【コラム】
中国単信(59)

中国式平等概念

趙 慶春


 筆者の子どもが通っている日本の高校は携帯電話の持ち込みを禁止していて、違反者は二週間の携帯電話取上げ処分になる。しかし今時の高校生にとって、携帯電話は「必須品」であり、違反者が続出しているようだ。そのため携帯電話の話題はたびたび我が家の食卓を盛り上げることになる。

 「緊急地震速報の時がいちばん面白い、着信音が教室中に鳴り渡るんだ」
 「全員の携帯を取上げるのに、先生も苦労しそうね」
 「先生はそうしなかった。ただ気をつけろよと言って、そのまま授業を続けた」
 「皆が違反者なら仕方ないわね。個別のときはやはりルール通り取上げるんでしょうけれど」妻は合点したように言った。
 「そうでもない。先生によって違うよ。厳しい先生もいるし、優しい先生もいる。だってこの前、一人の携帯が鳴ったとき、先生は着信メロディのセンスが悪いとだけ言って、没収しなかった」
 「そうだと、その先生、なめられるのではないの? これからはその先生の授業では皆が携帯をいじるのではないの」
 「そんなことはないよ。そうなったらしっかり没収すればいいんだもの。むしろ優しい先生に皆が感謝するから、その先生の授業ではおとなしくするよ」

 「ちょっと待って」妻は子供の話を遮った。しかも妻が次に何を言いたいかも筆者にはわかっていた。
 「たとえば昨日、ある生徒の携帯を没収しなかった先生が今日はあなたの携帯を没収したら、あなたは文句言わないの?」
 「言わないよ。だって自分が違反したんだから」
 「でも同じルール違反なのに、その先生は違う処置を取ったのでしょう? それでも文句は言わないの? それについてあなたはどう思うの?」
 「文句は言わないよ。運が悪かったと思うだけだよ」

 妻と顔を見合わせた筆者は思う。中国なら間違いなくクレームがつく。正々堂々とクレームをつける人が多いはずだ。「なぜ向うとこっちで処置差があるのか。なぜこちらだけに厳しいのか」と。これこそ中国式平等概念だからである。
 「人権の平等」や「法律上の平等」などは、理屈では中国人も賛成し、言論上も支持する。しかし自分自身の日常生活に及ぶと、「平等概念」が一変してしまう人は意外に多い。その変化とは、「基準」を前提とした絶対平等から、他者との比較による「相対」平等を主張するようになるからである。

 たとえば「中国人は列に割り込む」といったマナーの悪さはよく指摘されるのだが、皆がきちんと並ぶなら大多数の人も列に割込まないだろう。一人だけが割込んで誰かが注意すれば、やはり多くの中国人は並ぶだろう。しかし一人目の割込みを注意せず、二人目以降に注意すると、おそらく文句が出る。これが典型的な中国人の「相対平等概念」現象である。
 この「相対平等概念」は少なくとも三つの側面を持つ。

①常に他人と比較しようとする心理。

 もともと「周囲から他者と差別されることを気にしてそれを恐れる」のは、劣等感を持つ人間の心理だと言われる。しかしこれに「相対平等概念」が加わると、むしろ一種の普遍的心理へと変化してしまうのである。差別されないようにと常に他者の待遇を「基準」として注意を怠らない。こうしていつしか比較する心理が生まれ、それを行動に移す。そのため、中国人は周囲の家庭と比較するのを常として、あらゆる面で比べていく。

 自宅の広さ、居室数は劣らないか。
 子供の成績は隣人、知人の子供とどうか。
 子供の通う学校はどうか。
 子供の習い事の多寡、その成績はどうか。
 服やカバン、携帯電話の型、車などはどうか。
 結婚式、葬式の豪華さ、動員できる客数、料理のレベルと品数はどうか。
 週末のレジャーや旅行の頻度、行く場所はどうか。
 学生や生徒なら、新年にもらった年賀状の数はどうか。
 勤めている会社の知名度、福利厚生の充実度はどうか。

 給料、ボーナスの多寡も当然比べる対象であり、哀しいことにこうした「比較」行為そのものが精神的な焦燥の元凶となっている。自分の方が劣っていれば、その焦燥感は増幅されるのは言うまでもない。最近、中国では「この国は焦燥地獄に落ちている」と喚く声がよく聞かれるが、この「平等概念」が大きな要因の一つであることは間違いない。

