【自由へのひろば】

五日市憲法草案が作られた過程から学んだ4つのこと
―草案誕生の郷を見学して―

浜谷 惇


 昨年11月のことです。私は、憲法の勉強をずっと続けている友人の方たち10人と、五日市憲法草案誕生の郷である旧五日市町(現あきる野市)を訪ねました。
 当日私たちは、武蔵五日市駅周辺に点在する明治の自由民権運動の足跡をたどって、五日市憲法草案が発見された深沢家土蔵をはじめ、運動の拠点となった五日市勧能学校(公立小学校)跡、五日市憲法草案記念碑、さらに草案の関係資料が収蔵・展示される五日市郷土館をボランティアの案内で見学しました。

 また見学の締めくくりとして、あきる野市中央図書館で開催中の「五日市憲法草案特別展」で、土蔵から発見された史料の「草案原本」や「関連資料の原本」を学芸員らの説明を受けながら閲覧することができました。

 見学は私たちにとって、安倍晋三首相のもとで現在進行する安保法制に見られる憲法解釈の変更や、衆参の憲法審査会での論議が、議会制民主主義のあり方とともにきびしく問われる状況のなかで、それら論点の所在を明治時代までさかのぼって考えてみる絶好の機会となりました。とくに私にとっては、明治の藩閥政府によって自由民権運動が弾圧されるなかで、この五日市憲法草案がいかなる過程を経て起草されたのか、そこに強い関心をそそられました。

 以下、見学の記憶と重ね合わせながら、私が後日末尾に記す参考文献から学んだ4つのことを紹介することにします。

◆ 1.人――〈地在の人〉と〈外来の人〉が意気投合した学習運動◆◆

 正直言って、私が五日市憲法草案について強く関心をもつようになったのはごく最近のことです。私が参加する憲法の勉強会で「五日市憲法ゆかりの郷を訪ねる計画」が提案され、そのための事前の勉強会で友人が報告してくれた「五日市憲法(日本帝国憲法)について」が、惹かれるきっかけでした。

 それ以前に、私の記憶にあった五日市憲法草案と言えば、かなり前に色川大吉著『自由民権』(岩波新書)を読んだこと、美智子皇后があきる野市を訪ねられ郷土館で「五日市憲法草案」をみられた時の感想が報じられた記事を読んだことくらいが記憶にある程度です。ですから今回の「史料の原本」を閲覧できたことは大きなおどろきの連続でした。

 自由民権運動は1874年(明治7年)、薩摩・長州を中心にした明治藩閥政府に異を唱えて、天賦人権論にもとづく憲法の創設、国会開設、参政権の実現、地租改正、不平等条約の撤廃などを求め全国各地にひろがります。しかし政府は、1877年(明治10年)に立志社から出された国会開設建白書を却下し、80年になると集会・結社の自由を規制する集会条例を発令して自由民権運動への弾圧をさらに強めることになりました。

 そういうなかの1880年11月、自由民権運動の全国規模の集まりである国会期成同盟は第2回目の大会を東京で開き、翌年(81年)の大会に各グループがそれぞれ「憲法見込み案を持参する」ことを決定しています。
 この決定をうけるかたちで五日市地域では、すでに結社として発足して活動をはじめていた五日市学芸講談会や五日市学術討論会で、憲法草案づくりに向けた討論が開始されたのです。この二つの結社は、目的もメンバーも同じです。

 私たちが見学した「原本史料」の講談会開催の「回状」には、30名の宛先の名前が書かれていました。深沢家の土蔵から史料を発見した色川大吉氏(東京経済大学名誉教授)によると、「推測ではおそらく7、80人のメンバーだったろうと思うのですが、名簿としていま残っているのは40人足らず」と述べています。

 前述の30名については研究者によって、氏名、1881(明治14年)時の年齢、経歴・職歴などが一覧として整理されています。それを見ると、最年長が60歳で最年少が13歳。20代が14名で40代が5名、10代が4名となっています。職業は、町長や村長、豪農、豪商、地方の名望家もいれば、一般の農民、商人、塾長、勧能学校校長や教員など多彩です。学芸講談会には近隣の14の村をはじめ、横浜や川崎、八王子、町田などからも青年が参加していたことが史料から明らかにされています。

