になったりした。古寺古跡などに造詣が深かったから、友人の車で大和吉野のお寺などを案内していただいた。

 そのうちに、2001年から私が四国歩き遍路をはじめて、ミニコミ『老人はゆく』を2004年1月から2010年2月まで約6年間、26号まで発刊した。このミニコミにも、長い付き合いとなった70年代住民運動生き残りの東西の先輩二人に寄稿して頂いた。一人は住民運動の中では左翼リベラルの系列に入る西村翁と、もう一人は保守リベラルの立場に立つ北海道の正木洋老である。政治的立場は異なるが、お二人とも仲良く、私はその中間に居て、大いにお二人の能力を利用させていただいたわけである。

◆メールマガジン・オルタの時代と最後のコラム

 そのうちに、加藤宣幸・富田昌宏共同代表によるメールマガジン『オルタ』がイラク戦争の不条理に反対する市民の声を 上げようと2004年3月に創刊された。私もその発起人の一人となった手前、なんとかしなければと考えた末、やはり地方の論客を探し出して書き手になってもらうことが必要だと提案した。そこで真っ先に「西村徹大阪女子大名誉教授」の名を挙げた。

 その依頼による原稿の第一回目は「コラム」と題された掌編で2005年の5月である。その書き出しが面白い。「加藤さんから頼まれた仲井富さんから、メールマガジン・オルタに毎月コラムを書いて欲しい、今月の締め切りは20日です。こんなメールが来た。それを見たのが16日夜、就寝前のこと。翌日は友人のクルマで大和への予定があって、都合三日で入社試験のレポートを書けといわれたようなもの。それで自分は「今週の末から四国遍路に出かけます。来週の末には帰京します」というのだから流石往年の大オルグは強引なもの」。

 以後の西村さんは書きも書いたり。2005年5月の15号から、今年2月のメールマガジン・オルタ134号まで、実に連続109回、一回の休みもなく書き続けていただいた。今年の2月20日発行のメールマガジン・オルタのコラムは、明確に死を意識した絶筆であったと思う。「横丁茶話 死の真実 」と題した以下の文章を私は重い気分で読んだ。

 —「土」を書いた長塚節は37歳で死んだ。「土」そのものは、ひたすらに死をあこがれたとしても何の不思議もないと思える農民の生の悲惨を、これでもかこれでもかと描いたものである。にもかかわらず病中雑詠 その一には、「喉頭結核といふ恐ろしき病ひにかかりしに知らでありければ心にも止めざりしを打ち捨ておかば餘命は僅かに一年を保つに過ぎざるべしといへばさすがに心はいたくうち騒がれて」というまえがきがあって冒頭に、生きも死にも天のまにまにと平らけく思ひたりしは常の時なりき(中略)。「昔」、すなわち「常の時」には、死について人はみな大口を叩くものである。

 私自身今それを恥ずかしく思う。それ以上に37歳の長塚節が感じたのとあまり変わらぬものを88歳にしてなお感じるのを、さらに恥ずかしく思う。(中略)もう一つの厄介は「常の時」に吐いた恥ずかしい大口が、すべてウソだったかと言うとそうではなくて多分に真実を含んでもいることである。じっさいに死はつねに他人にしか起こらないし、死は救済でもあることには間違いはないのである(2015・02・14)—

 日付は2015・2・14となっている。この11日後、西村さんは肺がん宣告1年1カ月後の2月25日逝かれた。「メールマガジン・オルタ」の記事は、西村徹を記入してクリックすれば、たちどころに西村さんのすべてのコラムが一覧表となってパソコン上に出てくる。これから先輩の驥尾に付すべく、ゆっくりと西村コラム10年間の109回分を読み返したい気分になった。西村さん死してなお後輩に大いなる楽しみを残して下さったと感謝したい。

 私は西村さんのことを、昔から不倒翁と呼んでいた。何しろ病気のデパートみたいな方であった。もうダメかなと思っていると、不思議に元気になって帰ってくる。この数年でも下腹部の動脈瘤手術、喉頭がん手術などなど、そして入院もしばしば。しかし今回の肺がん死に至るまで、まったく休みなくオルタに執筆をされていたことに驚き、かつ敬意を表したい。ご本人はまことに小柄で温和な感じの方である。重い病などに耐えられる体力があるとは思えない。その西村さんはおそらく同世代の友人たちの中で最も長く生き抜かれたと思う。

