【コラム】
中国単信(69)

中国茶文化紀行(6)喫茶文化の南北差

趙 慶春


 遅くても三国時代に江南地域に伝わった喫茶文化は晋の時代に一気に普及した。

 『太平御覧』「巻八百六十七飲食部二十五・茗」に「陸納為呉興太守時、衛将軍謝安嘗欲詣納。納兄子俶怪納無所備、不敢問之、乃私蓄十数人饌。安既至、納所設唯茶果而已。俶遂陳盛饌、珍羞畢具。及安去、納杖俶四十、云:汝即不能光益叔父、奈何穢吾素業」(陸納が呉興の太守をやっている時、衛将軍の謝安(320~385年)がかつて陸納を訪問したことがあった。納の兄の子・陸俶は陸納が何も用意していないことを怪しんでいたが、敢えて聞かずに、ひそかに数十人分の料理を用意させた。謝安が着くと、陸納が用意してあったものはただ茶と果物だけであった。俶はそこで用意した料理を並べた。山海の珍味がそろっていた。謝安が帰った後、陸納は俶を杖で四十回たたいていた。「あなたはこの私の顔を立てないだけでなく、なぜ叔父である私の平素の品徳まで汚すのか」と言った)とある。
 また『晋書』によると、陸納と同時代の桓温は晩年に自立を図って、よりよい名声を得るために、生活ぶりはいっそうつつましく、どんな客を接待するときにも七皿の茶と果物を出すだけであった、とある。

 上記二つの記録の共通点は、茶が「廉潔」「質素」の象徴になっていたことである。つまり、茶はすでに高価なものではなく、廉価のものとなっていたことがわかる。これこそ喫茶普及のもっとも重要な要素であった。

 また『南斉書』「武帝本紀」によれば、武帝は遺詔の中で「我霊上慎勿以牲為祭、唯設餅・茶飲・乾飯・酒脯而已。天下貴賤、咸同此制。(私の死後、生け贄で祭祀を行うことをやめ、供えは餅・茶・酒・果脯(干して砂糖づけにした果物)だけで十分である。天下の人民は貴賤を問わず、皆この規制に従うように)」とある。
 前回、馬王堆漢墓に茶は貴重品として陪葬された、と紹介したが、今回の文献によれば、祭祀は豪華にせず、安い茶などだけでよいというのである。七世紀ほど年月を重ねて、茶のありようが真逆になってしまっていることがわかる。しかも「貴賤を問わず、皆この規制に従うべき」とあり、一般庶民でも簡単に茶が手に入っていたことを示唆している。

 晋・南北朝時代は茶が廉価となり、喫茶文化もかなり普及したと述べたが、これは南方の話で、北方ではまだ喫茶文化に馴染んでおらず、喫茶文化の南北差が目立った時代でもあった。喫茶文化の南北差に関する資料は数点あるが、もっとも代表的な王粛(464~501)の逸話を見てみよう。

 楊衒之『洛陽伽藍記』に「粛初入国、不食羊肉及酪漿等物、常飯鯽魚羹、渇飲茗汁。京師士子道粛一飲一斗、号為漏卮。経数年已後、粛与高祖殿会、食羊肉酪粥甚多。高祖怪之、謂粛曰、「卿中国之味也、羊肉何如魚羹?茗飲何如酪漿?」粛対曰、「羊者是陸産之最、魚者乃水族之長、所好不同、併各称珍、以味言之、甚是優劣。羊比斉魯大邦、魚比邾莒小国、唯茗不中、与酪作奴」とある。
 この資料については、直訳ではなく、少し説明を加えながら紹介する。

 王肅は初め、南斉に仕え、秘書丞にまでなったが、父や兄弟が南斉の武帝に殺されたのを怨み、北魏に帰順した。王肅は博学多才で皇帝の寵愛を受け、尚書令となった。王肅が北魏に帰順したばかりのころ、羊肉や酪漿(乳製品)など北方風の食べ物が食べられず、いつも鮒の羹を食べ、のどが渇けば茶を飲んでいた。京師(洛陽のこと)の士人たちは王肅が一度に一斗(約四リットル)の茶を飲み干すのを見て、「漏巵」――「底なし茶碗」というあだなをつけた。
 数年後、王肅が高祖(北魏の孝文帝のこと)と宮廷で会食した時、羊肉や酪粥を大いに食べた。高祖はこれをいぶかり、王肅に「中国の食べ物のなかで、羊肉は鮒の羹と比べていかがであろうか。茶は酪漿と比べてどうであろうか」と尋ねた。王肅はこれに対して「羊は陸地産の食物のなかで最高のものであり、鮒は水産の食物の筆頭である。持ち味に違いはあるが、どちらも極上の味で、珍味と言える。どうしても比べてみたいなら、羊は春秋戦国時代の「斉」や「魯」のような大国に、魚は「邾」や「莒」のような小国に比定できる。ただ茶は一番無用なものであり、酪漿の奴隷に過ぎない」と答えた。高祖は王肅の比喩を聞いて、大笑した。
 その場にいた彭城王・元勰は、さらに王肅に「あなたが斉や魯の大国を重んじないで、邾や莒のような小国を愛しているのはなぜであろうか」と聞いた。王肅は「それは私の故郷の最高の美味であるから、どうしても好きになる」と答えた。元勰はさらに「それでは明日、私のところに来てください。私はあなたの好きな「邾莒の食」の宴席を設け、「酪奴」も用意する」と言った。
 喫茶文化の南北差が歴然となっている逸話である。