 何より特徴的なことは、メンバーが〈在地の人〉だけではなく、後でふれる草案起草者の千葉卓三郎をはじめ〈外来の人〉が10名もいたというからおどろきです。自由民権の研究家である新井勝紘氏(専修大学教授)は、『三多摩自由民権資料集』の「解説」のなかで学芸講談会の盟約を引きながら、次のように述べています。「土着派と他国者は、自由の開拓と社会の改良という政治目的を共通項としていただけでなく、お互いに兄弟骨肉のように、一家族のように助け合い、敬愛し慰安し合う関係になっていたことを物語っている」と。

◆ 2.場――五日市学芸講談会・私擬五日市討論会で藩閥政府の権力に挑む◆◆

 発足した二つの結社は1880年から81年にかけて、五日市憲法草案の起草を目的とする活動へとつながっていくことになります。学芸講談会には「学芸講談会規則」と「学芸講談会盟約」がつくられ、また私擬五日市討論会には「概則」がつくられて運営されています。これらをみると、結社の組織的特徴を理解することができます。

 その一つは、「盟約」の附則第1条が記しているように、会員の平等が徹底された運営が行われていたことです。その趣旨を『五日市町史』は次のように紹介しています。
 「ここには、村落共同体の伝統を生かした組織づくりがみられる。さらに徹底した平等主義が盛り込まれていることに注目したい。また、同会に参加する人々の身分、職業も全く無制約で、したがってあらゆる階層の人々が会員となっていった。」

 もう一つは、学芸講談会の「規則」と「盟約」に見られる第2条と第3条の目的です。討論会の条文も同じです。
 第2条「本会ハ万般ノ学芸上ニ就テ講談演説或ハ討論シ、以テ各自ノ智識ヲ交換シ気力ヲ興奮センコトヲ要ス」。目的は学問や芸術の知識を交換、議論する場である、ということです。
 第3条「本会ハ日本現今ノ政治法律ニ関スル事項ヲ講談セス(盟約には「ズ」とある)」。ここでは、現在の政治や法律に関するテーマについては議論しない、ということが明記されています。

 これら条文に、当時の民権運動が置かれていたきびしい状況がみごとに表現されていると思います。『五日市町史』は、「学芸講談会の結成時を筆者が明治13年4月と推定を立てているので、これは、『集会条例』の公布と同時期となり、法による活動の阻害から結社を守る意味ももっていたといえよう」と、述べています。つまり、藩閥政府による圧迫や弾圧に備えた抵抗の姿勢ということです。

 ただ他方、私擬討論会の「概則」の第1条には、「討論会ハ政治、法律、経済其他百般ノ学術上意義深遠ニシテ容易ニ解シ能ハサルモノ、及ビ古来其ノ種々ニシテ世人ノ往々誤解シ易キ事項ヲ討議論定ス」とあることも付記しておきます。ここでは、「学術上」とは言いつつも草案づくりへの決意がより直接的な表現として書かれています。

 そしてこれら二つの結社は、次の項でもふれますが毎月「5のつく日」に、五日市勧能学校や中心メンバーである内山安兵衛、馬場勘左衛門、深沢権八らの家で開かれていたようです。ちなみに明治14年8月27日に出された開催の「回状」によると、「会場ハ小河内屋重太郎楼上ニ候事」とあります。

◆ 3.討論――自らが編み出した民主的ルールのもとで実践◆◆

 ではどんなルールで討論・学習が行われたのか。学芸講談会の会則の「細則」には、次のようなことが書かれています。
 ①会議の開催は毎月5日、15日、25日の3回、②会員を希望できる者は13歳以上、③会費は毎月10銭、幹事は半年毎に精算の上報告、④無断で6カ月以上出席しない場合は退会とみなす、⑤会場は少なくとも3日前に会員に通知、⑥開会当日に演説(発議)しようとする者はあらかじめテーマを幹事に連絡し会場に掲示する、⑦会則を守らない者は幹事会で処分、⑧規則の修正や幹事、書記の改選のため半年毎に総会を開く――など。
 なお、深沢権八備忘メモの「規則の改正草稿」には、「会員の条件」として「男女ヲ不問13歳に満サルモノ」とあります。女性会員を認める準備がされていたということです。

