落穂拾記(32)

乱れることば

                       羽原 清雅

 若者ことば、スマホ的簡略ことば、時代的消滅の流行ことば・・・・コミュニケーションのありようは時とともに変わる。国語の辞典でもはやりすたりの用語など、営業的にも新語の収容に努めている。まあ、そんなものなのだろう、と納得できる。
 ところが最近、言葉をめぐって不快なことが多い。重要なポジションの人物から「まさか」のことばが飛び出す。持てる「権力」を後ろ盾に、あるいは説得力のない説明を繰り返し、はたまた「なかったこと」「個人的発言」などと取り消して逃げる。ときに、常識外れの「確信」をとうとうと述べまくるので、相手もあきれて黙ってしまう。

 本来、ことばは「覆水盆に返らず」のはず。心が行き交いうる場合こそ、たがいに許容の気持ちを持てるが、一般の人々から遠い存在で気心が通じていない人物、とりわけ重責ある者の真意はわかりづらく、とりわけことばの重みを知って使うべきだろう。
 そうした常識が崩れてくると、どうも不快である。

●失言● 森喜朗元首相と浅田真央との応酬。これは、明らかに元首相がやり込められて敗退した。これなどは、真央が大人の立場で軽くいなしたので、まあ不快度としてはましのケースだろう。
 森 「あの子は、大事な時に必ずころぶ」「負けるとわかっていた」
 真央「人間だから失敗することもある。失敗したくて失敗しているわけじゃない。私は別になんとも思っていないけど、森さんが今、少し後悔しているのではないかな」
 森 「可愛い孫からものすごく怒られている。反省しないと」
 ただ、森は2020年東京五輪・パラリンピック組織委員会会長であることからすると、責任はかなり重い。東京オリンピックに向けて、不安を残すようだ。
 首相在任中も「日本は天皇を中心とする神の国」で支持率を下げて退陣に拍車をかけたり、クリントン大統領に 「How are you?」というべきところ「Who are you?」とやったり。麻生太郎元首相(副総理)の漢字の読み違いも困るが、相手の気持ちが読めないのも困る。

●妄言● 籾井勝人NHK会長のもろもろの発言は、この人、三井物産時代に本当に仕事ができていたのか、との心配がある。以前、三井物産社長、会長を務め、きわめて例外の77歳でNHK会長に就任し、9ヵ月で退任した池田芳蔵は、国会答弁であらぬことや英語の答弁をしたり、ボケた挨拶をするなどの不適任ぶりを見せた。「三井」のレベルを思わせ、社員もつらかろう。
 「韓国は日本だけが強制連行をしたみたいなことを言っているから話がややこしい。お金をよこせ、補償しろと言っている。しかしすべて日韓条約で解決している。なぜ蒸し返されるんですか。おかしいでしょう」
 「従軍慰安婦は戦争しているどこの国でもあった」
 「なぜオランダにまだ飾り窓があるんですか」 
 「(尖閣、竹島問題について国際放送で)明確に日本の立場を主張するのは当然。政府が右ということを左というわけにはいかない」
 「(特定秘密保護法について)これが必要というのが政府の説明ですから、とりあえず様子を見るしかない。あまりかっかすることはない」
 その後の経営委員会でも、反省のない「どこが悪いのか」と言わんばかりの発言をしている。
 そのうえ、「NHKのボルトとナットを締め直すのが主たる任務」といい、理事たちに辞表を書かせている。普通ではないが、会長のいろいろな話を聞いていると、報道機関にとっては「強要」「強引」「一定の方向のある支配」に締め直すかの印象がある。しかも、NHK内にこうした発言に動揺する空気がないといえるかどうかも問題だ。
 公共放送を標榜するNHKは、放送法によって「公安、善良な風俗を害しない」「政治的に公平」「事実を曲げない」「対立問題には多くの角度から論点を明きらかにする」とされている。慰安婦制度が外国にあろうとなかろうと、言わなくていいことだし、政府に沿った報道でいいとするなら公平の原理にそむく。やはり、この人事は「カット(勝人)」か。

