【横丁茶話】

修身の授業

                     西村 徹


●修身は絶対平和の安全地帯

 リベラルの人々、修身や教育勅語など「もってのほか」の保守反動と考えている人々には申し訳ないが、小学校では修身を、国語などと切り離して特別な授業と思ったことはない。とりわけ中学で、私は修身の授業を嫌だと思ったことはない。理由の第一は、修身の授業だけは暴力と暴言から完全に自由な、唯一とはいわないが数少ない、寺院のように静謐な時空間だったからである。つまるところ授業時間中は絶対の平和を保持しえたからである。

 尋常小学修身教科書の中身は敗戦後のように平和主義的であるわけでなかった。それでも今も懐かしい記憶しかない。筒袖に兵児帯の、草履を履いた少年が棒を持って(いたかどうかはさだかでないが)泣きながら一目散に走っている挿絵があったと思う。狼少年が、ほんとに狼が出てきて逃げているところではなかったかと思う。本文は毛筆楷書体。挿絵は当時でさえ時代物めいた明治大正の絵だった。モノクロだから軍服の色はわからないが、たぶんビゴーの絵に出てくるような黒い肋骨服だったかと思う。

 軍人ものは記憶に残るものが多い。「木口小平は死んでも口からラッパを離しませんでした」については、尋常一年の六歳児にとって、なんとなくいいことらしいというほどの分別もつかなかった。じつは「金満貯太郎は死んでも巾着を離しませんでした」というほどのメッセージ性もなくて、「死んでもその場を動きませんでした」というに似た、つまるところ「死んでも」でなく「死んだから」ラッパを離せなかったという以上の意味はないはずである。何がなんだかわからないまま、話が至極単純だし、講談浪曲調の煽りに乗せられて覚えこんでしまっただけのところがある。

●広瀬武雄とサー・フィリップ・シドニー

 一方「杉野は何処、杉野は居ずや」の、カイゼル髭を生やした広瀬中佐の雄々しさには多分に心動かされた。わが身より部下の身を案じる、まさしくノブレスオブリージュの崇高と悲愴のドラマがこども心をも揺さぶったのであろう。これはなんといっても仁も義もある、絵にも歌にもなりうる美しい物語だった。修身でも習ったし唱歌でも習ったからなおさら印象は深かったような気がする。

 十六世紀イギリスの詩人サー・フィリップ・シドニーが戦場で傷を負い、水筒の水を飲もうとして、そのとき、瀕死の兵士が水筒をじっと見つめている視線を感じた。詩人は Thy necessity is yet greater than mine と言って、自分は一滴も飲まずに兵士に与えた。長じてそれを知ったとき真っ先に頭に浮かんだのが広瀬武雄の、この福井丸の物語だった。共産党の友人に話したら、「美談の主は軍人でなくてもいい」と言うが、私は「軍人であってもいい」と思う。

 これに似た話を小学校段階でずいぶん聞いた気がする。身を挺して溺れる学童の命を救って、そのために自分は死んだ女先生の話など、今でも東京の駅のホームで線路に落ちた日本人を救助して自分は死んだ韓国人の話があった。これは宗教倫理の究極であるらしく、玉虫の厨子には捨身飼虎の図がある。人間には滅多に出来ることではないから宗教理念なのだろうが、そして国家という魔物が利用する恐れには重々用心が必要だが、普遍的な隣人愛の理念として日ごろから接していれば、災害時など、いざというとき身体が自覚的な意志を超えて自己犠牲的に動くこともありうる。

●レトロな第三期国定教科書

 学齢が私より一年遅れて昭和八年入学から第四期改定で国定教科書は一挙ファシズム色の濃いものになる。国語読本も「サイタ サイタ サクラガサイタ」の色刷りになり「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」が出たりするのだが、私たちはまだ「ハナ ハト マメ マス ミノ カサ カラカサ」で、大正七年、第三期・大正デモクラシー期改訂のものであった。それに先立つ第二期国定教科書から国家主義的要素の大部分が削除されたものだという。昭和十六年第五期皇民練成のサクラ読本とは雲泥であった。