 ここで言う「南北差」には、二つの意味がある。
 一つは、王粛の南北朝時代には、南方ではすでに喫茶文化が浸透、普及していたが、北方は喫茶習慣がまだ芽生えていなかった。つまり北方の喫茶文化の発展が南方より遅れていた。喫茶習慣の北方への浸透は唐代中期七世紀頃で、南方より数百年も遅かった。
 もう一つは、喫茶文化意識の差である。王粛の「酪奴」の逸話でもわかるように、茶はすでに北方に伝わっていて、決して入手困難な状況ではなかった。しかし、乳製品を飲む伝統があって、茶を受け入れない心理が働いていたと考えられる。

 陸羽『茶経』の冒頭に「茶者、南方之嘉木也」(茶というものは南方のよい木である)とあるように、茶は南方が出産地で茶に親しむ文化意識が北方より強かった。しかも、地理、気候、そして物産的な要素は時代を経ても変化せず、「喫茶文化全体のレベル」で、基本的に南方は常に北方に先んじていた。これは喫茶習慣が北方にも普及した後でも、変わらなかったし、現在でも同様である。
 「喫茶文化全体のレベル」という表現はやや曖昧で、ここには「喫茶意識」、「茶に対する親しみ度」、「茶と日常生活の密着度」、「茶を文化として捉える概念と捉え方」、「お手前の熟練度」、「喫茶に対する審美意識及びその表現の方法」等々が含まれているが、もっとも手っ取り早い証明はなんと言っても喫茶量だろう。

 次に示す各地域の「喫茶量」から中国喫茶の「南北差」と「全体図」を考えてみたい。

画像の説明

 (百度百科より)

 この「中国茶区分布図」からは一目瞭然だが、中国の茶産出地区は南方にあることがわかる。河南省の「大河網」によれば、中国34の省、自治区、直轄市(日本の都道府県に相当する)の喫茶量トップ10は次のようになる:「広東、江蘇、浙江、上海、山東、福建、河北、北京、河南、遼寧」である。北京と遼寧を除けば、南方地域が喫茶量のトップ10の8割を占めている。ただし、中国喫茶の全体図を描くには、別の視点からいくつかの説明を加える必要がある。

 1)山東省は中国茶産出の北限である。しかも山東省と河南省はその南部地域だけが茶の産出地にかかわらず、喫茶量がトップ10入っているのは人口が多く、山東省は第二位、河南省は第三位だからである。つまり、人口の多さが喫茶量を押し上げていると考えられる。ちなみに人口最多は喫茶量一位の広東省である。

 2)喫茶総量ではなく、一人の喫茶量で見ると、図の赤い数字で示した通り、一位は内蒙古自治区、二位は西蔵(チベット)、三位は青海省である。この三つの地域の共通点はともにモンゴル族やチベット族など少数民族の居住区である。
 羊の肉や牛肉を多量に摂取している少数民族にとって、茶は大事なビタミン源であり、脂質を溶かし消化を促進する効果もあり、嗜好品というより、生活必需品である。一日も茶を欠かせないと言われるほどで、人口が少ないため、喫茶総量は多くないが、一人平均の喫茶量では上位を占めることになる。また淹れた茶の中に別の食品を入れる、いわゆる添加茶を愛用するのも、多くの少数民族の共通点である。

 3)茶を産出しない北京市と遼寧省が喫茶量のトップ10入りする理由は何か?
 遼寧省茶葉業界協会会長の高峰氏は2013年、第一茶葉網のインタビューに次のように答えていた。「遼寧省の茶消費量の増加は2005年頃顕著となり、毎年20%増となっている。その理由は二つ。一つは経済の発展によって、単なる飲み物ではなく、喫茶に文化を求めるようになったこと。もう一つは、裕福になるにつれ、より健康に気を遣うようになり、茶の健康効果に目が向けられたこと」だと。
 つまり、北京と遼寧は経済の発展が喫茶活動の活発化につながるモデルケースとなったのである。

 雲南は茶の原産地、四川は経済発展で喫茶文化発祥の地となったことはすでに紹介したが、二千年以上の年月が流れたものの、現在も同じ道を辿っていると言えそうである。

 (大学教員)

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