【コラム】中国単信(45)

二頭の虎

趙 慶春


 中国に「二頭の虎」という童謡がある。「二頭の虎は走るのが速い。でも一頭は耳がなく、もう一頭は尻尾がない。本当にへんだ」という歌詞で、子どもならたいてい知っている。ただ今回取り上げる「二頭の虎」の話は実際の出来事で、かなり血生臭い。
 2016年7月と2017年1月、北京と寧波の動物園で人間が虎に襲われて死亡した事件がそれである。
 ことの顛末を含めて、まずこの二つの事件を紹介しよう。

 2016年7月、猛獣の放し飼いを売り物にした北京の「八達嶺野生動物園」で、30代夫婦と子ども、それに妻の母親の4人が車で園内を巡っていた。途中で妻が夫の運転に文句を言ったことがきっかけで口論となり、自分が運転すると言い出した妻が助手席からドアを開けて外に出て、運転席へ回って行った。だがその場所はよりにもよって「虎ゾーン」だった。妻が運転席のドアに手を掛けたその時、背後から虎が襲いかかり、そのまま妻を引きずっていってしまった。夫は一旦は車から降りて助けようとしたが、結局、追うのを諦め車に戻った。ところが後部座席にいた妻の母親がいきなり車から降りて、虎を追って行った。

 こうした動きを後ろからついて園内を巡っていた他の参観者が目にして、助手席から外に出た妻に対してすぐさまクラクションを鳴らして警告し、園内巡視管理車も事態に気づき、拡声器で至急車に戻るよう繰り返し警告し、現場に駆けつけたが間に合わなかったのである。

 この妻は顔と胸の一部を失って重傷を負い、妻の母親は別の虎に襲われて死亡、野生動物園は一時営業停止処分を受けた。北京のこの「前代未聞」の事件は大いにマスコミを賑わせ、論議を呼んだが、それから僅か半年後に二件目の「虎事件」が起きてしまった。

 2017年1月29日、その日は旧正月の二日に当たっていた。上海から新幹線で2時間、高速バスで3時間ほど南に位置する寧波市の「中国雅戈爾動物園」に夫婦と子供1人の組み合わせの2家族が訪れた。約2,000円の入園料節約のためか、この2家族とも夫は入園料を支払わず、壁を乗り越えての密入園という手段に出た。壁を越えるとまたフェンスがあり、そこには「猛獣虎ゾーン」という警告板が出ていた。それを見た一人は「密入園」を諦めて引き返した。だがもう一人は警告版を無視してフェンスを越えたとたん、虎に襲われてしまったのである。

 事件当時、比較的多くの参観者がこの惨劇を目にしながら、柵と堀で隔てられていたため為す術もなく、携帯電話やカメラで撮影するしかなかったようである。一方、動物園の管理員はまず爆竹で虎を遠ざけようとしたが、失敗、その間にも虎は男性の遺体を八つ裂きにしようとしていたので、やむを得ず虎を射殺するしかなかった。
 現場で撮影された生々しい動画が数多くネット上に投稿された。この二つの事件は、いずれも映像がネットに流されたからだろう、大きな反響を呼んだ。しかし死者に同情する声は皆無に等しく、批判の声が圧倒的に多かった。しかも批判の矛先は死者個人だけでなく、中国人の負の国民性――日本でも悪評のルールや規則を平気で無視する行為に対して――向けられるようになっていった。

 確かに中国人はよくルールを無視する。その例は枚挙にいとまがないほどである。例えば、お寺や美術館内での「撮影禁止」などは掲示があってもほとんど意味がなく、密かに撮影する観光客は後を絶たない。またマンションの共用廊下には私物を置いてはいけないことになっている。中国人なら誰でも知っている常識だし、入居案内書にも必ず書いてある。だが実態は私物に占拠されたマンションが圧倒的に多い。なかには階段の踊り場まで私物が置かれて、人のすれ違いさえままならないケースまである。住民からクレームが出ようが、管理会社から注意されようが無視し続けるのである。

 ところで一件目の「虎事件」には後日談がある。重傷を負った妻は北京市内の病院に入院して、複数回の手術を繰り返したため、無菌重篤患者集中治療室に収容された。この妻の父親は毎日病院を訪れたが、そのたびに面会は許されなかった。そのため「妻を失い、娘も重傷だというのに面会も許されないとは、なんと冷酷な病院なのだ」と関係者に罵声を浴びせ、連日騒ぎを起こしていたのである。この人物は、患者を守るためのルールであることへの理解がなく、あまりにも自己中心的と言うしかないだろう。

 ルール無視は庶民の生活レベルに留まらない。国家の政策などでも同様である。40年近く実施してきて、2015年末に正式に廃止した「一人っ子政策」などはその典型で、いわば国運をかけた一大国家プロジェクトだった。違反者には日本円換算で数百万円から数億円の罰金制度まで定められていた。それにもかかわらず違反者はあとを断たなかったのである。

 いちばんよく使われた手口は、他の行政地域に転居して住民登録はせずに戸籍管理の目をくぐり抜けて、密かに出産するというものだった。この手口には大きな問題があった。それは生まれてきた子どもの住民登録ができないことだった。存在しながら存在しない子ども(中国語では「黒孩子」ヘイハイズ)、いわゆる「闇子」である。このような「闇子」は戸籍がないため本人であることを認める公的な証明書を手にすることができない。正式に就学はできないし、結婚して子供をもうけても、親に戸籍がないためその子もやはり戸籍のない「闇子」になってしまうのである。「一人っ子政策」が生み出した大きな落とし穴であり、社会問題となってしまっていて、その数が一億人を越えているという驚くべき報告もあるほどである。

 最近よく報道される中国人のマナー違反の「特徴」は、多くがこのルール無視による要素が大きい。
 信号無視。列への割り込み。禁煙地域での喫煙。唾を吐く。ゴミのポイ捨て。禁止事項が通知された場所での違反行為・・・。

 これらの中でも中国人のマナー違反行為の「筆頭」に挙げられるのが、おそらく「さまざまな職種のスタッフへの暴行・暴言」だろう。この暴行・暴言はもはやルール違反のレベルを超えていて、違法行為と言っていい。そしてこのような暴行・暴言のきっかけは、おおむねスタッフの説明(注意)や制止への逆切れである。当人のマナー違反やルール無視を棚に上げての暴行・暴言だけに風当たりも当然強くなる。
 マナー違反事例が出るたびに、民度が低いとの嘆き節が聞こえてくるが、嘆くだけでは何の役にも立たない。同じくこの「悪」の根源をあっさり「ルール無視」という〝習慣〟に帰してしまうのも安易過ぎる。「ルール無視」が習慣となってしまっている根本的な原因は何だろうか? どのような文化要素がこの「ルール無視」の習慣を育ててしまったのだろうか? これについては次回で考えて行きたい。

 (女子大学教員)

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