 ところが、この比べる行為から自分の優越感を楽しむ人も少なくない。他人より少しでも「優れている」という「発見」を優越感と結びつけるのである。それが自信や生き甲斐につながる心理状態は、魯迅が「阿Q正伝」という小説で〝精神勝利法〟として批判した中国固有の国民性である。悲しいことに百年近く経った今でも何も変わっていないのである。

②クレーマーを生む土壌を作り、不満だらけの社会を形成しがちとなる。

 中国には「天外有天、人外有人」(天の外に天あり、人の外に人あり)という諺がある。世の中には優れた人はたくさんいるという意味で使われ、「井の中の蛙、大海を知らず」と同じような意味である。

 あらゆる面で常に他者より抜きん出ようとすることなど、そもそも現実的な話ではない。他人との差を糧にして頑張っていけばよいのに、これが「相対平等意識」と絡むととんでもないことにもなりかねない。他者ばかり見て自分を見つめないため、次第に「反省」能力、つまり失敗や力不足などの原因を自分に求める思考を喪失してしまうのである。そして他者に及ばない、他者より劣る「原因」を「不当差別」「不平等」に帰してしまい、当然のように不平、不満、愚痴が絶えず生まれるのである。

 中華人民共和国建国後に生まれた農業生産合作社、それを引き継いで一九五八年から組織された「人民公社」では、誰もが平等な給与・報酬制度が実施され、それは四十年程前まで続いていた。しかしこのシステムは大きく労働意欲、生産効率を阻害したため、文化大革命収束後に鄧小平は改革開放路線政策を進めた。その結果、同僚間でも収入差が生じるという現実を突きつけられたのである。
 収入が低い社員は、なぜ差がつくのか、その要因をみずからに求めるのではなく、「同一労働条件にもかかわらず、なぜ自分の給与が低いのか」と社長にねじ込む現象がそこかしこで起きたことは記憶に新しい。他人との俸給差を気にするあまり、相手に俸給額を訊く人が増え始め、いつしかそれが社会常識としてタブーでなくなってしまっていったのである。

 このように他人との比較にエネルギーを費やし始めると、いつしか自分を見失っていくことにもなりかねず、ついには真にやるべきことが何かをも忘れてしまう危険性を孕んでいるのである。

③「相対」平等意識の重視は「絶対」の基準を軽視しがちになり、やがて忘れ去ってしまう恐れがある。

 ある中国の小学校では、学校の経費節約のため、子どもの宿題や部活、イベントの資料などの印刷を親に任せるとのこと。任せられた親はどうするのか。
 私営企業に勤務している者は、コピー機を自宅に備えていない限り、コピー代を支払ってコピーするしかない。ところが国営企業勤務者ならば、会社のコピー機を使って会社負担にしてしまう。小学校側はむしろそうする親が多くいることを承知しているらしいというのである。

 中国では一人でもこうした人間が現れれば、二人目、三人目と間違いなく現れる。なぜならこれまで述べてきたように、それが「平等」だからである。他者がその「恩恵」を独占する事態は、決して容認できないのである。なぜなら自分が「損」をすることになるからである。
 だからこそ他者にはできないことを自分だけが果敢にやって、自分の優越感を楽しみ、誇示する人が多くなるのである。これは列に割込み、会社の資材を個人流用するなどの「行為」を初めて行った人のみが味わえる優越感である。しかし率先的にやった人の行為は、すぐさま他者の「平等基準」になってしまうのである。まさに連鎖、拡大現象である。

 恐ろしいことは、こうして自分がやったことが社会的に正しいのか、許容されることなのかを考えなくなってしまうことだろう。
 中国人の日常生活ではこのような「平等意識」が共有されていると言っていいのだが、法律や規則、規制を前にしても同様の思考方法が次第に浸透していってしまうのである。中国人の法制概念が希薄なのには歴史的な要因も否定できないが、この「相対平等概念」にもその一因を求めることができる。
 「相対平等概念」を重視するあまり、真の平等概念が忘れ去られてしまっていることは、家族型の中国社会の将来に何とも憂鬱な影となって覆いかぶさっている。

 (女子大学教員)

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