 また、私擬討論会の「概則」には、上記との重複を除くものとして、①議長は毎回選挙によって決める、②発議にたいして賛成者が発言、その後討論を続け発議者に答弁を求める、③各人一回は発言しなければならない、④最後に議長は総括討論をさせ、議長見解をまとめそれについての発言を求め、次回の発議者、論題を定めて散会する、⑤発議者は、最初に提案した論旨を変えて説明できない、⑥議長は討論できない、⑦発言時間は、発議者が15分、討論者が10分――などが記されています。

 次はどのような演題で討論・学習が行われたかです。私たちが展示場で見学した1881年(明治14年)の「回状」には、論題として、「一局議院ノ利害」、「米穀ヲ輸出スルノ得失」、「死刑廃スベキカ」の3つが書かれていました。また、学芸講談会のリーダーであった深沢権八が書いた「討論題集(深沢権八収録)」には63項目の論題が書かれています。このなかから憲法草案に直接かかわると思われる論題を抜き出すと次の通りです。

「自由ヲ得ルノ捷径ハ智力ニアルカ将タ腕力ニアルカ」、「女戸主ニ政権ヲ与フルノ利害」、「国会ハ二院ヲ要スルヤ」、「議員ノ選挙ハ税額ト人口ト何レニ由ルベキヤ」、「憲法改正ニハ特別委員会ヲ要スルノ可否」、「女帝ヲ立ツルノ可否」、「出版ヲ全ク自由ニスルノ可否」、「財産ヲ以テ兵役ヲ免レシムノ利害」、「駅逓局ハ人民ノ私書ヲ開封スルノ権利アルヤ」、「内乱非常ノ際ニ方ツテ護郷兵ヲ設クルノ可否」、「人民武器ノ携帯ヲ許スノ利害」、「公立学校ヲ廃スルノ可否」、「志願兵ノ利害」、「内地ニ雑居ヲ許ス」、「条約締結権ヲ君主ニ専任スルノ利害」。

 こうした論題をみると、討論を行いやすく設定されていることがわかります。先ほどふれたように発議者は主張を変更してはならないということですから、賛成論、反対論、あるいは新たな提案を交え議論を行い、会場からも意見を求め、より論点を明らかにしようとしたのでしょう。その後に総括討論を行い、議長から見解が示され、問題が残ったと判断されれば次回に引き継がれるかたちで進行したということです。かりにこの方式で10カ月、二つの論題が行われたとすれば、それだけで60項目の論題を議論したことになります。講談会や討論会に参加した人たちは、これらの過程を通じて相互の知識と知恵を深め合い、合意点を求めたのだと思います。

 この時代、五日市地域には、すでに「新聞閲覧所」が備えられており、誰もが東京で発行する新聞を読めたということです。そして深澤家には東京や横浜で発刊される高価な新刊書のほとんどが備わっており、さながら「私設図書館」の役割を果たしていたというからおどろきです。この地域の人たちはボランタリーで、新しい情報・知識を得ることに積極的であるばかりか、学習、討論、会議のルールをわきまえる伝統を育てていたということです。

◆ 4.草案――〈書き換え〉と独創性によって民衆のバックボーンを表現◆◆

 起草者である千葉卓三郎(宮城県出身)は、講談会と討論会での議論、出された結論をもとに草案を起草したわけですが、ここで特筆すべきは〈書き換え〉に知恵をしぼった作業が行われていたことです。この〈読み替え・置き換え〉についてですが、筆者は、西欧諸国からの文献の翻訳や情報に頼るだけでなく、もともと存在している日本の思想、文化と、それら知識を融合させることによって、日本の社会になじむ適切な言葉、表現に組み変える作業のことである、と理解しています。

