【オルタ広場の視点】

中曽根元首相と正力社主~平和利用の象徴として原発をヒロシマへ

仲井 富

◆◆ 加納美紀代『ヒロシマとフクシマのあいだ』 原発平和利用の歴史
 ◆ 武谷三男教授は被爆体験のゆえに平和利用を主張
◆◆ 中国新聞 平和利用被爆地の一翼と2011年総括
 ◆「原子力平和利用博覧会」 11万人見学 模型やパネル 先進技術紹介
 ◆ 反感恐れ 米が懐柔策 広島の反応に関心
 ◆ 反核運動と原発  路線対立 議論深まらず 60年代後半 反対の声も
 ◆ 原水禁運動の転機 1971年原水禁世界大会で原発含め核絶対反対
 ◆ 90年代に広島市長 平岡敬さんに聞く 原発には鈍感だった
 ◆ <主な原子力関連史> 1945年~2011年
◆◆「平和とうろう集会」 2012年8月6日

<はしがき>
 私は不明にして日本最初の原発第一号が、被爆地ヒロシマに誘致されていたことを知らなかった。今年の夏、数年ぶりに広島を訪れ、広島市にある原爆記念館を歩いてみた。私が広島に行きたいと思った理由は、下記の加納美紀代氏の『ヒロシマとフクシマのあいだ』という著書を読んだことによる。1955年の原水禁第一回大会と平行して、日本に原発をという動きが具現化していた。そしてその先陣を切ったのが中曽根元首相であり、読売新聞の正力松太郎であったことを知った。
 中曽根元首相が101歳で亡くなった。戦後の宰相で、日本をどうすべきかの青写真を作って、さまざま改革を成し遂げた。功罪あるにしても、中曽根政治以降、日本政治は混迷を極めている。同時に中曽根政治の負の遺産ともいうべき日本への原発誘致が、フクシマ原発の惨事を招いたことも事実である。
 その原発誘致の第一号が広島であったことを確かめたくて、私は、広島原爆記念館の資料室に担当者を訪ねて教示を受けた。そこには、当時の広島県の資料が置かれていた。その資料などを基に、中曽根元首相や後に最初の原子力委員長となる読売社主の正力松太郎などが、ヒロシマに原発第一号を誘致しようとした歴史的事実を確認したのである。

◆◆ 加納美紀代『ヒロシマとフクシマのあいだ』 原発平和利用の歴史

 最初は、加納美紀代著『ヒロシマとフクシマのあいだ―ジェンダー視点から』(インパクト出版、2013年)を千代田図書館で発見した。加納美紀代は以下のように述べている。

 ――ここで原子力はジキルとハィドのように二面性を持つことになる。戦争のための原爆という〈悪〉と平和のための原子力利用という〈善〉。「平和」を国是とする日本にとって、原爆の威力が「平和」という〈善〉に結びついた意義は大きい。原子力研究解禁は五二年の独立以後だが、それ以前から動きは始まっていた。元主計中尉・中曽根康弘は四七年政界に入ったが、五一年に日本を訪れたダレス特使に原子力研究の自由を認めるよう文書で依頼した。アイゼンハワーの「平和利用」演説後の五四年春には、第一九国会でいきなり「原子炉製造補助費」一一億三五○○万の予算案を提出し、原子力開発を国策として起動させる。

 戦中から研究をすすめていた学界でも、独立後、原子力開発の動きが急浮上する。そこで問題になったのがヒロシマとの関係である。五二年一○月、第一三回日本学術会議で茅誠司・伏見康治による原子力委員会設置の提案が出された。それに対して広島大学の理論 物理学者三村剛昂は、自らの被爆体験に基づいて反対した。
 「ただ普通に考えると、二十万人の人が死んだ、量的に大きかったかと思うが、量ではなしに質が非常に違うのであります。しかも原子力の研究は、(略)さっきも伏見会員が発電々々と盛んに言われましたが、相当発電するものがありますと一夜にしてそれが原爆に化するのであります。(略)原爆の惨害を世界に知らせる。実情をそのままつたえる。それこそが日本の持つ有力な武器である。」(『日本学術会議二五年史」一九七四年)