 だから軍国一色でもなくて、軍国美談といっても日清、日露までのもの。「十六年は一昔」、レトロ調ともいえる今は昔の物語だったから満州事変以後の同時代的切迫感は伝わってこなかった。満州事変の翌年に小学校に入って大正七年の教科書を習ったのだからアナクロニズムに戸惑うことも多く、蒼然たる教科書の内容と毎月届く絵本の生々しさとの乖離ははなはだしかった。国防色満載の講談社絵本にただよう硝煙のにおいは教科書にはなかった。タンクもサーチライトもガスマスクも殺人光線も高射砲も絵本では見たが教科書にはなかった。

 けっこう外国人も出てきた。フランクリンやジェンナーやナイチンゲールもあった。もちろん日本人が多かった。二宮金次郎は、銅像の印象が強いので、教科書に挿絵があったかどうかよく覚えていない。しかし孫の二宮尊道氏に会って実物が尊徳の肖像に似ていると思ったのは、肖像を教科書で見ていたからだろう。(肖像といえば高校の漢文教師が山田方谷の孫で、やはり祖父の肖像によく似ていた。)中江藤樹がどうとかこうとかも挿絵の記憶はないが名前だけは覚えている。高田屋嘉兵衛もいた。すべて今日でも顕彰さるべき人ばかりだ。オモテナシのお手本「鉢の木」は修身ではなくて国語読本だったろうか。

●修身はお話の時間

 修身は教訓の押し売りであるよりもお話の時間であった。お話は、どんなお話であろうが、コドモにはかならずおもしろい。教訓的であろうがなかろうがおもしろい。修身は聞いてさえいればよくて、筆記試験がなくて気持ちがゆったりだった。私の児童手牒の「学業と出席状況」には最初に「修身」、最後に「操行」。いずれも成績は出席状況を反映しているように見える。大きな病気で欠席の続いた学期は甲でなく乙になっている。こういうのもなまじ筆記試験によるよりも納得と思う。家で読む絵本などと併せて修身で学んだ物語はたくさんある。教訓も心のどこかに刻まれているのかもしれないが、そのために困ることはそんなにないように思う。

 中学に入ってからの修身の授業は、悪くないどころか、印象に残る良い授業のひとつだった。教科書があったのか、なかったのか、まるで記憶にない。試験もなくて勝手に向こうが採点したのだったと思う。体系もなくて、ちょうど教会の牧師の説教のように、その都度独立のお説教だったと思う。修身を担当する教師には絶対に暴力教師がいなかった。生徒の股間をさぐったりするような変質者もいなかった。西洋でなら宗教の授業なのだから当然だろう。

 予告なしに普段の教師でなく校長が入ってきたりした。校長というのは普通の教師より一段高い、えらい人に見えた。その、えらい校長が不意に修身の授業に現れたりして尋常でない新鮮味があった。校長というのは朝礼や式のときに一段高いところから全校生徒にむかって訓話をする人であって、五十人しか相手にしない教室になど入ってこない、先生以上の先生だったからだ。だから校長の授業だけは覚えている。

●校長は話が巧い

 校長というのは話が巧い。もちろん例外はある。高校の岡上梁という校長は話下手というより朴訥であった。朝礼で「八高が勝って四高が負けた。どちらもよく戦った」みたいで、どこか一本抜けていた。一説には「ボケている」とも言われたが、独特の風韻を賞賛する者もいた。俗塵を払って枯淡というか、教授の間では評判は悪くなかった。シャッポとして無害だったらしい。間もなく「定年の後は西田幾多郎先生とおなじ鎌倉に住む日を待望している」とのことだったから、やはり適度にボケていたのだろう。

 これは例外で、中学の上山という校長は本当に校長校長していた。よくあんな校長の見本みたいな校長がこの世の中にあったものだと感心する。近在の富農の養子さんで、自転車で通勤していたのだが、自転車の乗り方も乗馬のような姿勢だった。正門から入ってくるときは自転車でなかったが、その姿には謹厳粛々の威風があって、私生活などあるのかしらと思えるほど校長がサマになっていた。式の日は金縁めがね、燕尾服、白いチョッキが実によくきまっていた。勲章もあったかもしれない。