 色川大吉氏は著書で、そのことをわかりやすく語ってくれています。

「法律用語で、それを勉強するのに、(千葉)卓三郎たちは大いに苦労しています。一つ一つ苦労している。そういうものを日本に置き換えてみると、それはどういう意味なのか、ヨーロッパでいう権利とは、われわれでいうとどういうことなのか、一つ一つ解きほぐしていって、近代法を学び憲法の下準備をした」。「世界的に有名な政治学者、あるいは自由主義哲学者などとほとんど同じような議論を、彼らの言葉を借りないで、東洋の言葉で、しかも、中国の古代の文献を駆使して、みごとに書き表している」と。

 具体的に事例をあげると、西欧の文献にある「国王ハ決シテ死セズ」を「国王ハシス国民ハ決シテ死セズ」とか、人間の「天稟固有ノ人権」を、当時の国民にわかりよく知られていた『詩経』の言葉で解説しようとする方法をとっている。あるいは『書経』(周章)の「天は民を矜る、民の欲する所、天必ず之れに従う」をもって「民極ヲ重ズルノ王道」、つまり民権思想の根本原理だとしている――と。

 こうして起草された五日市憲法草案の特徴を私は二つに整理できると思います。
 一つ。草案は、イギリス流立憲君主制をとりいれながらも、国帝(天皇)と国会と政府の相互関係、直接選挙による議院内閣制、三権分立、すぐあとで紹介する「国民の権利保護」をもりこんだきわめて先駆的な提起であったということです。ここでは紙幅のこともあってこれ以上ふれません。

 二つ。草案は、全文204条のうち150条で「国民の権利」を規定して、同時代の草案とくらべても抜きん出た特徴をなしています。
 たとえば、45条では「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ他ヨリ妨害ス可ラス且国法之ヲ保護ス可シ」。46条で国政に参与する権利、47条、48条で平等の権利。そのあとに出版・表現の自由、信教の自由、結社・集会の自由などが続き、71条で国事犯(政治犯)に死刑は宣告されない権利、76条で教育の自由、義務を受けさす父兄の責任、77条で地方自治権の絶対的不可侵規定――などが記されています。これら国民の権利は、現行憲法のなかに生かされていることは周知のとおりです。

 五日市憲法草案については、日本のみならず世界的に高い評価がされていますが、色川氏は、米国のスティーヴン・プラストス教授(アイオワ大学)がふれた日本での講演を次のように紹介してくれています。

「アメリカ人やヨーロッパ人は大変傲慢であった。(略)民主主義とうのはヨーロッパ、アメリカの産物であってアジアにはないもの、日本などには民主主義なんてなかったものという考え方をもっていた」「千葉卓三郎から私たちが、アメリカ人である私が学んだものは何かというと、日本の草の根の中につくられた素晴らしい民主主主義と、その民主主義を単に日本的なものだけでなく、世界的なもの、全人類的なものに普遍化しようとしていて明治の青年たちが、実に驚くほどの情熱をもって学んだ、その情熱、姿勢です」と。

 ところが、昨今の憲法改正をめぐる安部首相(自民党総裁)の言動はあまりにも傲慢です。自民党が進めようとする「日本国憲法改正草案」には、そもそも憲法改正といえども、変えることのできない立憲主義の根本に手を加えて政府の権力を拡大し、国民の権利を狭め、代わりに義務を増やすことがあちこちに書かれています。

 そうしたなかでの今回の見学は、冒頭に述べたように現在進行する憲法改正論議を、明治の「大日本帝国憲法制定」以前の自由民権運動時代にさかのぼってとらえ直すことの〈今日的意義〉の重要性について理解を深めることができました。

 ([一社]生活経済政策研究所参与・オルタ編集委員)

<参考文献>
・あきる野市中央図書館『東京文化財ウィーク2016五日市憲法草案特別展「〈五日市憲法草案〉と起草の息吹」展示解説』(2016年10月)
・色川大吉責任編集『三多摩自由民権資料集』上巻(大和書房、1979年)
・五日市町『五日市町史』(1976年)
・あきる野市『五日市憲法草案と深澤家文書』(2005年)
・色川大吉編著『五日市憲法草案とその起草者たち』(日本経済評論社、2015年)


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