中絶費用無料化提案から中国の人権を考える

【コラム】中国単信(21)

中絶費用無料化提案から中国の人権を考える

趙 慶春


 2015年1月26日の『中国青年報』は、中国での人工中絶者数が年間で1300万人に上ったこと。しかも人工中絶の低年齢化が進み、25歳以下の女性が半数以上を占めているとの北京大学人口研究所がまとめたデータに基づく記事を掲載した。この数字、中国の人口が14億近くとはいえ、あまりの多さに驚かされる。
 ちなみに日本では平成25年度の厚生労働省統計「衛生行政報告例」によると、日本の中絶者数は年間約18万6000人で、年々減少傾向にあるという。

 中国での中絶者の半数を占めるのが25歳以下の女性だそうで、なかでも多いのが学生で、さらに憂うべきことは1300万人という数字はあくまでも表向きの数字。ここには薬物による中絶や、私設診療所のような場所での中絶は含まれていない。一説によると、こうした闇での中絶者数が1000万人を下らないという。

 1980年以降の改革開放政策は中国を一気に国際化へと驀進させたが、それは経済だけでなく、「性」意識も従来の保守的、封建的な捉え方から開放されて、かなり自由、大胆になった。「婚前性交渉」「非婚性交渉」現象は、今は大学生を中心にほとんど抵抗がなくなってきている。もちろん互いに心が通じていればという条件付が多いのだが。

 とはいえ大学生の性に関する知識は浅く、避妊といった自己保護意識も薄い。そのため妊娠という事態になると、結婚はできない、扶養能力はない現実に直面してほぼ全員が中絶してしまうのである。親に頼れない彼らにとって中絶費用が大きな負担となる。挙句が設備、技術、衛生条件も不備な闇医者の低手術費に釣られることになる。無事に済めばよいのだが、心身ともに傷つけられる結果になる学生も少なくないという。

 このような状況を受けてのことだろう。北京市議会の一人の議員が「大学生の中絶手術を無料に」という提案を議会にしたという。
 この提案は大きな反響を呼び、中絶は命の尊さを奪う野蛮な行為で、生命の倫理に背く、人権侵害行為だという声が上がる一方、子供を出産するか否かを決める権利が妊婦にはあり、これも人権の一つとして、議論の主眼は中絶にかかわる“命と人権”に向けられていったようである。

 今や中国は世界ナンバーワンの「中絶大国」になってしまったが、もともとこの国には特殊な例を除けば、中絶の考え方はなかったはずである。事実、中絶件数が多くなったのは改革開放以後のことで、特に1979年に実施されはじめた「一人っ子政策」と大いに関連しているようである。下記の表は中国衛生部が発表した中絶件数の統計であり(一部抜粋)、1979年前後の数字を見てみよう。

  年  全国中絶件数

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 1977  5,229,569
 1978  5,391,204
 1979  7,856,587
 1980  9,527,644
 1981  8,696,945
 1982 12,419,663
 1983 14,371,843
 1991 14,066,313
 1992 10,416,287
 1994  9,467,064
 1995  7,476,482
 2004  7,140,588
 2005  7,105,955
 2006  7,308,615
 2008  9,173,101

 1979年は前年度より一気に240万件も増加している。その理由は、
一、一人っ子政策に違反した妊娠者が強制的に中絶させられた
二、男児重視から妊娠中に性別判断検査を受け、みずから中絶手術を受け、次の男児懐妊を期待する。

 この「二」のケースでは、男児を望むあまり、中絶が能動的現象となり、中絶への抵抗意識が薄弱になる危険性を帯びることになった。

 1983年には1400万人に達し、それから約10年間、1000万人以上の中絶者が存在したことがこの表からはわかる。そして1994年に1000万人の大台を下回り始めるのだが、「一人っ子政策」が定着するとともに避妊への知識と理解が進んだからだと推測できる。
 ところが2008年以降、再び急激な増加に転じることになるのだが、新たな要因が生まれてきたと言えるだろう。

一、一人っ子となる子どもの出産に向けて万全の体制で臨み、少しでも胎児に悪影響を与える危険性がある場合は、中絶を決断するケースが増加した。
二、一人っ子政策で生まれた若者が成人に達し始め、わがままで利己的な行動を取る者が増加してきた。

 大学生の中絶費用無料化については、テレビの特番まで組まれたほどだったが、ここには中国が抱える重大な社会問題が隠されていて、実はこの問題こそ先ず解決されないかぎり、「中絶」と「人権」をいくら議論しても有益な実をもたらしはしないのではないだろうか。
 その社会問題とは何か。

一、「性教育」の実行化と法整備が「性の自由化速度」に追いつかない。
 改革開放政策は拝金主義、成金趣味との相乗効果もあって、「性」を楽しむもの、自由であるべきものといった風潮が容認され始め、日本で言う援助交際の温床を生みだし、大学生、特に女子大生を直撃し始めたことは間違いない。
 しかしその一方で教育現場での「性教育」、特に性に関する基本知識教育及び性倫理、性健康衛生教育はほとんど実践されていない。今やこうした「性教育」も個人任せ、家庭任せにするわけにはいかなくなってきているのである。

二、闇医者取締の法の不備。
 「大学生中絶費用無料化」の原点には医療費高騰がある。たとえば、ごく一般的な中絶手術費用は大卒初任給の一ヶ月分程度になる。もっとも中国では普通の風邪治療でも大卒初任給の半月分は取られることを覚悟しなければならない(良心的病院は別だが)。
 医療費高額の要因には薬品価格設定や販売価格、さらには病院への管理監督などが野放し状態で、法整備などは手つかずのままである。
 ところがもっと深刻なのが「闇医者横行」にほかならない。

 中国では電柱や団地の廊下の壁は宣伝広告で埋め尽くされている。その半分以上が闇医者のもので、その数が中途半端でないことがわかる。中国の東洋医学には科学的に未解明の部分も数多く存在しているが、この「未解明」を巧みに利用しているのが多くの闇医者と言っていいだろう。彼らは五千年の神秘に満ちた東洋医学の歴史を後楯として、ご祖先様からの秘伝技術や処方を謳い文句に患者を集めているのである。
 日本ではあり得ないのだが、彼らのほとんどが医師免許や資格を持っていない。そしてこうした闇医者の横行を取り締まる法が未整備であることこそ最大の社会問題だろう。

三、中絶防止、改善、取り締まりに向けた官僚たちの意識の希薄さ。
 「大学生の中絶費用無料化」を提案した議員の出現は、民主化への動きとして評価できる。なぜならこれまで議員たちの仕事は、事前に「用意」された議案に賛成の挙手をするだけであったからである。でも最近は議員もみずからの意見を述べ、議案の提出も自由にできるようになり、今回の「大学生の中絶費用無料化」議案提出につながったと思われる。

 しかし、中国が抱える重大で深刻な多岐にわたる社会問題や法整備に緊急に取り組まなければならないのに、そこを素通りして、いわば結果としての現象にばかり目を向けても、なんら根源的な解決にはならないだろう。火元を消火せずに周囲の鎮火に力を注いでも、いずれはまた燃え始めるのと同じで、安全で、安心できる生活の保障がないまま、いかに人権を叫んでも何の役にも立たないだろう。
 真の「人権」保護は、どこか遠いところにあるのではない。人びとの日常生活そのものにこそあるのだと思う。
 どうやら中国でしっかりとした「人権」の保護や保証を確立するためには、中国共産党と、もっぱらみずからの地位の安泰に向けられた官僚たちの意識を大きく変革させることこそ急務のようである。

 (筆者は女子大学教員)


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