【コラム】
ザ・障害者(3)

世界に類のない日本の盲人史(1)

堀 利和


●平安時代(皇室と盲人の関係)

 『今昔物語』には、琵琶の名手である蝉丸が登場します。『大鏡』では、「盲帝(めしいてい)」として三条天皇の生活が描かれています。この頃、九州、中国地方を中心に「地神盲僧」の組織もあり、皇室の関係を流布していました。
 『当道要集』では、仁明天皇の第四公子に人康親王(さねやすしんのう)がいました。二四歳で失明して、官職を退いて出家し、山科の里で隠遁生活を送ることとなりました。盲人たちに琵琶などを教え、出身である鹿児島県大隅から米を運ばせて、保護したとされます。
 その人康親王の母によって、天皇から盲人たちに、検校(けんぎょう)、勾当(こうとう)などの官位が与えられたということです。これが当道座の位階の始まりとされます。しかしこれは、史実的に確かであったかどうかはよくわかりません。

●鎌倉から室町時代へ

 宮廷雅楽や仏教と結びついて、盲人が独占的に平家物語を琵琶で語りました。その独占は鎌倉時代の初期から中期にかけて確立されたものです。当道座のルーツになる琵琶法師の「座」の原型がつくられました。

●室町時代

 この時代、同業組合の「座」が発展、確立されます。琵琶法師の「座」も確固たるものになります。当道の道は芸能の道で、わが道の「座」を意味します。
 十五世紀は平家琵琶の黄金期に入ります。宮中の儀式でも琵琶演奏が催され、宮廷や将軍家のお座敷にも呼ばれましたが、彼らはほんの少数のエリートでした。その一方では、街道や寺院周辺で三、四人の集団をつくり、杖と琵琶を背負った下級琵琶法師が多くいたわけです。これが現実ではなかったでしょうか。ちなみに、「ザトウクジラ(座頭鯨)」という名のクジラは、それが琵琶の形に似ているからとか、琵琶を背負った盲人の姿に似ているというところからきたようです。
 一方、津軽から越後にかけて、盲女性の芸能集団で瞽女(ごぜ)というのがありました。起源は不詳ですが、室町時代の文献に出てきます。

 足利尊氏の従弟である明石覚一(あかしかくいち)検校(一三七一年没)が、歴史的に信頼のもてる初めての検校といえます。明石検校は、鍼灸を盲人の職業として提唱します。
 後醍醐天皇の勅定によって、検校、別当、勾当、座頭などの一六の位階からなる「護官制度(盲人に官位を与える制度)」が定められました。そして、平安京都に「当道職屋敷」をおいて管理し、江戸時代になると関八州にも同様の「屋敷」が造られました。

●江戸時代―当道座の完成

 十七世紀から十八世紀にかけては、八橋、生田、山田の三検校によって、盲人の職業として邦楽(箏⦅こと⦆、三味線)もさかんになりました。すでに琵琶は衰退していました。

 身分社会が完成した近世において、「当道座」も、疎外された身分組織としてその完成をみました。
 検校は大名家への出入りが許され、一万石の格式が与えられて、朱塗りの駕籠に乗っていたと言います。勾当は旗本などに出入りができました。
 座頭は、一定区域内の町方の盲人を統率する役割が与えられていたといいます。いわば現場監督といったところでしょうか。座頭というと低い身分に見えますが、当道座が七二の位階になっていることから、そうでもないようです。座は男だけの集団で、三千人いたといわれています。(つづく)

 (元参議院議員・共同連代表)


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