 安倍政権から経営委員に送り込まれ、籾井会長を選出した人物にも、問題が生じている。
 売れっ子作家になった百田尚樹委員は都知事選の応援で、ほかの候補を「人間のクズ」といった。そのような言葉を大衆の面前で言うこと自体、知的なはずの作家としてとてもはずかしい。そう思うことのないことも恥ずかしい。
 「南京大虐殺を蒋介石がやたらと宣伝したが、世界の国は無視した。なぜか。そんなことはなかったからです」
 「(東京大空襲や原爆投下は)悲惨な大虐殺。これをごまかすための(東京)裁判だった」
 「(日本の真珠湾攻撃について)宣戦布告なしに戦争したと日本は責められるが、20世紀においての戦争で、宣戦布告があってなされた戦争はほとんどない」
 まさにアンチ「自虐」史観の典型で、一歩譲ったとしても史実をゆがめている。このような自説を持ってNHKに多少とも影響をもたらすとすれば、国際社会が受け入れていないように、日本の公共放送としての姿勢を疑われよう。歴史は、過去に恥ずべきことがあったとしても、相手の痛みを踏まえつつ、反省と教訓を持つべきだろう。

 経営委員にはもうひとり、格別の思いを抱き、発言する哲学者が参入している。
 埼玉大学名誉教授の長谷川三千子委員。毎日新聞によると、1993年に朝日新聞社内で拳銃自殺した右翼の野村秋介元幹部の追悼文集に「神にその命を捧げた」「わが国の今上陛下は(『人間宣言』が何と言はうと、日本国憲法が何と言はうと)ふたたび現御神(あきつみかみ)となられたのである」と書き、天皇の存在に対する憲法的疑義、拳銃保持者への礼賛を綴り、メディアへの暴力的威嚇という面には触れないという、特殊な感慨を表明した。

 いずれも、安倍晋三首相就任時の応援団を標榜、まさかではあるがその答礼の人事といわれた。それはそれで、大きな問題ながら、言論の自由はある。また、経営委員が個人的意見を持つのも自由である。
 おふたりと籾井会長はいずれも、「個人的見解」と「公人的発言」とは別もので、その両立を主張するのだが、もし矛盾したふたつの物言いをしたとすると、それはやはり一個の人間として無責任かつ恥ずべきことであり、そうだとしても発言の真意は「個人」が優先するのが当然である。偽りの公的発言がNHKを動かし、職員たちに人事等のおびえでも与えることにでもなれば、それは公共放送の経営に携わるものとしては許されまい。
 私的と公的な物言いがあることは否定できない。ただ、その場合、内容や趣旨としてはほぼ同じであり、言い回しやニュアンスの点で異なる程度でなければおかしい。公的人間がおのれの言動に責任を持つことは当然のモラルであり、二枚舌的な使い分けはゆるされない。
 「数」に裏打ちされた安倍権力を後ろ盾にして、攻撃の刃を持ち得ない野党の追及を退けてはいるが、なんとも落ち着かない。長谷川委員のように、NHK受信料の支払い拒否でもしたくなってくる。

●暴言● 安倍首相にも、問題発言がある。強力な政治基盤、野党の不人気による支持率の高さ、そして党内外の批判勢力の弱さなど、それが安倍氏の自信を持ち上げている。自信を持つのはいいが、独りよがりの独裁感覚は困る。
 集団的自衛権行使の解釈変更について「政府の最高責任者は私である。政府の答弁について、私が責任を持ち、そのうえで選挙で審判を受ける」と気色ばんだ。
 憲法に従うべきところ、法令の解釈で乗り切ろうとする。そのために、おのれに従う法制局長官を起用する。権力抑制のための憲法を黙殺してはいないか。選挙の審判の前になすべきことは、政府の解釈を押し通すことではなく、国会での論議を受けることだろう。