◆ 武谷三男教授は被爆体験のゆえに平和利用を主張

 一方、原子物理学の武谷三男(立教大)は被爆体験ゆえの「平和利用」を主張した。「日本人は原子爆弾を自分の身に受けた世界唯一の被害者であるから、少なくとも原子力に関する限り、もっとも強力な発言の資格がある。原爆で殺された人々の霊のためにも、日本人の手で原子力の研究を進め、しかも人を殺す原子力研究は一切日本人の手では絶対行わない。そして平和的な原子力の研究は、日本人がこれを行う権利を持っており、そのためには諸外国はあらゆる援助をなす義務がある」(『改造」一九五二年一一月号)

 被爆国にもかかわらず、ではなく、被爆国であるがゆえに原子力利用だというのだ。この文章は彼の持論「平和・公開・民主」につながるものだが、広島ではこの部分だけが一人歩きする。武谷の言うように、もっとも原子力の被害を受けた国がもっとも恩恵を受けるべきだとすれば、直接被害を受けた広島こそいちばんに権利がある。――

 以上が加納美紀代が指摘している事実だ。

◆◆ 中国新聞 平和利用被爆地の一翼と2011年総括

 広島の原爆資料館で、さらに詳しい原発誘致の事実が明らかになった。以下は、そこで見つけた中国新聞による歴史的検証である。以下はその記事だが、かつて原発の平和利用のキャンペーンに一役買った中国新聞の内省も含めた記事となっている。以下はその全文である。
 中国新聞は、福島原発事故の起きた2011年7月、過去のヒロシマ原発問題について歴史的検証を行った。
 (ヒロシマ平和メディアセンター/3.11とヒロシマ>2011>『フクシマとヒロシマ』第3部「平和利用」被爆地も一翼 11年7月19日)

◆「原子力平和利用博覧会」 11万人見学 模型やパネル 先進技術紹介

 国内外から年間130万人前後が訪れる原爆資料館。被爆者の遺品や熱線で溶けた瓦などが並ぶ。開館から56年。この間に1度だけ、原爆の惨状や放射線の恐怖を伝えるそれらの資料が館外に移された時期がある。1956年5月27日から22日間。資料館での「原子力平和利用博覧会」の開催時だ。

 博覧会は米国の旗振りでアジアのほか、欧州や南米で開かれた。日本では東京の米国大使館と読売新聞社が主催した1955年11、12月の東京会場が最初。1957年8月までに全国11都市を巡回し、計260万人を集める。
 当時の中国新聞記事によると、広島会場の展示品は実験用原子炉の実物大の模型、電飾を用いた核分裂反応の模式図、核物理学者の紹介パネルなど。約11万人が訪れた。
 特に人気だったのは機械式アームの「マジックハンド」。アームの先端で筆をつかみ「平和」「原子力」と書いた入館者もいた。装置が本来扱うのは、危険な放射性物質だったが。
 広島県、広島市、広島大、広島アメリカ文化センターとともに、中国新聞社も主催した。2回の特集ページをはじめ節目節目で紙面の多くを割いて報道している。

 一方で被爆者の感想も伝えた。「(平和利用の)よい面は分かるが死の灰の危険をなくするのにどうするのか、その疑問にこたえるものがみせてほしい」。原水爆禁止広島協議会の森滝市郎事務局長(当時)の談話は、そう苦言を呈している。
 博覧会の巡回展を日本側で主導したのは、読売新聞社元社長の正力松太郎氏。55年衆院選で「原子力の平和利用」を掲げて初当選し、初代の原子力委員長も務めた。後に首相となる中曽根康弘氏らと歩調を合わせて原子力政策を推進。正力氏は「日本の原子力の父」と呼ばれた。
 博覧会から2年後の1958年4、5月には、市内で「広島復興大博覧会」が開かれた。このとき原爆資料館は会場の一つとして「原子力科学館」と一時的に名称を変更。被爆資料とともに平和利用博とほぼ同じ展示品を並べた。

