人生流転の危機をどう克服するか。―目指すは憲法九条の普及―

人生流転の危機をどう克服するか。
―目指すは憲法九条の普及―

富田 昌宏

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一 田んぼでのたうち廻ること5時間
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 人生は何が起きるか分からない。一日一万歩を歩き続けてやや健康を過信していた84歳の私に魔の手は一瞬に伸びてきた。8月21日午後2時。いつものように水田の水廻りに出かけ、帰りにはやや濡れていた畦を伝わって自宅に戻ろうとした。その帰り途で滑り水田に転落。これは立直って又、畦伝いに帰ろうとして又も転落。今度は体ごと稲が植えてある水田にはまってのたうち廻ること、5時間。稲株に摑まって這い上がろうとするが、地中深くはまった身体は首まで浸かり、もがくこと5時間。それは水田でハワイアン音頭を踊っている姿そのものであったにちがいない。隣が畑なのでそこを通って帰宅すれば、一生ピンピン出来たと思う。人生の一瞬の隙をつかれた瞬間である。7時半、漸く帰宅した家族が探し出し帰宅、そのままパトカーで下都賀病院に入院した。

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二 入院、治療に2カ月
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 下都賀病院に入院してその夜は、まず吸い込んでしまった泥水を吐くことから始まった。約2時間。ついで血液などの検査でその夜は終ってしまった。翌朝から徐々に治療が始まる。院長先生はじめ看護する方々の笑顔にいやされる。会話は「富田さん」という呼びかけで始まり、なごやかな会話のやり取りに終始する。殊に私が印象に残ったのは介護士資格を目指して通院中のHさん。15日間私に付添って、脚の湯洗いから体の拭き清めまで奉仕していただいた。期間中20歳の誕生日をお祝い出来たのも生涯に残る想い出の一つである。こうして病院での治療が終り、10月30日、介護老人保険施設「いぶき」に移動。ここでリハビリを兼ねての介護が始まる。

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三 介護老人保険施設「いぶき」の生活
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 「いぶき」での生活はやや平穏であった。8時、12時、6時の食事は全員が1階の食堂でとり、食事も旨いし、個人の病状に応じて配膳される。午前と午後の喫茶と週2回の入浴も行き届いている。月々の計画も会員の合同誕生会があり、写真と花束贈呈に心が和む。他にその月の事業計画があり、小学生のボランティアによる合唱会やバレーボール大会など。もっともバレーボールといってもみんなで輪をつくり、風船を飛ばすだけの他愛のないもの。

 職員の対応も一級と云っていいと思う。個人の名前から性格までよく把握し、入歯まで覚えていてくれる。入所者は約100名。殆んど車椅子使用で、その全員が何らかの病気を持ち、年齢は70歳から90歳まで。従って患者同士の会話が極端に少ない。口をあんぐり開けて食事を食べさせて貰っている方も居れば、食卓に並んでも全く声をかけてくれない人も居り、いわば無人の世界に似ている。これが堪え切れないで218号の個室にこもることが多い。ここは充実している。

 まず部屋を四季折々の花で飾る。今は屋敷に岐阜から取り寄せた「淡(うす)墨桜」で飾った。「モナリザの微笑」と名づけたこの花の美しさは限りない。そんな雰囲気の中で、見舞いに訪れた友人、知人、そして親戚との会話はこよなく楽しい。花や本を持参してくれる人もいて待遠しい。

 2つ目は読書。最近は憲法に関するものが多い。最近では東京都知事の舛添要一さんの「憲法改正オモテとウラ」。なかにし礼さんの「天皇と日本国憲法」、「日本国憲法は世界に誇る芸術作品である」など数冊。いずれも「太平山麓九条の会」の副代表として内容を噛みしめながら読んだ。読書では他に健康や年の取り方に関するものが数冊。

 3つ目は手紙のやり取り。週に7~8通の手紙が来る。楽しみのひとつであり、それに応えて返信を書くのも楽しみの一つ。4つ目は俳句づくり。現在、私は俳句結社「渋柿」に所属し毎月冒頭句に投句する他、随時俳論を投稿する。渋柿はまもなく創刊100周年を迎え、松山で祝賀大会を開催する予定。又、栃木には7つの句会があり、定期的に毎月句会を開き切磋琢磨に励んでいる。これは至上の楽しみである。

 こうしたことで積み重ねながら冬の1日は暮れてゆく。決して退くのではない。寒い間ここで過ごし、4月には自宅に戻る予定である。
 自宅は築百二十年で、大黒柱や梁は尺余の旧家。それを図書館にでも転用し、目下、住居を新築中である。病気擁養中の俳句を数句。

 蝋梅や介謹老人部屋の卓
 笑ひ雛一つ増やして初鏡
 読初や「新老人の思想」など
 寒明けや招福干支を腰に下げ
 寒明けや杖を片手に試歩千歩
 束風吹くや介護老人宿の風呂