 蔭では「校長コレラで死ねばよい」などと語呂あわせ歌も存在したが、これは上山校長を特定するものではなかった。ハマグリという渾名を耳にしたことはある。よって来るところの本人容貌を活写するにはトルストイ級の筆力を要するので諦めるが、額と顎の張り具合からして、正面の矩形と横顔の梯形を合わせて四隅に適度の丸みを与えた場合、そのイメージを一語で捉える未成年者の感性は天才的と思うほかない命名だった。しかし渾名はどうやら校長のような遠い存在には馴染まないらしく、ほとんど流通はしていなかった。知らずじまいの者のほうが多いかもしれない。

 この校長が、あるいは修身授業でなくて朝礼の訓話だったかもしれないが、「ムカデより足の多い虫がいる。その名まえは不満足という」というような話をした。なるほどムカデは漢字で書くと百足で、不満足は二万足。落語家が言ってもよさそうな枕の振り方だが、どうしてどうしてこの校長の手にかかると演出効果満点、みんな思わずはっと息を潜めて耳を傾けた。結局は「足るを知れ」ということなのだが、途方もなくいい話を聞いたような気にさせる話しぶりだった。新聞の見出しでも本文を読まないとさっぱりわからないのもあるが、見出しだけで内容が言い尽くされているのがある。それに似ていた。

 もう一人、上山校長が転出して、その後任としてやってきた山田という校長は前任者ほどのオーラはなく、ただ他の教師より年輩というだけの感じだった。口ひげを生やしていてメガネで、サザエさんのお父さん磯野波平の顔を縦方向にすこし伸ばして頭髪をプラスしたような顔だった。ヒゲ、メガネ、猫背の点で、人間になってから全国を巡回して帽子を振った昭和天皇が日焼けしたようでもあった。話し方に威圧感はなく平俗で飾らず近づきやすい感じであったが話は珍しかった。珍しいので覚えている。前にも書いたことがあるが、フィヒテの話と漱石の話である。

 中身は47号で書いたので繰り返さないが、漱石については死ぬ際に「死ぬと困る」と言ったことへの批判であった。批判は不当であると当時すでに思ったが、それでも、通り一遍のお題目ではなくて、とにもかくにも漱石にケチをつけるのだから、それはそれで権威への挑戦という側面を持ってもいた。そしてさらにその批判に対する批判を喚起するだけでも一定の知的刺激があった。このように修身は一口に言っておもしろかった。ここで一つのことに気がつく。他の授業でも記憶に残るのは、すべて教課からはみ出た脱線の部分で、つまりは教師が修身のときのような「話」をした場合だけだったと。

●修身を見直しては

 校長の話には、あるいはネタはあったかもしれないが、とにもかくにも自前の話だったからだろう。いってみれば修身は唯一脱線だけで成り立っている授業だった。脱線だから、つまり自由だからおもしろかったのだ。敗戦で一切が悪として葬り去られた修身科には、国家主義の枠に関わりなく、体制を超えて価値の変わらぬ倫理項目も相当程度盛り込まれていた。今の政治家の劣化は修身科消滅の結果ではないかと、ふと思う。知事選出馬の可能性は2万パーセントないと言って出馬当選した政治家がいた。

 その知事が引っ張ってきたシロウト上がりの高校長は、国旗国歌法が制定されたときには強制しないと政府は約束したはずなのに、教員が国歌を歌っているかどうかチェックした。いちいち例を挙げると切りがないが、こういう卑しい政治家や、その手先は、総じて修身の授業がなくなってからの産物だ。外交官を除いて、たとえ政治家といえども嘘吐きはよろしくない。

 修身の骨組みは儒教倫理である。中国でも文化大革命で批林批孔によって儒教は衰えたが、今日再評価の動きがある。韓国はまだしも儒教の伝統が残っている。一つ日中韓で共同研究を行い、東アジア共通修身教科書を編んでみてはどうかと思う。考古学の発達によって歴史も一国史では埒が明かないと日韓共同の研究が推進されている。政治レベルでなく民間の文化交流として、こういう企画もいいのではと思う。 (2013/12/12)

 (筆者は堺市在住・大阪女子大学名誉教授)


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