◆ 反感恐れ 米が懐柔策 広島の反応に関心

 原爆投下から11年後。原子力平和利用博覧会の会場に、なぜ被爆地が選ばれたのか。そこには米国の世界戦略が透けて見える。米国のアイゼンハワー大統領が「アトムズ・フォー・ピース(平和のための原子力)」と演説したのは、1953年12月。その4カ月前には旧ソ連が初の水爆実験に成功している。米国は友好国や非同盟国にも原発建設の技術支援をすることで、急速に核兵器開発を進める旧ソ連をけん制しようとしたとされる。
 また翌1954年3月、米国が太平洋ビキニ環礁で行った水爆実験で、日本のマグロ漁船第五福竜丸が被曝(ひばく)。これを機に東京都杉並区から始まった原水爆禁止の署名運動は全国へと広がった。

 立教大の井川充雄教授(メディア社会学)は「米国は反核意識が反米意識につながることを恐れていた。その懐柔策の一つが原子力平和利用博覧会だった」とみる。米政府の宣伝機関(USIA)は国内6会場で来場者の意識を調査。井川教授はその報告書を米国立公文書館で入手、分析した。
 「USIAは特に、広島での調査結果に興味を持っていたようだ。ここで受け入れられれば日本人の核アレルギーをぬぐえるはずだと」。広島会場については全体の報告書のほかに、特別のリポートを作っていたという。そしてそこには「予想以上の成功」「地元の指導者たちに支持された」と記載されていた。

◆ 反核運動と原発  路線対立 議論深まらず 60年代後半 反対の声も

 「ノーモア・ヒバクシャ」を一貫して訴えてきた被爆地広島。しかし核兵器だけでなく、原発もヒバクシャを生むということが原水爆禁止運動や被爆者運動の中で常に共有、主張されてきたわけではない。
 被爆地が原子力の「平和利用」と最初に向き合ったのは、1955年。米下院のイエーツ議員が「人間の発明を死のためではなく生のために使う見地から原爆第1号を受けた広島市に原子力発電所を建設すべきだ」との法案を提出した時だ。「うかつに受け入れるべきではない」などとして支持は広がらず立ち消えになったが、浜井信三市長は「(原爆)犠牲者への慰霊にもなる」と歓迎のコメントを残している。

 第五福竜丸事件を機に全国に波及した原水爆禁止の署名運動が、第1回原水爆禁止世界大会として結実した年でもある。しかし、運動の目的はあくまで軍事利用の禁止だった。
 広島市内で原子力平和利用博覧会があった1956年。長崎市で開かれた第2回世界大会では、原子力の平和利用が分科会テーマとなった。その内容は、平和利用の実例紹介であり、批判的な検討を加えるものではなかったという。

 第1回大会から大会事務局の一員として参加した北西允(まこと)広島大名誉教授は「原子力は科学技術の進歩の象徴。科学への批判は考えられなかった」と振り返る。
 世界大会はその後、旧ソ連の核兵器は容認するべきかなどをめぐり、共産党系と旧社会党系の対立を深めていく。ついに1963年の第9回で分裂。以後、日本原水協と、分裂後に発足した原水禁国民会議が毎年、世界大会を別々に開催する事態になった。1961年11月には、旧民社党などが原水禁運動の新組織として「核兵器禁止・平和建設国民会議」(核禁会議)を結成。平和利用に肯定的な立場をとる。亀裂は被爆者団体にも及び、広島県被団協も同名の2団体に分かれることになる。