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四 老人世代の平和運動 大平山麓九条の会
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 お正月に読んだ木に五木寛之先生の「新老人の思想」がある。〃老〃という言葉を否定してきた私だが、五木先生は八十歳代は若者に世話になる世代でなく、一つの団塊として集団で世の中を変える組織としての役割を説く。私もそれに同感である。八十歳の世代は戦争体験者の団塊であり、私も傘寿半ば。早く回復して関東平野の片隅から世界平和の一翼を担いたいという思いはしきりである。

 私は旧制中学三年の時、学徒動風で軍需工場に派遣され、昼夜三交杵で、米軍機を打ち落とす機関砲の製作に取り組んだ。終戦の詔勅はその工場(日立製作所栃木エ場)の庭で聞いた。これが平和に対する私の原点である。連合軍に全面降伏した日本は焦土と化したこの国から憲法を制定し、非武装中立を核とする第九条を確立し、これを原点として高度の経済成長を成し遂げ、ロ中国交回復や東京オリンピックを成功させた。

 世界は各地で武器と武器で一戦を交え、混乱と紛争の最中にある。これを克服する途は、憲法九条の思想を全世界に拡大する以外にない。それは困難な道ではあるが、人類が生き残る唯一の道でもある。

 私は数カ町村を統合して仲間と共に「太平山麓九条の会」を設立し、副代表として活動させていただいており、且つ「俳人九条の会」にも名を連ねている。昨年九月、九条の会で元国分寺町長の若林先生の講話を聞いた。九十歳の若林先生は日中戦争で中国に出兵し、中国人の殺生に係わった体験を語り、人間同志の殺し合いの悲惨さを説き、再び銃を持つべからずと結論づけたのである。会場に万雷の拍手が起こったことは言うまでもない。

 人間同士が武器を持って殺生し合う位悲惨なものはない。今こそ憲法九条を守り、普及していく時代である。どんなに困難でもそれ以外に平和への道はない。「渋柿」の先生方も俳人九条の会に加入して活躍されることを心からお願いする。俳句をつくる喜びの世界は安易な方法や手段では形成きれないことを強く訴えたい。

武器持たぬ者こそ勇者松の芯   富田昌宏

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五 朝倉摂さんの想い出
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 現代演劇を代表する舞台芸術家で文化功労者の朝倉摂さんが亡くなられた。91歳。長年舞台芸術を手掛け、70年、ロックフェラー財団の招きで渡米し、ニューヨークで舞台芸術を研究、映画「夜叉ケ池」などで映画美術担当。2010年に横浜で大規模な個展を開いた。
 87年紫綬褒章、06年文化功労者。
 その朝倉さんに、10数年前、久保田忠夫さんと私の創刊した雑誌「余白」の表紙を美しい絵で飾っていただいたのである。「余白」が完成する朝、私はその事を報告すべく久保田宅に電話を入れた。久保田さんは前の夜、平和を希求したこの雑誌を目にすることなく自宅のお風呂で亡くなっていた。
 その後、「余白」の後始末を兼ねて加藤宣幸氏と協議、「オルタ」の発行に踏み切ったのである。改めて朝倉先生の温情に感謝すると共に「オルタ」の発行継続に意を新たにした。

 (俳句結社「渋柿」同人代表)
<富田昌宏オルタ共同代表の遺稿>―2014年4月7日急逝―

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| ■俳句の師 富田昌宏さんの急死を悼む   仲井 富 |
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 富田さんは、冒頭に記したように、4月7日、肺炎で急逝された。まことに唖然呆然とするばかりだった。3月下旬、オルタ加藤代表と相談して、老人保健施設「いぶき」に入所されている富田さんに、後学のため老健施設の日常はどういうものかを中心に書いていただきたいとお願いした。さっそく原稿用紙8枚に、富田さん独特の文字で原稿が届いた。付け加えられた手紙に、4月4日から自宅に帰って療養することになったと書いてあった。

 私は、かなり状態が改善されて、自分で歩くこともできるようになったので、自宅療養を思い立ったのだと理解した。4月8日の夜、加藤さんから電話で「富田さん死す」と聞いて驚愕した。富田さんは私にとっては俳句の師でもあった。数年前から都内の句会に入り「牛に曳かれ喜寿の手習い初句会」ということで俳句を始めた。たまたま富田さんの句集『千寿萬壽』と、随筆『俳句の一風景』(2009年 石田書房刊)を送呈された。そのなかに「老いるとは未知との出会い桐一葉」という一句を見つけた。当時75歳だった私には、天啓のように句の心が染み入った。手紙を出して教えを乞うようになった。それ以降の詳しい交流や、富田俳句については別の機会にふれてみたい。

 4月1日付けの最後の手紙に以下のよう書かれていた。「ある程度回復しましたら、今度は“太平山麓九条の会”で多少なりとも活躍したいと心がけます」。昨年8月、怪我で倒れるまでは、耕運機で田を耕し、ヘルメット姿でオートバイに乗る元気な現役農民だった。富田さんは最後まで護憲9条に命を賭けた護憲俳人であり、農村詩人だった。合掌

 (筆者は公害問題研究会代表)


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