 次に飛び出したのは、衛藤晟一氏。首相補佐官であり、かなりの「お仲間」である。首相の靖国参拝について、アメリカ側は「失望」とかなり強い反応を示した。これに対して、
 「我々の方が『失望』だ。米国はちゃんと中国にものが言えないようになっている」
 これも、動画サイトを削除して逃げたのだが、発言取り消しなどは政治家として、公人として、あまり許されていいものではない。
 政治、政府を動かす要人でありながら、中国、韓国、北朝鮮という近隣諸国との外交関係が途絶えていることへの政治的責任とその自覚がない。また、アメリカが中韓両国と日本の関係悪化が、アジアの緊張を招き、本来アジアにある日本が良好な関係を持つことを望む立場に理解が至っていない。

●野次● あまり愉快ではない話を書いてきたので、ひとつくらい面白い話を披露したい。野次については、安倍首相が予算委員会などで「野次で私の答弁の声をかき消すのでは、国民の知る権利を侵すことになる」と反発していたが、これは一面の真理である。
 国会の審議を長らく見てきたが、野次が出てやむを得ない場面があることは事実である。ただ、大声でわめき散らすだけの野次はいただけない。とにかく品もない。野党にとっては、攻撃のひとつの武器だろうが、限度をわきまえる姿勢も必要だ。また、最近は与党までが野党発言を妨げる長尺の野次を飛ばすのが目につく。

 名野次とはなにか。
 かつて政治評論で名を残した山浦貫一は、その定義を5点あげた。
  1> 議院の規則、典例に通じていること
  2> 頭脳明敏なること
  3> 秩序を失った混乱場裡に処する卓越した声量の持ち主であること
  4> 大胆であること
  5> ボキャブラリーに富むこと

 かつての三大野次マンとして、鈴木力(号・天眼)、佐々木安五郎(通称・蒙古王)、三木武吉を挙げている。天眼は漢籍の素養があり、漢文調は簡潔、意味の多さ、響きがいいので、野次向き。とっさ、かつ本能的に寸鉄人を刺す野次が飛び出したという。大陸浪人あがりの佐々木蒙古王は野武士的な風采、偉大なる蛮声、湧き出るような頓智、加えて院内事情にも通じていたので、なかなかなものだったようだ。
 上記のふたりは明治期の人物だが、三木武吉は保守合同による自民党結成を演出した戦前戦後の人。「妾が4人もいて」との攻撃演説に対して、「ご指摘だが、じつは5人。今もいて、面倒を見ている」とかわしたという伝説が残っている。

 上出来の野次としては、「こうもり安」のあだなを持つ吉植庄一郎が浜口蔵相への質問のなかで「泰山鳴動・・・」とまで言ったところ、議場から「・・・こうもりが出た」との野次が飛び、満場ドッときたという。
 「ダルマ」に似た高橋是清蔵相の答弁で、「ももクリ3年、カキ8年・・・」と引用したところ、間髪をいれず「ダルマは9年!」とやって大爆笑に。これは三木武吉の傑作。
 陸軍政務次官の関和知が陪審制反対の演説をしていたとき、この原稿を作ったのが法務局長であることを知るひとりが「法務局長がその原稿を作った!」と野次ると、すぐさま「関和知、それを読む!」とのひと声。関は立ち往生、議場は大喜び。この野次の主が佐々木蒙古王だった。

 ことばは大切だ。相手を気持ちのなかに置き、発言のもたらす反応を推定し、発言の責任はおのれに帰す、といったマナーがほしいもの。
 ヘイトスピーチのひどさをあげるまでもないが、一度このデモ行進をのぞきに行ってみてはいかが。日本の抱える一面を見、将来を思うとき、この感慨には深いものがある。

 (筆者は元朝日新聞政治部長)


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