仁川アジア競技大会から感じたこと

【中国単信】

仁川アジア競技大会から感じたこと

           趙 慶春


 
 2014年9月19日から10月4日まで韓国の仁川市で第17回アジア競技大会が開催されたことは記憶に新しい。
 実施競技はオリンピック競技28、独自競技8の合計36競技で行われた。独自競技とは非五輪種目とされている競技で、野球、ソフトテニス、ボウリング、クリケット、カバディ、空手、セパタクロー、スカッシュ、武術太極拳だった。独自競技にはアジア大会だからこそ選ばれた種目もあるようで、ローカル色が反映されていて、それはそれで良かったのではないだろうか。
 
また今回の大会は、莫大な費用をかけない「質素」を売り物にもしていた。仁川の大会組織委員会の計画による20億ドル(約2130億円)という低予算は、2010年の中国広州大会の約10分の1の費用であり、北京五輪の約400億ドル、ソチ冬季五輪の約500億ドルに比べると桁違いに低いことがわかる。
 
金栄秀(キムヨンス)組織委員長からの「経済的で効率的なアジア競技大会をめざし、今後の開催国のモデルになる」ようにとのメッセージは、私は大いに傾聴に値すると思っている。なぜなら最近のオリンピックや国際的なスポーツイベントがあまりにも商業化され、メディアを通して一種の大がかりなショーになってしまっているからである。ショーに徹するなら文句を言うつもりはないが、一方では国威発揚、メダル獲得競争が激化していることもまちがいない。
 
大会のたびごとに選手の薬物使用とその摘発はいたちごっこのように繰り返されるし、また不当、不公平な判定への不服申し立てはもはや慣れっこになってしまっている観がある。さらにはこうしたお祭りイベント(?)に乗じてのテロへの警戒も深刻度を増してきている。
 
それほどまでして、こうした国際的なスポーツイベントを開催する価値はあるのか、と問えば、おそらく莫大な経済効果が期待できるからだと主催者側は言うに違いない。さらには国家指導者は国威発揚にも大いに有効であると。さらに選手個人はみずからの名誉と自分を売り込み、将来につなげる絶好のチャンスだと。
 
 さてこうした国際的なスポーツイベントに対するさまざまな思惑を抱えて開かれたアジア競技大会だったが、私の見るところ「今後の開催国のモデルになる」という韓国の大会組織委員会の当初の方針がアジア各国に肯定的に受け入れられたとは言い難いようだ。
 そこにはおよそ3つのマイナス要因が絡んでいるように思える。
 1)運営・管理上のまずさ。
 2)審判の韓国寄り。
 3)主催者側の甘い自己評価。
  
 1)に関しては、日本のマスコミでも取り上げていたが、おしなべて「他山の石とする」論調が多かったように思う。これを中国的に見ると、国の威信に大きく関わるととらえ、取り返しのつかないほどの失態と見るだろう。なぜなら管理、運営能力、接待などで恥ずかしい、醜い部分は隠す、見せないことが中国では最優先されるからである。例えば、2008年の北京オリンピックでは、中国政府は古くて、汚く、雑伐とした貧しい居住区に高い壁をめぐらして囲い込んでしまった。こうして外国人に見せないようにしたのも、良いか悪いかは別にして、中国人独特の価値観からだった。
 
仁川大会は質素な大会モデルを作ると宣言し、その方針で管理、運営が進められたはずだった。そして不幸にして、不手際が数多く指摘された際、予算の少なさや経験不足が管理、運営上に悪い影響を与えてしまったかのような釈明もあった。3)に関わることだが、残念と言わざるを得ない。 
 予算の少なさと管理、運営は本来、別物だからである。さらに言えば、韓国では1988年にオリンピックまで開催しているのであり、経験不足を理由にすることはできないだろう。
 2)に関しては、近代オリンピックの創始者と呼ばれるフランスのクーベルタン男爵の言葉を思い起こす。
「参加することに意義がある」「オリンピックで重要なことは、勝つことではなく、参加することである。人生で大切なことは、成功することではなく、努力することである」
 アジア大会とはいえオリンピックと同様に競技参加への精神は一緒だろう。
 
クーベルタン男爵にとって、オリンピックを「平和の祭典」にすることこそ唯一の目的で、メダルの獲得数などは問題外だった。ましてや国家の威信や選手の名誉獲得などは念頭になかったわけで、スポーツは勝負を争うものではなかった。国際間の理解を深め、友情の輪を広げて世界に平和をもたらすことに寄与しようとしたのだった。
 
ところが今回の仁川アジア競技大会はご多分に漏れず、クーベルタン男爵のスポーツへの思いなどすっかり忘れ去られてしまった観が強かった。
 開催国に有利な判定が下される傾向は、今大会に限らず避けがたく続いてきている。しかし勝利至上主義があからさまで、勝つためには手段を選ばずといった姿勢が選手だけでなく、審判にまで及んでいることが強く印象づけられてしまった大会だった。
 そしていちばん恐れるのは、国際間に融和と理解ではなく、不信と怒りを呼び起こしてしまったのではないかということである。その事例を今ここで逐一挙げるつもりはないが、今回のアジア競技大会そのものが終盤に向かうにしたがって次第に輝きを失い、色あせていってしまったと感じたのは私だけではないだろう。
 
3)に関しては、まず中国人の対韓イメージを紹介するが、これは今回のアジア大会だけでなく、最近の傾向と言っていいだろう。
  ○他人にばかり厳しく、自分には寛容すぎる。
  ○プライドが高く、名誉を大事にする民族。それだけに「勝利」に過剰に拘わる。
  ○傲慢で、自分の非をなかなか認めない。
 ただこうした中国人の韓国人に対するイメージは「人のふり見て我が身を直す」謙虚さが一方では必要だろう。人間はどうしても他人には厳しく自分には甘くなりがちである。国家、民族間でも同様のことが起こる。
 
つまり今挙げた3点は、中国人もそのまま我が身に向けられた批判と受け止めなければならず、自戒を込めて真摯に自省する機会とすべきだろう。
 仁川大会での韓国の多くの失態は残念ながら、他国に「不信」や「嫌韓」といったマイナス感情を生じさせてしまったことは否定できない。そのためネット上での相も変わらずの日中韓三国バトルは繰り返され、さらに仁川アジア大会以降はタイまで加わり、まるで日中タイの「反韓同盟」が形成されたかのようである。
 
しかしネット上での非難の応酬で得るものはない。むしろ韓国の人びとは率先して今回の仁川アジア大会の運営、管理に対する総括を冷静、客観的に行うことが必要だろう。
 なぜ多くの失態を招いたのか、自省と自己修正こそ次なるステップに繋がるだろうし、そうでなければ平昌冬季オリンピックは仁川アジア大会の二の舞に成りかねない。
 自省こそ自浄能力であり、再生能力である。これは韓国だけに限られたことではない。
 さらに言えば、アジア諸国が友好的な関係を築くためには、今こそ各国が冷静で客観的な目を持ち、時には真摯な自省が求められているのである。
          (筆者は大妻女子大学助教)


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