今こそ人種差別撤廃法案を

【反レイシズム】

今こそ人種差別撤廃法案を

有田 芳生


 参議院の事務総長に「人種差別撤廃施策推進法案」(正式名称は「人種等を理由とする差別の撤廃のための施策の推進に関する法律案」)を民主党、社民党、無所属で提出したのは5月22日だった。法案は提出しても議院運営委員会で審議することを決めなければ動かない。法案は自民党、公明党の与党も賛成して6月24日に法務委員会に付託された。しかし本稿執筆の時点(7月15日)では、いまだ審議に入っていない。自民党が党内手続きが終わっていないという理由で審議に応じないからだ。人種差別撤廃条約に加盟して20年。人種差別撤廃を具体化することを目的とした法案が提出されたのは、戦後はじめてのことだ。違憲の安保法制を成立させようと、与党は会期を95日も延長、9月27日の会期末に向けて、ヘイトスピーチ対策をふくむ法案の行方は流動的だ。

 社会的批判の高まりで追い詰められる在特会などの差別集団によるデモなどは、2013年をピークとして減少傾向にある。警察庁の調査では、2014年は前年の3分の1の120件、2015年はやはり前年に70件(6月末現在)だったものが30件となっている。しかし注目すべきことは、「日韓断交」など、一見政治的な主張であるかのように装いながら、その内実は「朝鮮人は出て行け」などと相も変わらぬヘイトスピーチ=差別の煽動が行われていることだ。差別の煽動をまるで趣味のように繰り返す者がいる。桜井誠前在特会会長などは、職業的な差別主義者だから、活動を持続しなければカンパ=生活費が途絶えてしまう。在特会などを支援し、日本で差別と煽動を続ける勢力が、個人や組織として存在するということでもある。在特会とそれにつらなる者たちと偏狭な排外主義者たちとの結託である。

 政治家もふくめ世間にはいまだ誤解があるが、ヘイトスピーチとは聞いて不快な表現をいうのではない。ひとことで規定するなら「人間の尊厳と平等を否定する」(人種差別撤廃委員会一般的勧告35、2013年)ことなのである。しかも社会構造に組み込まれたマジョリティー(多数派)からマイノリティー(少数派。日本では在日コリアンなど)に行使される「表現」という形式を取った暴力そのものだ。最高裁で確定した京都朝鮮初級学校襲撃事件の判決が、そのことを明快に断罪している。在特会側は、ヘイトスピーチを「政治的主張だ」などと抗弁したが、大阪高裁判決は「専ら公益を計るものであったとは到底認め難いし、またそれらの行為が表現の自由によって保護されるべき範囲を超えていることも明らかである」。

 いまだヘイトスピーチ問題を「表現の自由」を理由にして法規制に反対する人たちがいる。とくに憲法学者に多いのは、抽象的議論に終始するだけで、そこに生身の人間が存在しないからだ。憲法学の大家である芦部信喜氏は、保護されるべき表現の自由において、ヘイトスピーチは二次的なものと評価していた。豊かな現実から出発することを学問や分析の基本とするなら当然の見識である。ヘイトスピーチを「表現の自由」として規制に曖昧な態度を取る者の特徴は、差別が吹き荒れる現場に立つ努力もなく、ましてや被害者の思いを聞きとる努力をすることもない。しかしヘイトスピーチに対する社会的批判が高まっているため、それが「いいこと」だとはとてもいえない。政治家のなかにも「人種差別撤廃施策推進法案」には、本音では賛成したくないけれど、公然と反対をすれば世間から批判を呼ぶので、できるなら審議しない方法はないのかと仲間内で語る者もいる。

 ヘイトスピーチは放置すればヘイトクライム(差別犯罪)に進み、行き着くところはジェノサイドだ。人種差別撤廃委員会の日本審査がスイスのジュネーブで行われたのは、2014年8月末。会議を傍聴したわたしは、そのあとポーランドのクラクフに向った。アウシュビッツを再訪するのが目的だった。1939年9月1日にナチス政権はポーランドに侵攻する。第2次世界大戦のはじまりである。古都クラクフの街中にはナチズムのハーケンクロイツ旗があちこちに掲示された。この戦争を振り返るためにシンドラー博物館がある。映画「シンドラーのリスト」で知られるオスカー・シンドラー氏の工場を博物館にしたもので、内容は戦争博物館だ。展示を見て歩いているときのことだ。階段の壁に1枚のポスターが貼ってあった。ヒトラーのドイツ軍によって作製されたものだ。ユダヤ人の戯画化された似顔絵の下には大きなシラミが描かれ、「ユダヤ人はシラミだ」とある。わたしは驚いた。日本で続いているヘイトスピーチとまったく同じだからである。「朝鮮人はゴキブリだ」!

