人質事件で注目されたヨルダンは、交渉を託せる国だったのか

【コラム】宗教・民族から見た同時代世界

人質事件で注目されたヨルダンは、交渉を託せる国だったのか

荒木 重雄


 過激派組織「イスラム国」に拘束されたフリージャーナリスト後藤健二さんの解放に向けて、厳しい交渉を共に闘う仲間として、中東の小国ヨルダンが、一躍、人々の関心を集めたのは、この1月末のことであった。
 中東きっての親米欧国であり、日本との関係も、アブドッラー国王は、昨年11月を含め11回の訪日歴をもつ親日家で、日本からの経済援助も累計3000億円を超えている。必ずや親身に取り組んでくれるに違いない。

 しかし、残念な結果になったとき、後藤さんの解放に専念せず、自国軍のパイロット、カサースベ中尉の救出を優先したかの印象を与えるヨルダン政府の対応に、一抹の不信感を抱いた人がいたことも確かである。

 ヨルダンとはそもそも、どのような国なのか。

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◇◇ 中東分割政策の申し子
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 ヨルダンの正式国名は、ヨルダン・ハシェミット王国という。ハシェミットは、預言者ムハンマドの血筋を引くハーシム家を表す。その一族で、聖地メッカの太守であったフサイン・イブン・アリーは、オスマン帝国解体を策す英国と密約を結んで帝国内でアラブの反乱を起こし、その功から、次男アブドッラーが、帝国解体後、英委任統治領となったパキスタンの一画を、1923年、トランスヨルダン王国として与えられ、国王となった。
 英国の保護の下、立憲君主国となり、第2次大戦後の46年に正式に独立して、3年後、現在の国名になった。

 48年、イスラエル建国に始まった第1次中東戦争では、アブドッラーはアラブ連盟軍の最高司令官に任じられたが、一方ではシオニスト運動を支持していたこともあり、51年、パレスチナ人に暗殺される。王位を継いだのは、アブドッラーの孫のフセインであった。

 第1次および第3次中東戦争を通じて、イスラエルの占領地から追われたパレスチナ難民が大量に流れ込み、ヨルダンの住民の半数以上がパレスチナ難民で占められるようになった。
 パレスチナ難民による対イスラエル闘争組織PLO(パレスチナ解放機構)もこの地で創設され、この地からイスラエルへゲリラ戦に出撃していった。

 当初はPLOを容認・支持していたフセイン国王であったが、イスラエルによるヨルダン領への報復攻撃が激化し、また、ヨルダン国内でPLOの政治力が高まるにつれ、危機感を抱いて、70年、PLO内の一派PFLPが起こした連続ハイジャック事件をきっかけに、PLOの大弾圧に転じる。国王親衛隊のベドウィン族部隊の攻撃は熾烈で、殺害されたパレスチナ人は5000人に及び、PLOはレバノンへ退去する。世にいう「黒い九月事件」である。

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◇◇ 米欧と歩調を合わせ
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 PLO排除に意欲を燃やしたのはヨルダン国王だけではない。イスラエル・パレスチナと国境を接する地政学的な位置から、ここにイスラエル保護の橋頭保を設けたい米英の意志も働いていた。
 PLO排除には米英両軍の支援があったし、その前、57年に、国内の親ナセル政権を国王がクーデターで排除した折にも、米英両軍の支援が働いていた。

 以来、ハーシム家による統治の維持を中心課題に、米欧日とサウジアラビアなど親米アラブ諸国からの援助が盛大に注がれることになる。
 たとえば、国の屋台骨となる国軍と情報機関(GID)は、米軍と米中央情報局(CIA)の直轄統治といわれるほど手厚い支援を受けてきたし、資源も産業も殆どないこの国の経済は、主に米国やサウジからの経済支援で回っている。

 イスラエルとの関係も、70年代から密かに進められてきた平和条約が94年に締結され、エジプトに続いて、イスラエルと国交をもつアラブ世界でただ二つの国の一つとなった。

