【コラム】ザ・障害者(5)

世界に類のない日本の盲人史(3)

堀 利和


 鍼灸あんまの話に戻りますが、近代資本主義が産声をあげて、地方の農村から労働力として人口が都市に流入してきました。しかし、資本主義経済は好景気ばかりでなく、不況や恐慌があるわけで、失業した人たちがあんま業などに入ってきて盲人の職場を侵食します。

 実は江戸時代にも同様なことが起こりました。埼玉出身の吉田久庵(きゅうあん)という人が、参勤交代で江戸に来た武士などを相手に、あるいは花柳界などで風俗まがいの「あんま」を業とします。盲人数名がそんな施術所に入り込んで、いわば座り込み闘争、実力闘争をするといったこともありました。

 明治27(1894)年に「鍼あんを盲人の専業に」という請願が出され、衆議院では可決されますが、貴族院では否決されました。都合三回このようなことが繰り返されました。明治35年(1902年)には「盲人医学協会」が創設され、「板垣死すとも自由は死せず」と言った板垣退助伯爵が応援し、専業運動にも協力します。

 ちなみに、当時の人口は五千万人程度で、うち盲人は79,567人。7人(一桁)というところまで実態調査を行ったんでしょうね。現在は人口1億2千7百数十万人で盲人は30万人です。

●大正から昭和へ

 大正15(1926)年に「衆議院選挙法」が改正されて点字投票が導入され、1928年に初めて衆議院選挙で実施されました。点字投票総数は5,440票ほどでした。これが少ないか多いかはわかりません。当時はまだ婦人参政権などもありませんし、盲人も点字の読み書きができる人は限られていたはずです。
 十数年前、厚生省が五年ごとの実態調査の中で初めて点字使用者数を調べたところ、一割程度で、一昨年文科省が児童生徒を調査したのでは、点字使用は6.7%しかいませんでした。そんな状況です。

 話しは変わりますが、特に太平洋戦争中、多くの障害者は「非国民」「ごくつぶし」と言われ、防空壕に入ることさえ拒否されるということがありました。そんな中、盲人たちは何をしたかというと、陸海軍に「戦闘機日本盲人鍼灸号」を贈るために30万円を集め献納したのです。また、あんまマッサージ師の軍隊への慰問団、さらに帝国陸軍では盲人に米軍機の発見のために音を聞き取るレーダー役をさせたりもしました。

 戦争直後の話になりますが、GHQが鍼灸は野蛮な治療だとして禁止しようとし、厚生省も医療制度審議会で禁止の方向に動き出しました。全国の盲人たちは皇居前広場で「業権擁護全国盲人大会」を開き、国会などに激しい請願運動を行いました。ピンチはピンチで、ピンチはチャンスとは信じませんが、このときばかりはピンチをチャンスにしました。それまで鍼灸あんまは警察署、警視庁の所管にあったわけですが、昭和22(1947)年12月に、厚生省所管の「按摩、鍼、灸、柔道整復等営業法」という法律が制定されることになりました。

 これが概ね一千数百年におよぶ盲人の歴史というわけです。
 ここで私なりに盲人史の総括をすると、一点目は『古事記』の時代の盲(めしい)が不吉なるものとして物乞いをし、皇室との関係を深め、幕府からも手厚い保護を受け、江戸時代には検校として大名家に出入りし、朱塗りの駕籠で移動するというところまでいたったわけです。つまり、時の権力に従うのを良しとし、権力にすり寄り、利用もし、したたかに、たくましく、そしてずるがしこく振舞ったと言えるのです。

 二点目は、琵琶法師、盲僧、鍼、あんま、瞽女、箏、三味線、金貸し金融業など、生業、職業といったものが重要な役割をはたしているのです。

 三点目は、集団的行動、あるいは互助的、相互扶助的組織や関係をつくり、今でいう当事者運動、障害者運動を展開したと言えます。こんな輝かしい「盲人史」は日本だけです。

 (元参議院議員・共同連代表)

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