【コラム】海外論潮短評(106)

フリー・スピーチ抑圧の危険
— 世界的にみる言論の自由への挑戦 —

初岡 昌一郎


 英週刊誌『エコノミスト』6月4日号が、社説欄のトップと国際欄で6ページにわたる異例の長さの記事で、言論統制が強まる世界的な潮流に危機感を表明している。国際欄の記事は、北京、カイロ、メキシコ、パリ、ダッカなどの特派・通信員からの情報を編集部がまとめたものである。また、アメリカの大学における言論の自由を別掲の記事で取り上げている。社説の概要と国際欄記事の部分的な要約を以下に紹介する。

◆◆ 攻撃される言論の自由 — 声をあげる時

 ある意味では、今は自由な言論の黄金時代である。スマートフォンで地球の裏側の新聞社を呼び出すことができる。フェイスブックは毎日10億以上のツイートを掲載している。インターネットにアクセスできる人はだれでも出版者になれるし、ウィキペディアにリーチできる人はデジタル情報天国に入れる。

 しかしながら、情報監視機関の報告は自由な発言がますます危険な行為となりつつあることを示している。自由な言論に対する規制・抑圧が厳しくなっているが、思想の切磋琢磨がなくなれれば世界は臆病になり、無知となる。

 言論の自由に対する攻撃は三通りで現れている。第一に政府による攻撃が増加している。かなりの数の国が冷戦時代の統制を復活させ、あるいは新たに導入した。ソ連崩壊後、ロシアは活発で自由な論争を享受したが、プーチン政権下では言論統制が進んだ。すべての主要テレビ局のニュース番組は国家ないしプーチン側近にコントロールされている。不都合な質問をするジャーナリストが強制収容所に送られることはないけれども、批判的な記事を書いた数人は殺害されている。

 中国の指導者習近平は2012年の就任後、ソーシャルメディアの検閲を強化し、反体制派数百人を逮捕、大学でのリベラルなディベートにマルクス主義を注入するよう指示している。中東では。アラブの春による独裁者追放が初めて国民に自由な発言をゆるした。チュニジアではまだ自由が継続しているが、シリアとリビアではジャーナリストにとっての危険度は蜂起以前よりもはるかに増した。エジプトは「自分以外の人の言うことを聞くな」という独裁者に支配されている。

 第二に、国家以外のアクターが暗殺の脅しによる「検閲」と言論「自粛」を強制する国が増えてきた。メキシコでは犯罪や政治腐敗を調べているレポーターが拷問を加えられ、虐殺されるケースが少なくない。ジハーディストは、信仰を侮辱したと彼らがみる作家や芸術家を暗殺している。イスラムに敬意を払わない者たちはリスクを冒すことになる。バングラデシュでは非宗教的なブログを運営するものが、白昼街頭で殴殺された。フランスの漫画家は事務所で射殺された。

 第三に、個人や集団は非難や批判を受けない権利を持つという考え方が広がっている。慎みや遠慮は美徳なので、これは一見当たり障りがないようにみえる。だがこの権利を守るためには、誰かがそれを追跡、監視しなければならないし、批判や非難に対して公的機関がその権限を行使して個人の名誉を守ることは、それらの定義が恣意的政治的になりがちなので、権力の乱用につながる。

◆◆ 後退を続ける自由な言論

 多くのヨーロッパ諸国において、反テロ法が言論規制に以前よりも積極的に利用されるようになっている。それは政府がテロを恐れているからでもあるが、ソーシャルメディアを監視し始めたからである。過激派に対する共感の言葉を容易に探知できるからだ。バスク独立派のETAは2011年に武装闘争を停止したが、テロリズムを美化したとの容疑を掛けられたスペイン人の数はその後5倍に増えた。

 フランスは2014年に「テロリズムの擁護」を刑法上の犯罪とし、昨年のパリでのテロ以後精力的に適用されている。多くの国がヘイトスピーチ対する法律を制定ないし復活させた。それらは定義が漠然として曖昧なものが多く、乱用の危険がある。

 フランスでは女優のブリジット・バルドーは「人種差別教唆」で5回も有罪判決を受けた。その理由は、動物愛護論者の彼女がイスラム教のハラルに基づく屠殺を非難したからだ。インドではイギリス統治下で制定された刑法が、「宗教、人種、出生地、居住地、言語、カースト、コミュニティ、その他いかなる理由による不和」をかきたてるものに対し3年以下の禁固刑を定めている。

 このような法律は政敵を抑圧しようとするものには都合のよい手段である。そして異なる集団の調和を促進するのではなく、相互間の告訴合戦を誘発している。邪悪な政治家がこれに関与すると特に危険が増す。一定の集団に集票を依存する政治家は、選挙前になるとその集団を侮辱したなどの理由で、特定人物の弾劾を利用するのが便利だと心得ている。

 欧州14ヵ国を含み、多くの国が依然として不敬・冒涜に対する法規制を行っている。スペインでは左翼の女性政治家がカトリック教会での抗議集会中に宗教を侮辱したとして、この3月に有罪判決を受けた。集会中に「胸のロザリオを引きちぎれ」と叫んだ「罪」で、4,320ユーロの罰金を課された。

