【戦後70年を考える(4)私にとってのアジア】

今からでも遅くはない、戦争責任を徹底的に追及しよう!

大類 善啓


 ハルピン市郊外の方正(ほうまさ)県に建立されている日本人公墓の存在を多くの人たちに知ってほしいと年2回、『星火方正』という冊子を発行している。それを見て公墓の存在を知った大連生まれの映画作家・羽田澄子さんは、なぜ侵略された国家が侵略者の子弟たちのお墓を建立したのか、その驚きと謎を追及し、『鳴呼 満蒙開拓団』という記録映画を創った。東京・岩波ホールで2か月に亘って公開される半年ほど前の2009年の冬、羽田さんにインタビューし、主に日本が敗戦した前後の大連での思い出を聞いたことがある。
 羽田さんは、「戦争を止めるという選択肢があるとは思わなかった。そういう選択肢があるなら、なぜもっと早く戦争を止めなかったのか」と語った。大連のお隣の旅順で敗戦を知った羽田さんは当時19歳だった。

 小さいころ、私の家族には戦争の被害者はいない、と思っていた。ところが大きくなってからわかったのだが、母の両親は1945年3月10日、アメリカ軍による東京大空襲に遭い亡くなった。東京の下町、日本橋の浜町に住んでいた母の両親、私の祖父母は、たまたま両親の家に帰っていた私の叔母と1歳になる息子とともに空襲に遭い、近くの明治座に避難し、そこで死んだという。明治座で死んだという確証はない。しかし当時、日本橋浜町で空襲に遭った人たちの多くは、近所の明治座に避難したので、そう私も聞かされていた。

 さて、日米開戦が始まった当初の半年は戦果もあったようだが、日本のその後は奈落の道をまっしぐらに突き進んだ。
 つい最近、遅まきながら知ったことだが、アジア・太平洋戦争の全戦没者約310万人のうち、200万人近くが敗戦前の1年間で死んだという。インパールでの歴史的な敗北や、レイテでの戦闘でアメリカ軍に壊滅的な敗北に遭い、もう勝利することは考えられなかったにも関わらず、何故、戦争を止めようとしなかったのか。近衛文麿が、もうこれまでと1945年2月、天皇に講和を上奏したところ、天皇は「もうひとつ、敵に一撃を加えた後、講和を持ちこんだらどうか」(「一撃講和」論と呼ばれていたらしい)と言い、承認しなかったという。
 それから3月10日の東京大空襲である。その後大阪も空襲され日本各地にアメリカ軍は無差別に空襲をかけた。そして8月6日の広島、9日長崎への原爆投下。「満洲」では、9日未明、ソ連軍が侵攻し、「開拓民」の婦女子たちはソ連軍の襲撃と、土地を奪われた中国農民たちの復讐による襲撃の狭間で逃げ惑い、ハルピン市郊外の方正で多くの婦女子たちは斃れた。その数、5千人近いという。その死者たちが葬られているのが方正日本人公墓である。

 戦争を止めるという選択肢はあった。早期に敗北を認める選択もあった。開戦をしないという選択もあった。石油などの物量面でも、日本が1に対しておよそ500倍というアメリカが圧倒する状況であるにも関わらず、何故開戦したのか。当初、海軍は開戦に賛成しなかったが、陸軍の勢いに押されて戦争に踏み切ったという。
 特攻作戦が開始されたのは1944年10月からだ。ベテラン操縦士が不足し、新米飛行士が特攻戦士に仕立てられた。前途ある多くの青年たちがみすみす命を散らした。この責任を誰が取ったのだろうか。NHKのラジオや新聞などのメディアは、真相をわかっていながら戦意高揚のために偽りの情報を流し続けた。
 朝日新聞記者だったむのたけじは、自分の戦争責任を取って朝日を辞め、故郷の秋田県横手で「たいまつ」という週刊新聞を発行し続けた。むのは最近、辞めないで新聞社の中にいて戦争責任を追及すべきだったと述懐した。

 開戦前から「負ける」とわかっていたのに戦争に突入するこの愚かさは、どこからくるのか。その場の「空気」に異論を言えない日本の精神風土や日本人の体質がそうさせたなら、これからもその愚は繰り返されるだろう。
 連合国によって東京裁判は行われ、戦争犯罪人は処罰されたという。開戦時の東條内閣の商工大臣として君臨した岸信介は、A級戦犯だったにも関わらず、3年半ほどで釈放され、その9年後、総理大臣になった。こういう事実をどう見たらいいのか。その責任を追及しないメディアは何なのか。この体質はどこからくるのか。日本人の性向か。日本を動かす“システム”の為せるところなのか。
 福島原発事故でも誰も責任を取っていない。こういう歴史を知ると、暗澹たる気持ちになる。しかし、ただ慨嘆するだけならまた同じ愚を繰り返すだろう。わが日本の内なる戦争責任がどこにあるか、粘り強く追及する必要があると思う。

 (筆者は方正(ほうまさ)友好交流の会事務局長)

 


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