 夫佐子さんから「今回が10回目の入院でした。かつての学友が『葬式はお前が一番だ。俺が葬儀委員長をしてやる』と云われましたが、皆さん徹より早く鬼籍に入られて、体力と寿命は別物と痛感しています」というメールを頂いて納得した。最も残念なことは、80代唯一のメール友達を失ったことだ。私が、不倒翁だからあなたは死なないのだとメールし、近年物忘れ防止のため帽子から携帯、カギに至るまで紐を付けることにした旨を知らせると「紐付徘徊老人殿」という宛名でメールが来るようになった。二人で冗談話をしながらメールで遊んでいたわけである。不倒翁ついに倒れる時期がきて、見事に天寿を全うされたと思う。不倒翁の一句を懐かしく思い出す。合掌 
 『もうアカンと 言ひつつ年は 明けにけり 徹 』

 (筆者は公害研究会代表)

   *   *   *   *

<再録>
『西村徹 初めての靖国』 (『老人はゆく』2006年7月 N.16)

●自存自衛と侵略行為否定

 靖国神社を初めて見た。生まれて八十年を経て初めて見た。実際は空っぽであろうが、むしろ空っぽゆえに二拝二拍手一揖したのだから、見たというより参ったのであろう。聖なる場での自然の反応でそうなる。祀られているとされる従兄、叔父、級友が念頭に浮かぶのは、そのときすぐさまのわけでもないが、そのときだけのものでもない。

 森は見事だ。創建の姿そのままではなかろうが、創建の時から育ってここまでに繁ったのなら創建の姿を伝えているものではあろう。七四年に建てたという高さ二十五メートルの鋼管製大鳥居は醜悪だ。八七年に建てた大神神社の高さ三十二メートルの大鳥居に次いで醜悪だ。三四年製神門の肉厚の立体的な菊花紋はなまなまと、いささか威圧的で、三五年富国徴兵寄贈の大灯篭ほど卑俗でないが決して趣味のいいものではない。総じて昭和軍閥がのさばり始めて以後と、戦後の高度成長期以後とに手の入ったものがよくないようだ。

 拝殿はというと、これは創建神社の例に漏れず、いささか虚仮威しめいた裄丈が気にならぬではないが、肩肘は張りながら辛くも神社としての節度は保たれていて、昭和期誇大妄想の兆しはまだない。明治人の謹直と謙抑を覗えるようだ。「ご創建の姿のままに」という松平永芳六代宮司の見識を多とする。切妻の飾り金具が綺羅々々しいのは修理後間もないことゆえやむをえまい。

 問題は遊就館。「殉国の英霊を慰霊顕彰すること」も「近代史の真実を明らかにすること」も民営化された宗教法人の思想信条表現の自由に属することであろう。「近代国家成立のため、我が国の自存自衛のため、更に世界史的に視れば、皮膚の色とは関係のない自由で平等な世界を達成するため、避け得なかった多くの戦いがありました」というのも、確かにそういう側面はあったと思う。

 しかし「我が国の自存自衛のため」でない、避け得た多くの戦い、つまり「近代国家成立のため」に行った帝国主義侵略戦争、それに伴う紛れもない残虐行為にも言い及ぶのでなければ「近代史の真実を明らかにすること」はできまい。入場早々に観ることになる映画で先ず聞こえたのはわが軍の残虐を頭から否定する言葉。耳を疑わざるを得ない言葉であった。東京裁判を法理上否認することと残虐行為という物理的事実を否認することとは同じではない。博物館を名乗る以上、負の面をすべて隠してしまうようではスミソニアン航空宇宙博物館が原爆展を拒んだのと同じく、著しく説得力を欠いたもの、白く塗りたる墓になりおわるであろう。

●自己憐憫と自己正当化の歌

 今や骨董となったさまざまな兵器を陳列するのは軍事博物館として当然であろう。英霊の遺品を展示するのもよい。英霊に嫁いだ花嫁人形は、その哀傷語るに切ない。もっとも胸に迫るのは霊璽簿を納めた招魂斎庭の御羽車である。招魂の儀によって迎えられた英霊はこの小さな白い輿に納まり、神人に担がれ宙を漂うかのように運ばれて本社に入るのであるが、想像するだに心にくい神道儀礼である。今後この儀のないことを願うが、この御羽車はそれだけで一棟独立の建物に納まっておかしくないほど靖国神社を象徴するものに思う。

 なぜ、この域にとどまらず、映像やパネルによって自己憐憫と自己正当化の歌を唄うのか。多数兵士の大量の血と高級将校の微量の血のほかに、内外の非戦闘員の大量の血を流したことには禄に触れないで、甲高くめそめそと大本営発表を繰り返すのか。これでは優先席に座って目の前の老人に席を譲ろうともせぬ若者と変わらぬのではないか。訪れる外国人の憫笑を買うだけにはならぬか。平成十七年歌会始の御製「戦なき世を歩みきて思ひ出づ かの難き日を生きし人々」を噛み締めてみることを切に望む。
     (にしむらとおる・大阪女子大学名誉教授)


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