 99年、フセイン国王の死去に伴い、長男のアブドッラー2世が即位する。現ヨルダン国王である。
 アブドッラーは、英サンドハースト陸軍士官学校を卒業の後、英米の大学で国際政治も学んだ欧米通で、戦闘機や戦車の操縦もこなすマッチョでもある。米欧との関係強化に加えてイスラエルとも一層、緊密の度を深めている。

 一時期、パレスチナのハマスの要人が立て続けにイスラエル当局に暗殺され、何者かによる内部情報の伝達が疑われたが、その伝達者はヨルダンの諜報機関であるとアラブ地域の放送局アルジャジーラに明かされたこともあった。

 昨年9月以降、米国が主導する「イスラム国」の空爆にヨルダンが率先して加わったことも、その作戦中に不幸にして墜落した戦闘機のパイロット、カサースベ中尉が捕虜になったことも、こうした流れの中でのことであった。

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◇◇ 危うい国民の支持
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 だが、ヨルダン国王の統治と政策に批判的な国民は多い。
 アマンとよばれ国民の2割を占める、ハーシム家渡来以前からこの地に住んできた諸部族は、英国傀儡起源のハーシム家統治に伝統的な反感をもち、国民の7割を占めるパレスチナ難民にも、ハーシム家やヨルダン国家体制への帰属意識は乏しい。
 さらに、米欧寄りの政策や、政権の汚職、高失業率と格差などへの反発も強まって、イスラム主義派も台頭し、90年代に入ってからは各地で抗議行動が盛り上がり、国内外でのテロ事件も頻発して、03年にはイラク・バグダッドのヨルダン大使館が爆破され、05年には首都アンマンで、リシャウィ死刑囚らが関わったホテル爆破事件なども起きた。

 「イスラム国」の源流とされる「イラクのアルカイダ」を率いた故ザルカウィ容疑者はヨルダン人であり、ヨルダンの「イスラム国」支持者は4000人に及ぶともいわれる。

 ヨルダン政府が日本人の後藤さんはさて置いてもカサースベ中尉の救出に執着したのも、殺害が明らかになると国王自ら報復を誓って空爆を強化したパフォーマンスも、ヨルダン政府(国王)への国民の支持の危うさを知るがゆえのことであった。

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◇◇ 中東世界の複雑さを知るべき
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 後日、ヨルダン政府の対「イスラム国」交渉役であったイスラム指導者が明かしたように、ヨルダン政府の関心は終始、自国のカサースベ中尉の救出にしかなかった。それは、上述のような国内事情からして、自国軍人の救出に成功しないまま、日本人の後藤さんとリシャウィ死刑囚の交換などが行なわれれば、政権が維持できなくなるとの判断からであった。
 米欧にすり寄る政権とは裏腹に、国民にはとりわけイラク戦争以来、米軍に対する反発が根強く、「イスラム国」に対する作戦にも反対の声が強い。

 日本人二人の「イスラム国」による拘束を知った日本政府は、だが、交渉は、イスラム主義政権で、有志連合の一員ではあっても空爆には参加せず、自国外交官の解放を実現した実績もあるトルコの協力を得るべきだ、との、専門家たちの意見を無視して、ヨルダンに交渉役を預け、無策に過ごしていた。

 それは、二人が置かれている苦境と、「イスラム国」を刺激して交渉を難しくするだろうことを知りながら、あえて、訪問先のエジプトで「ISIL(「イスラム国」の別称)と闘う周辺各国を支援する」と打ち上げ、イスラム世界の多くが敵視するイスラエルで「ダビデの星」の国旗を背に「テロに屈してはならない」と見栄を切った安倍首相の言動と同様に、邦人二人を見殺しにした無責任といわざるをえまい。
 安倍首相は「すべて私の責任で決めた」と居直るが、では、その責任をどう取るのか、償うのか、問いたいものである。

 しかも、この事件を追い風にして、邦人救出を口実に自衛隊の海外派兵を策すなど、言語道断である。
 平和憲法に基づき平和主義に徹する日本のイメージこそが最大の安全保障というのが、現地で活動するNGO活動家、ジャーナリスト、ビジネスマンらが共通に実感するところである。
 中東やイスラム世界は、安倍首相らが思っているほど単純ではないのである。

 (筆者は元桜美林大学教授)


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