◆ 原水禁運動の転機 1971年原水禁世界大会で原発含め核絶対反対

 原子力の平和利用を問う声が出始めるのは、60年代後半から。原水禁は1971年に主催した世界大会で初めて「反原発」を中心スローガンに据えた。代表委員だった故森滝市郎広島大名誉教授は1975年、原発も含めた「核絶対否定」を唱えている。
 原水禁と原水協は1977~85年、再び統一大会にこぎ着けた。しかし逆に路線対立を防ごうと、再分裂するまで「原発」を統一大会の議題とすることは避け続けた。山口県の上関原発建設計画の反対運動を軸に、核そのものを問う活動に一部の原水禁運動や市民グループが取り組んできたが、幅広い世論が後押ししたとは言い難い。

 その間、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故、東海村臨界事故、そして福島で原発事故が起こった。
 「核の被害は原爆だけではない、という認識を被爆地で広げられなかった」と、広島県原水禁の横原由紀夫元事務局長。そして今「森滝さんの『核と人類は共存できない』という言葉の意味を再確認するときだ」と強調する。

◆ 90年代に広島市長 平岡敬さんに聞く 原発には鈍感だった

 中国新聞記者を経て、1990年代に広島市長を2期務めた平岡敬さん(83)に、原発をどう捉えてきたかを聞いた。「文明享受の必要悪として、私も原発を容認してきた」。福島第1原発事故を機に「平和利用」も考え直すべきだとの認識を示した。

 ―広島での原子力平和利用博覧会をどう感じましたか。
 当時、中国新聞に入社5年目。記事に見出しを付ける整理部に所属していた。博覧会を見て非常に感動した。夢のような話ばかりで、展示品のマジックハンドが印象に残る。竹やりで戦おうとするなど戦時中の日本は精神主義だった。その反動から、国民の多くは科学技術を無批判に信仰していたのではないか。

 ―博覧会に対して報道機関も歓迎ムードだったのでしょうか。
 旧ソ連との核兵器開発競争もあり、米国は日本での反米、反核ムードの盛り上がりを恐れた。今からみれば核の陰の部分を隠し、日本人を「洗脳」しようとしたのが博覧会だ。中国新聞の記事も歓迎一色だった。1952年までは連合国軍総司令部(GHQ)の報道統制で、原爆の放射線障害は十分な報道ができなかった。戦時中に大本営発表をうのみにしてきた惰性もあったのではないか。

 ―その後、反核・平和報道で原発はどう位置付けられましたか。
 私も記者として、在韓被爆者問題や核兵器廃絶を訴える記事を書き続けた。軍事利用の危険性には目を向けてきたが、原発が核被害を起こす恐れには鈍感だった。今、それを反省している。

 ―市長時代は。
 平和記念式典の平和宣言で、「原発反対」とは一度も言わなかった。就任1年目の91年、チェルノブイリ原発事故(1986年)の被害者救済を世界の先頭に立って進めようと訴えただけだ。広島に原発がないことが一つの理由かもしれない。また原発で生み出した電気を使いながら反原発を叫ぶ矛盾が、「核の傘」に守られながら核兵器廃絶を訴える欺瞞(ぎまん)と通じている気もしていた。

 ―福島第1原発事故を受け、今の考えはどうですか。
 放射性物質の人類に対する脅威について、軍事利用も平和利用も区別がないことを今さらながらに気付かされた。今の利潤追求社会では、警鐘を鳴らす研究成果もゆがめられ、黙殺されてきた。恐ろしいことだ。必ずしも、原発に固執すべきではない。「経済か、命か」という選択ならば、その答えは決まっている。

 <ひらおか・たかし>
 1927年、大阪市住吉区生まれ。早大卒。1952年中国新聞社に入社し、1975年から7年間編集局長を務めた。1986年、中国放送(RCC)社長。1991年から広島市長を2期8年間務めた。