 パキスタンやサウジアラビアなどのイスラム国政府は、イスラムに対する冒涜を厳しく罰しているが、宗教に対する侮辱禁止を国際法に定めるように要求している。これは西欧における「ヘイトスピーチ禁止」概念の当然の延長であると彼らは主張している。西欧の判事の中にも賛成論がある。一例はデンマークの裁判所が「コーラン焚書は犯罪的なヘイトスピーチである」と判断し、1946年以後有罪判決に用いられることのなかった侮辱罪を復活させた。

 一定の政治的な発言を有罪とする、陳腐化した法律がヨーロッパ諸国に多く存在している。EU9ヵ国では国家の「名誉」を侮辱すると罪になる。政府機関に対する攻撃的言動を罪に問えるのが9ヵ国、国旗などの国家のシンボルに対する罪を定めている国が16ある。誹謗中傷を有罪としうるのはEUに23ヵ国ある。これが公職にあるものに向けられた場合に、より厳しく処罰しうるのがブルガリア、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、ポルトガルである。

 これらの法律が発動されたのは稀である。2013年にフランスが国家元首に対する侮辱罪を定める法律を廃止した。サルコジ大統領に対して「くたばれ、この間抜け」という横断幕を掲げて逮捕された抗議者に対する裁判が契機となった。ドイツでは、コメディアンが風刺詩でエルドアン・トルコ大統領を侮辱したとして裁判にかかっているが、メルケル首相はその法律の破棄を検討中である。ポーランドとポルトガルなども外国元首に対する侮辱を罪に問うことができる。アイスランドではその罰則が最高6年の禁固刑である。

 専制的な政府は、言論抑圧の言い訳に西欧の例をすぐに引き合いに出す。中国とロシアは反体制派や政府批判者の抑圧に「テロ対策」、「国家の安全への脅威」、「人種対立の教唆」などを口実としている。ソーシャルメディア上でチベット人に共感を示しただけで、ある中国人弁護士は19ヶ月投獄された。ルワンダ政府は、ホロコースト否定に対する欧州法を借りて、19994年のジェノサイドを擁護したという理由で反政府派を取り締まった。タイの不敬罪はヨーロッパで笑いものにされているが、最近では国王の犬をからかった容疑者に有罪判決が出された。でも、13か国で国家元首の侮辱を有罪にできる法を持つ欧州が、偽善という批判を躱せるだろうか。

◆◆ 自由な言論のために闘ってきたアメリカの大学 — 副作用の竹箆返しで混乱

 アメリカで大学を訪問すると、キャンパスが地震か戦闘の後のように見える。この一年、燎原の火のごとく大学キャンパスで広がった抗議運動は収束していると大学当局は云うが、不平不満の兆しが渦巻いている。学内では雇用と人身安全上に対する不安が引き続き残っている。昨11月には、抗議運動がミズーリ大学学長を辞任に追い込んだ。

 大学で起きていることは学内にとどまらず、全国に溢れだしている。抗議運動の柱の一つは、世界的に原則が危機に直面している言論の自由である。この嵐の渦中にあるイェール大学のある教授によると「この自由がエリート大学で守り切れなければ、先行きが暗い」。

 フェミニズムと性差廃絶をめぐる新しい波が混乱に拍車をかけている。イスラエルをめぐる賛否もこれに加わる。ある集団の権利を拡大することが、他の集団には権利侵害と映る。だが、アメリカの大学を揺るがしている主要な不満は人種主義である。マイノリティを尊重するために、多元的なカリキュラム、スタッフに対する文化理解教育、教授陣の多様化、便宜供与の拡大を多くの学生グループが求めている。

 多くの学生とその支援者は、奴隷労働に関与していた人物を学内の建造物の名称や記念碑・像などから削除・撤去することを求めている。これは全米での議論を反映したものだ。プリンストンでは、公共政策大学院に冠されている、元学長ウッドロー・ウィルソンの名前を削除する要求が出されている。彼は大統領として世界平和の推進者であったが、人種差別主義者とみられているからだ。大学は食堂にあるウィルソンの人物壁画を除くことにしたが、大学院の名称にはその名を残すことを決定した。イェール大学は、市民権運動の指導者パウリ・マレーの名を新学部に冠することにした。

 言論の自由はこれらすべてにとって無関係ではない。憂慮すべき動向の例は、主観的判断に優越性を置くことである。例えば、女性がお世辞とハラスメントの相違を一番よく判断できるように、人種的な蔑みは黒人が一番よくわかるという類の主張である。これは真実の場合が多いけれども、それが中年の白人学部長に対する黒人学生の主張をそのまま認めるべきとの要求になれば、問題は別の次元に転化する。

