中国のアフリカン (その三)

■ 【北から南から】

『中国のアフリカン その三』       佐藤 美和子

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 北京留学時代に知り合ったアフリカ・ウガンダ人留学生の友人とは、広大な敷
地の学内でおしゃべりしながら散歩することが多かったのですが、安レストラン
への食事や他所の大学を見学に行くなど、稀に学外へ一緒に出掛けることもあり
ました。

 ある夏の暑い日、彼と一緒にアジアオリンピック村のプールへ泳ぎに出掛けま
した。1990年アジアオリンピックの為に造られたそのプールは、私たちの大学か
ら自転車で30分あまりの距離にあります。往路は久しぶりに泳ぐのが楽しみで、
かなりのスピードで自転車を飛ばしていたため気付かなかったのですが、泳ぎ疲
れてノロノロと漕いでいた帰り道、初めてとある違和感に気付きました。

 通りすがりの人々が、みな私たちを見てはぎょっと目を剥いているのです。信
号待ちなどで一時停車していると、示し合わせたかのようにみんなが彼を凝視し
ています。酷いのになると、一旦通り過ぎたのにわざわざ引き返してきて、後ろ
歩きしながら彼を正面からじろじろと眺める人までいるのです。

 ふだん一緒に学外へ出るといっても大学近辺が多かったため、近辺の人々は外
国人を見慣れていたのでしょう、そこまであからさまな態度をとる人々は見かけ
ませんでした。しかし少し大学から離れたところに行った途端、差別的な態度を
とる人々が増えたのです。しばらくそんな人たちを逆に観察していると、彼に無
遠慮な視線を投げかけたあと、私に非難の眼差しを向ける人がいるのに気付き、
さらにその5年前のとある出来事を思い出しました。

 私の留学先とは別の、外国人留学生が多いことで有名なマンモス大学へ学内の
見学に行ったときのことです。そのとき、校門前に大勢の外国人のにぎやかな集
団を見かけました。たまたまその集団の中に知人が居たため、何の集まりかを知
ったのですが、彼らはアフリカ人男性と中国人女性カップルの結婚を祝って集ま
っていたのでした。すでに北京で仕事を得ているそのアフリカ人男性は、留学生
時代に新婦と知り合ったそうです。

 彼らは結婚を決めたものの、中国人の彼女の両親は元より親族までもがこぞっ
てアフリカ人との結婚に大反対、やはりその頃の中国ではアフリカ人を受け入れ
るのは難しかったようです。結果、激怒した両親や一族が揃って彼女と縁を切る
ほどにまで関係が悪化、そして新婦の身内から大反対を受けている結婚パーティ
ーには参加できないと、新郎新婦の中国人の友人もこぞってパーティーを欠席。
そのため私が見かけた集まりは、新婦以外はみな外国人ばかりだったのです。

 そんな彼らの背景を知って、私は二つのことに驚きを覚えました。一つは一般
的な中国人の、アフリカ人に対する激しい嫌悪感。それも閉鎖的な田舎の人では
なく首都北京の人で、まして新婦の親族には学校教師が多いとのことだったのに
。さらに、新婦の身内が彼らの結婚を認めなければ、新郎新婦の友人までもが親
族を慮ってパーティーを欠席するまでの、中国人の家族意識の強烈さ。日本でも
、我が子が外国人と結婚することを喜ばない人は大勢居るでしょうが、中国での
さらに強い拒絶感に驚きを禁じえませんでした。

 その出来事を思い出したとき、私を非難するかのような表情を見せる人たちが
、もしや私のことを中国人だと思っているのではないかと思い至りました。そし
て、中国人だと認識された私がアフリカンの友人と親しくしていることを、良く
思わないからこそ向けてきた非難の表情なのかも知れない、と。

 そして更にその5年後、私たちはもっとあからさまな態度をとる人々に辟易さ
せられます。その頃、中国東北地方でインターンをしていた彼が、私の働く広東
省へ、春節休暇を利用して遊びに来てくれたのです。私たちは深センの民俗文化
村というテーマパークへ行きました。そこでは、中国の様々な少数民族独特の建
物から踊りや歌のショウが鑑賞できます。私たちはまず、そこのゲート前広場か
ら入り口へたどり着くまでに、酷く時間を取られました。

 チケットブースに並んでいる時や入り口ゲートへ向かう途中、大勢の見知らぬ
中国人が列を成して彼との写真を撮りたがったからです。身勝手にも他人の足を
止めておきながら、自分の気に入る構図で写真を撮りたいからと、彼をあちこち
連れまわすツワモノもいました。そして私は彼の雇った中国人通訳者だと認識さ
れたようで、彼にこういうポーズを取るように言えとか、自分の子を彼が肩車し
ている写真を撮りたいからそのように彼に通訳しろなどと、次々に要求してくる
のです。

 ここ中国では私も彼と同じ『外国人』なのですが、中国人に間違われるほどの
私、そんなぞんざいな扱いを受けたことがありません。徐々に愛想笑いが消えて
いく彼の顔を目にしつつも、驚きのあまりそんな傍若無人な人たちに言い返す言
葉を思いつけませんでした。結局、そんな状況に慣れていて、実は彼の通訳扱い
された私なんかよりずっと中国語が流暢な彼が自分で対応し、やっとそんな人々
を振り切ることができたのでした。「僕たちは、あなたたちと同じくここへ遊び
に来た観光客なんですよ。一緒に写真を撮りたいのなら、テーマパーク内の少数
民族の人と撮りなさい。僕はパンダじゃない」と。

 後から聞くと、さすがの彼も、深センでのこの珍獣扱いにはだいぶ面食らった
そうです。きっと広東省では、首都北京ほどアフリカ人がおらず珍しいのと、テ
ーマパークという観光地にいるのはおのぼりさんだろうから、余計にアフリカ人
が珍しくてあんな振る舞いをされたのだろうね、と少し悲しそうに言うのでした。

 今でこそ広州や深センにもずいぶんアフリカ人が増えましたが、当時は本当に
少なくて、彼はその深セン滞在中、かなり不愉快な思いをしたようです。彼と一
緒に歩いているだけの私も、中国人の隠そうともしない好奇の視線や厚かましい
態度に普段より数倍疲れたのですから、四六時中そんな中で生活している彼は言
わずもがなでしょう。

 自分の好奇心を満たすためには相手の気持ちを慮らないわりに、アフリカ人が
道を尋ねても、逃げたり無視したりする中国人。2月号の『中国のアフリカン 
その一』で書いたように、それから更に8年も経った今も、アフリカ人が道も教
えてもらえないらしいことを知り、中国でのアフリカ人差別はまだまだ根強いこ
とを思い知らされたのでした。

           (筆者は在深セン・日本語教師)

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