<主な原子力関連史> 1945年~2011年

<主な原子力関連史> 1945年~2011年

 1945年  8月 米国が広島、長崎に原爆投下
 1949年  8月 ソ連が初の原爆実験
 1952年 10月 英国が初の原爆実験
     11月 米国が初の水爆実験
 1953年  8月 ソ連が初の水爆実験
     12月 米国のアイゼンハワー大統領が国連総会で「アトムズ・フォー・
        ピース(平和のための原子力)」と演説
 1954年  3月 米国のビキニ水爆実験で第五福竜丸の乗組員23人が被曝▽中曽
        根康弘衆院議員らが原子力関連予算案を提出
      5月 東京都杉並区の婦人団体などが水爆禁止署名運動開始
 1955年  1月 米下院のイエーツ議員が、日米が協力して広島に原発を建設し
        ようとの法案を提出
      8月 第1回原水爆禁止世界大会が広島で開会
      9月 原水爆禁止日本協議会(日本原水協)発足
      11月 東京で日本最初の原子力平和利用博覧会が開幕▽日米原子力協
        定締結
     12月 原子力基本法が制定。三原則に「民主・自主・公開」
 1956年  1月 総理府(現内閣府)に原子力委員会を設置
      2月 原爆被害者連絡協議会世話人会が「原子力平和利用博の原爆資
        料館使用には反対」と広島市に申し入れ◇
      5月 広島市で原子力平和利用博開幕▽広島県被団協結成◇
      6月 日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)設立
      8月 日本被団協発足▽原子燃料公社発足
     10月 国際原子力機関(IAEA)設立。日本も加盟
 1957年  8月 茨城県東海村の日本原子力研究所第1号実験炉が臨界点に達し、
        国内初の「原子の火」がともったと報道◇
 1960年  2月 フランスが初の原爆実験
     11月 福島県が原発誘致を表明◇
 1961年 11月 核兵器禁止・平和建設国民会議(核禁会議)発足
 1963年  8月 米ソ英が部分的核実験禁止条約(PTBT)に調印10月発効▽
        第9回原水禁世界大会。社会党、総評系のボイコットで分裂。
        以後、社会党系と共産党系が別々に開催(77~85年は統一開催)
     10月 日本原子力研究所が東海村で日本初の原子力発電に成功。これ
        を記念し10月26日は「原子力の日」となる
 1964年  7月 原水禁運動の路線対立のあおりで、広島県被団協も同じ名前の
        2団体に分裂
     10月 中国が初の原爆実験
 1965年  2月 原水禁日本国民会議(原水禁)結成大会
 1967年  6月 中国が初の水爆実験
●      9月 福島第1原発着工
 1969年  1月 「イスラエルはすでに核兵器を保有または近く保有」と米NB
        C放送が報道
 1970年  3月 核拡散防止条約(NPT)発効
●1971年  3月 福島第1原発が営業運転開始
 1974年  3月 中国電力の島根原発1号機が営業運転開始
 1974年  5月 インドが初の核実験。カナダから提供された原子炉の使用済み
        燃料からプルトニウムを取り出し使用。インドは「平和的核爆
        発」と主張
      6月 電源3法(電源開発促進税法、電源開発促進対策特別会計法、
        発電用施設周辺地域整備法)が制定
●      9月 原子力船「むつ」の放射能漏れ事故▼
 1975年  8月 原水禁世界大会で森滝市郎氏が「平和利用の名の下で建設され
        る原発も否定されなければならない時代に入った」と演説
     11月 福島第2原発着工
 1976年  6月 NPTに日本が加盟
 1978年 11月 福島第1原発3号機で臨界事故▼
●1979年  3月 米スリーマイルアイランド原発事故▼
 1982年  6月 山口県上関町長が町議会で原発誘致の意向を表明
●1986年  4月 旧ソ連のチェルノブイリ原発で事故▼
 1989年  2月 島根原発2号機が営業運転開始
 1994年  9月 国が上関原発を要対策重要電源に指定
     12月 中国電力が上関原発の立地環境調査を開始
 1995年  5月 NPTの無期限延長が決定
 1996年  9月 国連総会が包括的核実験禁止条約(CTBT)採択。未発効
     11月 中電が正式に上関町、県、関係漁協へ上関原発建設を申し入れ
 1998年  5月 インドが地下核実験を実施し、続いてパキスタンも
●1999年  9月 茨城県東海村の核燃料加工会社JCOで臨界事故▼
 2003年 10月 「原発推進」「発電から送配電まで一貫」を盛り込んだエネル
        ギー基本計画決定
 2006年 10月 北朝鮮が核実験に成功したと発表
●2007年  7月 新潟県中越沖地震により東電柏崎刈羽原発で放射能漏れ
●2011年  3月 東日本大震災に伴う福島第1原発事故▼

