【コラム】
『論語』のわき道(4)

人とのむすびつき (友を選ぶ)

竹本 泰則


 人と人とのむすびつきのなかで当事者の「選ぶ自由度」が比較的大きいのは夫婦関係と友人関係だろう。どちらも人間関係としてはごくありふれたものである。だが、配偶者がいない、あるいはそんなものはもたないという人は最近ではあまり珍しくなくなった。これに対して、生涯を通じて友だちなど一人ももったことがないという人はごく少ないのではなかろうか。友だちは人生の必須アイテムといえるのではないか。
 しかし、古稀をとうに超えた今、新たに友だちが欲しいとか、友だちの輪を拡げようとかいう気持ちは薄い。友だちへの欲求は青年期の初期くらいをピークとして、その後は年齢を経るとともにしぼんでいくものか。それはひょっとすると生きる意欲、エネルギーといったものと比例しているものかもしれない。

 「友だち」という言葉でインターネットの検索をしてみた。たちどころに総数一億三千八百万件の情報が返ってきた。どうしたら友だちができるだろう、友だちにはどんな人を選べばいいのだろう……若い人たちを中心にしたこの種の思いや悩みなどが数を押し上げているのだろうか。

 多感な時期には「真の友人」を夢見て、飢餓感のようなものを感じたりする。ただの一人でいい、自分のことを本当にわかってくれる人、自分を認めてくれる人がほしい、と。かつて「友をえらばば 書を読みて 六分(りくぶ)の侠気 四分(しぶ)の熱」の詩が大いに歌われたというのもそうした気分を反映したものではないだろうか。姿かたちは成っても、うちは未完成なまま庇護・温情の巣を離れて独り立ちを始めるとき、友人の存在は格別に大きな意味をもつにちがいない。そのことを知ってか知らずか、多くの若者はただ一途に「真の友人」を求める。

 ちっぽけな経験則ながら、この時期に親しくなった友人はその後も永く続く。友を選ぶのにこの時しかないというものではないだろうが、おとなになってからでは「真の友人」に出会う機会はまちがいなく減ってしまうし、余計な打算やしがらみなどが絡むことも多い。
 「得難きは時 逢い難きは友」か。

 友を選ぶということについてよく知られた孔子の言葉がある。

  (おのれ)に如(し)かざるものを友(とも)とするなかれ

 これには面白い話がある。
 誰もが孔子さまのいうことをきいていたひには、世の中に友だち関係など成立しなくなってしまうというのだ。
 孔子のいう如かざるとは何が劣るのか明確ではない。『論語』の世界なので人格、あるいは人間としての修養の度合いみたいなものだろう。
 人格的な完成度が最高の人を考えてみると、その人にとって他の人は皆「己にしかざる」わけだから誰ひとり友としては選べず孤高を強いられる。それ以下の人の場合は、自分より優れる人を友としようとしても、相手から見れば自分は「しかざる」組だから選んでもらえない。かといって、自分より劣る人は友にしてはいけない。こうなると誰にも友だちはいなくなるというのだ。

 このような読み方を「まじめな論語読み」は決してしない。
 穂積重遠(ほづみしげとお)という人がいる。戦前の民法学者で、わが国の「家族法の父」といわれた人だそうだ。名前の重遠は『論語と算盤』を著わした祖父・渋沢栄一が『論語』の中の文章からとったものらしい。
 最高裁判所の判事などをつとめ、終戦直後は東宮大夫(とうぐうだいぶ)・侍従長となって、平成天皇の皇太子時代の教育などに携わった人でもある。この人がその著書『新訳論語』の中でこの読み方を「ヘボ理屈」と諫めている。
 件(くだん)の読み方はもちろん孔子の本意に違(たが)うものにちがいないが、枠から外れたものを一刀両断に切り捨てるばかりでは思想や文学など窒息してしまう。そんな余計なことまでを考えさせられる。その意味でも面白い。

 『論語』の中にはこの言葉が下敷きになっていると思われる章がある。
 一門の若手で子夏(しか)と子張(しちょう)という優秀な二人がいる。孔子とこの二人とは父と子あるいは祖父と孫というほどの年齢差があるが、二人とも孔子の薫陶をじかに受けており、リーダーとして内弟子をかかえていた。
 子夏の下で学ぶ門弟達が人との交際に関して子張に質問をする。問われた子張は「子夏はどのようにいっているのか」と尋ねる。門人達は「よい人とはつきあい、よくない人には交際を断れといわれました」と応じる。
 それを受けての子張のコメント。