 言論の自由には強力な竹箆返しが時としてある。社会が機能するためには、非違と非行について公平な判断に依拠しなければならない。だが、多文化主義の時代においてはれそが衝突を生む。偏見は横行しているが、公的機関が介入するには、申し立てだけでは不十分で、立証されたものに限られるべきだ。ある集団の経験に他のものたちはアクセス不可能という主張は、ペシミスティックであるだけでなく、反知性的である。歴史、人類学、文学、その他の研究や調査は、異なる人々が相互に理解しうるという信念を裏付けている。

 活動家は抗議を行う権利を持っているが、その非難が暴力的な様相を呈すると、検閲に道を開くことになりかねない。アメリカ全土の大学キャンパスで講演者が招待を取り消され、また野次り倒される事件が頻発している。大学当局が、ルールを尊重しない意見を表明したスタッフの解雇を、学生から要求されるケースも珍しくない。しかも、左翼的な傾向がその主要な打撃目標にされることがしばしばある。

 この紛争の核心は、大学の役割にある。大学は欠陥に満ちた社会から学生を保護すべきなのか、あるいはそれに対する準備を提供すべきなのか。同じ文脈で、学生を成人として遇すべきか、あるいはその中間にあるので一定の保護と特権を与えるべきなのか。

◆◆ 主張の権利と他者の意見に耳を傾ける寛容の緊張関係

 新しい運動の活発化は大学だけの問題だけではなく、アメリカ政治の悪弊を反映している。反対論には耳を貸さず、意見の相違が紛争にストレートにエスカレートする。しかしながら、注意深く状況を分析すれば、この分裂に橋を架けうる可能性はある。それは、「自分たちがすべてを熟知している」という、思い上がった自己認識を学生たちが持っていないことだ。だが、学生反乱の原因を理解しようとせず、政治が許容してきた不公正や、改革の機会を無視するならば、怒れる学生の主張を正当化することになる。

 フェイスブック、ツイッターその他の主要デジタル情報機関は民間なので、そのプラットホームに公表できる範囲を自由に決めることができる。同じ論理から、私立大学は法律に関する限り自由に学生に対し言論ルールを適用できる。しかしながら、公立大学、そして学生の知的成長を目的とする大学は、学生が様々な挑戦的思想に触れるのを助けるべきである。学外ではこれに反対する意見が多い。それには平和的な抗議、論理と理性で闘うべきである。

 これこそが万人にとって良きルールである。自分が賛成できない意見を封殺してはならない。反対すべき言論には言論をもって答えよ。力に訴えることなく議論に打ち勝つことによって、より強固な立場に立つ。

◆ コメント ◆

 言論の自由という基本的な権利が現代世界において直面している挑戦が、本論ではいくつかの異なる側面から取り上げられている。第一は、国家による言論の自由の否定ないし制限である。この古典的な制約は、独裁的専制的な国家では依然として深刻なものであり、非民主的政治体制と深くかかわっている。第二は、民主主義政治制度が定着していると見られている国における旧制度の残滓や新たな制約の導入である。第三が、確立されている言論の自由がもたらす、市民社会内での個人・集団間の衝突である。これが、移民の増加や社会構成の多人種化の結果としての多文化主義的価値観や、非寛容なイデオロギーの台頭によって深刻さを増し、複雑化している。

 全般的に見て、最も重要な問題が国家による言論の自由に対する否定と制約であることは疑いない。理論的にみてこの点についてもはやそれほど異論の余地はない。「言論の自由」をブルジョア民主主義として、否定ないし軽視する傾向は一部に残るが、それは特殊な国内体制擁護論の延長に過ぎない。第二の傾向は、テロ対策や安全保障上の理由や口実によって、民主主義国における新たな制約導入の動きである。これは現代的な危険として政治的に警戒なければならない。だが、今後の理論的な検討にとって重要となるのは、市民社会において言論の自由が個人と集団に対する理不尽な攻撃に利用される危険と、それに対する国家の介入と保護の関係である。この第三の点は、今日の日本でも次第に顕在化する傾向はすでに感知でき、今後次第に問題が深刻化する可能性がある。

 これに関し、エコノミスト誌は、ヘイトスピーチなどの特定個人や集団を攻撃する言論の禁止・制限のために、国家の介入を求めることに慎重さを求めている。言論の自由に対する国家の介入をいったん認めると、それが乱用される危険があるからである。この点に関して、民主主義的先進諸国においても意見分布にかなりの相違がみられる。

 この特集記事の中で、二つの図表が掲載されている。その一つは、マイノリティに対する言論上の攻撃に、政府の介入を求めることの可否についての世論調査である。アメリカの代表的世論調査会社のピュー・リサーチ・センターが、開発途上国を含む世界15か国の反応を調べた結果、政府の介入に最も否定的なのは、アメリカ(肯定は約25%)、カナダ、イギリスの順であり、政府が介入に最も肯定的であるのが、日本(約80%が肯定)、ウクライナ、ドイツの順であった。他の図表は、言論と表現の自由が拡大した国の数と縮小した国の数を示したものである。2007年から15年の間に、自由が制限された国の数は、拡大した国の約二倍に増えている。言論の自由が顕在的・潜在的な危機にさらされているのは日本だけではない。

 (筆者は姫路獨協大学名誉教授・オルタ編集委員)


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