 博物館には当時の市電も展示されていた。そこに掲げられた表示板には「ユダヤ人お断り」とある。クラクフ市内の公園にも同じ掲示がなされた。ここでも連想がわいた。2年前にサッカーのJリーグ浦和レッズ−鳥栖戦で、浦和レッズのサポーターによって競技場に掲げられた「JAPANESE ONLY」(日本人以外お断り)の横断幕である。日本サッカー協会は浦和レッズに無観客試合を命じ、掲げた者たちに浦和戦への無期限入場禁止の措置を取った。クラクフではやがてユダヤ人たちはゲットーに隔離され、その先に待ち受けていたのが、アウシュビッツなどでのホロコースト(絶滅政策)であった。日本でも関東大震災時に起きた朝鮮人などの虐殺に先行して、民族差別が続いてきた。人間の尊厳を卑劣な攻撃から守る課題は、人間存在そのものを維持するための歴史的な取り組みなのである。だからこそヘイトスピーチは双葉のうちに摘み取らなければならない。あるシンポジウムでわたしはそう主張した。すると同席した大学教授がこう反論した。「ドイツも日本もそのときは言論の自由がなかった」!

 ナチスドイツが政権を取るのは1933年。その前は世界に誇るワイマール憲法の時代で、文化も爛熟したことで世界史に記録されている。1919年9月にアドルフ・ヒトラーは同僚の軍人アドルフ・ゲムリヒに宛ててこんな文章を書いている。「理性の反ユダヤ主義が導く先はユダヤ人の特権との闘い、つまり外国人法のもとにある他の外国人とは違って、ユダヤ人が享受している特権を計画的・法的に除去することにある。その最終目標はまさしくユダヤ人全体の排除にほかならない」(石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』、講談社現代新書)。「ユダヤ人の特権」「ユダヤ人全体の排除」。ここでもありもしない「在日特権」と同じ文脈でユダヤ人排斥が主張されていた。日本においても福沢諭吉が差別的な朝鮮観を述べてから、大正デモクラシーの時代もふくめて、知識人の間でもヘイトスピーチにつながる言動が続いてきたのだ。たとえば福沢が朝鮮についてはじめてまとまった文章を書いたのは、1875(明治8)年の「亜細亜諸国との和戦は我栄辱に関するなきの説」(「郵便報知新聞」10月7日号)である。征韓論に反対した福沢はこう書いた。「亜細亜州中の一小野蛮国にして、其文明の有様は我日本に及ばざること遠しと云ふ可し。之と貿易して利あるに非ず、之と通信して益あるに非ず、その学問取るに足らず、其の兵力恐るるに足らず」。知識人の福沢諭吉の朝鮮観は、やがて留学生や学者との交流で修正も加えられるが、明治政府に留まらず庶民の朝鮮観にも大きな影響を与えたのである。

 ヘイトスピーチとの闘いは、現状をどのように批判、変更していくかという問題であるとともに、歴史的に形成された負の意識を克服する課題なのである。そのための「小さな一歩」である「人種差別撤廃施策推進法案」ほどの法案さえ可決できないようなら、立法府としての責任を果たしていないことになる。すでに150を超える全国の地方自治体からは、政府にヘイトスピーチに対する法整備を求める意見書が採択されている。たとえば都議会では全会一致だ。安倍首相や閣僚は東京オリンピック・パラリンピックを控え、ヘイトスピーチを憂慮すると何度も発言してきた。しかしもういちど強調するが、この問題の本質的核心は、人間の尊厳を傷つけることにある。最後に竹内好の差別についての言葉を引用したい。

 「差別者は差別の実体をつかむことができない。差別は被差別者の眼には見えるが、差別者の眼には見えない。けれども、差別が本性をおかし、腐蝕作用をおこすのは双方に対してであって、一方に対してだけではない。ちがいは、自覚するかしないかだけである。中国を侮蔑し、中国人と中国語を侮蔑したために日本人が精神的に蒙った損失は、自覚するしないにかかわらず、きわめて大きいと私は考える。いわんや朝鮮においてをや、という次第だ」(「朝鮮語のすすめ」、1970年)。

 (筆者は民主党参議院議員・全国区)


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