 「自分が本当に徳を備えているならば、相応する度量ももっているわけだから、相手がどのような人であっても広く受け容れることができるはずだ。
 逆に大した人物でなければむしろ相手の方が見限って離れていくだろう。何も自分の方から相手を拒むことはないのではないかな。」

 子夏という人が孔子の言葉に忠実な直訳派とすれば子張は意訳派タイプだ。この段に関しては子張の側につきたい。

 孔子は友人関係を大事にしていたようだ。『論語』の出だしの文章からして「朋あり、遠方より来る。また楽しからずや」の一節が含まれている。このほかにも『論語』の中には朋・友の字が数多く使われている。ある章においては、賢い友人を多くもつことは人生における三つの楽しみの一つともいっている。
 別の章で益(ため)、つまりプラスになる友と、損、すなわちマイナスとなる友とを分けて各々三つのタイプを挙げる。

 ためになる友の第一は直(ちょく)の人、つまりまがったところがなく、まっすぐな人。次は諒(りょう)の人。大概の解説書は誠実な人と訳す。三番目は多聞(たぶん)の人、物事をよく知っている人、博識の人だ。

 一方の損友には便辟(べんぺき)、善柔(ぜんじゅう)、便佞(べんねい)と、どれもなじみのない語が並ぶ。解説書を読んでも、これらの語のイメージはつかみにくいので素人の想像力で攻めてみる。
 便辟、便佞の「便」の字は、それぞれに関連性がありそうもない幾つかの意味をもっている。その中にへつらうという字義もあり、ここの二つはそういうニュアンスを含む熟語らしい。便辟とは愛想はいいが腹黒さを隠している人、便佞は言葉巧みなおべっかだけの人といった程度に当て推量をする。善柔は見た目が穏やかで好ましいのだが中身がない、肝心のことになると頼りにならない人、そのような見当だ。それにしても、ありきたりな内容で、あらためて考えさせられるような面白さを感じない。

 この「益者三友(えきしゃさんゆう)、損者三友(そんしゃさんゆう)」と関連してよく引き合いに出されるのが『徒然草』の中の「友とするに悪(あし)き者七つ」と「良き友三つ」という件(くだり)である。

 まず、悪しき者。その一が高くやんごとなき人。皆が競って近づきたがりそうにも思うが、考えてみると友達としてつき合うとなれば気疲れしそうだ。二は若き人。この着想も意外性がある。兼好法師の本意は分らないが、現代でも若い人との間には大きな意識のズレを感じることがしょっちゅうだ。世の中の見方がちがえば、友達として合うはずがない。三は病(やまい)なく身強き人。これも面白い。ある程度の年齢を重ねると友とは身の衰えを相憐れみ、愚痴りあいたいもの。精気あふれる体をして元気の秘訣などを説かれては鬱陶しくてしようがない。
 四が酒を好む人とある。いやぁ、これは良き友に入れてほしいのだが……。下戸にとっては迷惑かつ不快な存在なのであろう。五は猛(たけ)く勇ある兵(つわもの)。『徒然草』の成立時期ははっきりしないようだが、兼好法師は混乱の時代の人である。鎌倉末期から南北朝時代にかけては、後醍醐天皇と足利尊氏との相克(そうこく)、尊氏と直義(ただよし)兄弟間の擾乱(じょうらん)といったもめごとが続いた時期である。当時、武者は狼藉も多く困った存在であったのだろう。六は虚言する人、七は欲深き人といずれも月並み。

 良き友三つは、一に物を呉れる人、二にくすし(医師)、三に知恵ある人とある。はじめ二つは孔子の発想と比較して一層現実的でしかも実利的であり、中でも二番目は切実だ。三つ目は孔子と同類。

 つき合いは広い方ではない。それでも時々に遊び相手、話し相手はいたような記憶だ。後期高齢者の域に入った今でも、長いつき合いを経てなお友と呼ぶ人も残っている。
 自分は友を選んだのだろうか。
 少なくとも己にしかざるものを友としないなどという大それた考えをもった覚えはない。成り行きに任せたというのが当たっていそうだ。

 「類は友を呼ぶ」といっていいのか、友人も最終的には自分のレベルに相応して落ちつくような気がする。 雲の上から見下ろせば、周りには自分にもったいないほどのえらいやつもいないだろうし、反対に不釣り合いといえるほどのばかなやつもいないのではないか。「あいつは立派だ」とか「彼のこういう点はすばらしい」などと思ったりもするが、案外どっこいどっこいで大した差などはないのかもしれない。
 「友がみな 我よりえらく見ゆる日よ ……」に切実な共感を覚えた昔日が遠くかすんだ今、そんなふうに思う。

 (「随想を書く会」メンバー)

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