 (中国新聞 2011年7月13日朝刊掲載)

◆◆「平和とうろう集会」 2012年8月6日

 8月6日午後7時から9時過ぎまで相生橋上流で開かれました。最後の詩の朗読(若松丈太郎の詩「神隠しの街」などをアーサーと山本太郎さんがバイリンガルで)は、圧巻でした。若松丈太郎さんも集会に参加されました。ギターとエレクトーンの演奏も終始流れて、気持ちを和ませてくれました。
 福島や被爆者からのメッセージも心に響くものでした。若者の発言にも元気をもらいました。
 以下はこの集会で採択された「市民による平和宣言」です。

  <市民による8・6広島宣言>

 きょう私たちは、特別な思いを持って、ここ相生橋上流の河畔に集まっています。さきほどまで私たちは、福島県浪江町の馬場有町長の決意を伺うとともに、広島に避難されている人たちの訴えに耳を傾けてきました。そして灯ろうが流れるこの岸辺に集まり、あらためて福島と広島の訴えを聞きました。避難者と被爆者と市民、そして被災地の町長・・・。そこで語られたのは、歴史上最悪の原発事故を経験した私たちは、これからも原発とともに暮らすのか、子や孫たちとともに原発のない社会を築いていくのか、その岐路に立っているという強い思いです。

 福島原発事故では、多くの人たちが、かけがえのないふるさとを失いました。家族を、仕事を、人生を奪われました。避難した人だけでなく、不安を抱えながらふるさとに残ることを決めた人も、みな同じ被害者です。そのことは、67年前のきょう、原子爆弾によって悲惨な被害を受けた、広島・長崎の被爆者がよく知っています。放射線の被害に苦しめられ続けているヒバクシャは、どこでどのように被ばくしても、また今どこにいても、ヒバクシャなのです。国や東京電力の不当な線引きなどによって分断されてはなりません。

 私たちがいま決断しなくてはいけないのは、原発をきっぱりなくしていくのか、将来にわたって事故の危険を負いながらこれまで通り動かしていくのか、その選択です。政府は事故原因が究明されないままに再稼働を決めました。原発施設の真下に活断層がある可能性が指摘されても、考え直そうとさえしません。繰り広げられる官邸前や全国各地の原発なくせの国民の声に耳を貸さない政府の姿勢は民主国家と言えるのでしょうか。

 「平和利用」の名のもとに原発を導入し推進してきた歴代政府は、核武装を真剣に考え、常にその可能性を追求してきました。福島原発事故の後にも、「原発は核抑止力だ。原発を放棄するのはもってのほかだ」という政治家の発言もありました。そして原子力基本法に「安全保障に資する」を潜り込ませ、そのねらいをあきらかにしました。
 私たちは、この流れといま正面から向き合っています。まさに正念場の時を迎えています。

 私たちは、福島原発事故による避難者、原爆によっていまだに苦しみ続けている被爆者、そして脱原発の志を持つ市民がこれからもともに手を携え、核兵器も原発もない社会を目指して今日からまた、歩み続けることを宣言します。
 私たちは、広島原爆の日に世界に向かって叫びます。「原発も核兵器もなくそう!」と。

  2012年8月6日
  広島・相生橋上流にて 8・6平和とうろう集会参加者一同

●「さよなら原発ヒロシマの会」
 〒730-9951 広島市中区大手町4-2-27-403 広島共同センター内
 TEL:082-245-2501/FAX:082-245-2502

 (世論構造研究会代表・『オルタ広場』編集委員)

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